6月4日(金)胸どん
例年より少し早いが、私の住んでいる地域が梅雨入りしたようだ。
朝ご飯を食べながら、見るともなくテレビ点けていたら、若い女性キャスターがそう告げていた。
窓の外を見ると、強くはないが雨が降っていた。これで三日連続だ。
雨は嫌いじゃない。傘をさすのも苦ではない。さらに言ってしまえば、濡れることだって嫌いではない。
しかし家を出るときには雨は止んでいた。ただ、空は厚い雲に覆われていて、いつまた降り出してもおかしくない様相だった。私はビニール傘を持って登校した。
授業は概ねいつも通りだった。体育の授業だけ教室での自習になったことが唯一のイレギュラーだった。
教室全体には終日気だるい雰囲気が流れていた。机に伏して寝ている人も多い。ただ、教師もそれをいちいち注意することはなかった。
それは梅雨のせいだけではないだろう。中間テストは先日終わったばかりだし、期末テストまではまだまだ日がある。そういう、中だるみの時期なのだ。
二時間目の途中から再び雨が降り出し、そこから午前中私はずっと窓の外を眺めていた。
午後になっても雨は止まなかった。昼休み明け一発目の授業は英語で、何度も寝てしまいそうになったが、交換ノートを書くことで意識をつないだ。
放課後私は少しやることがあり、すぐには帰れなかった。全てが終わったあと時計を見たら、五時近くであった。
窓際の自分の席にかけてあった鞄を机の上に置き、忘れ物がないか中身を確認した。
大丈夫、ノートはちゃんと入っている。
鞄のチャックをしっかりと閉め、手に持って教室を出る。
下駄箱で靴に履き替え、傘立てに向かうが、朝置いた場所に自分の傘が見当たらない。
紺色の傘と、赤と白のチェック柄の傘が二本差さっているのみ。
一応他の傘立てを見てみるが、私のものと思われるビニール傘はなかった。
誰かが間違えて持って行ったか、故意に持って行ったか、おそらく後者であろうと私は思った。前者であったならば、似たようなビニール傘が残っていないとおかしい。
私はため息をつき、とりあえず軒下まで進んだ。雨脚は強い。地面に落ちた雨粒が、跳ね返って私の足を濡らす。
このまま走って行こうか、でもノートは濡らしたくはないから戻って置いていこうか、でももし誰かに見られたら……
しばらく逡巡していたら、「どうしたの?」という声が聞こえた。
目の前に、大きな青い傘を差した彼がいた。
「え……なんで?」
「あ、いや……なんか困ってるのかな、と思って」
「じゃなくて。なんでこんな時間に?」
「ああ、ちょっとクラスでやらなきゃいけないことがあって……」
私と同じだ。
奇跡……とまでは言わないが、すごい偶然。
「傘、無いの?」
私が何も言わないでいると、彼がそう言ってくれた。
「あ、うん……持ってきたはずなんだけどね、無くなってた」
「入ってく?」
と、彼は少し傘を持ち上げた。
ありがたい申し出ではあったが、私は少し迷った。下駄箱を振り返る。
その背中に、私の心情を察した言葉がかけられた。
「大丈夫だよ、この時間ならもうほとんど人はいないはず」
誰にかに目撃されること、特に私を知っている人たちに見られるのは避けたかった。この年代の男女のあれこれは、すぐに噂が拡散する。
だから、この前のお弁当パンチラ事件――私が勝手にそう呼んでいるだけだけど――のときも、誰にも見られないように行動した。その行動が正しかったかどうかは別として……。
ただこの状況、誰かに見られているのであれば、もうすでに手遅れだ。あれこれ推察され、邪推され、尾ひれのついた情報が誰に向けてでもなく発信されるだろう。
私は数秒の逡巡の後、「じゃあ、お言葉に甘えようかな……」と言っていた。
一段上がった軒下のコンクリートから、ぴょんと跳ねるように地面に降りた。彼の隣に両足で着地。少し泥が跳ね、「おいっ」と彼が慌てて飛び退く。
しかしすぐに私が雨に濡れてしまうのに気づいて、「ごめんごめん」と戻ってきてくれた。彼は左側。私は右側。二人並んで校門をくぐった。
「きょうは自転車じゃないの?」
気づけば敬語なんてどこへやら。私の言葉遣いなんて、この時期の天気並に不安定。
「雨の日はいつも歩きだよ」
「あっ、そうなんだ……」
一体何を話せば良いのだろう。何度も二人で過ごしたはずなのに。先週だって休日に一日中出掛けたじゃないか。帰宅して母親に、休みの日にこんな時間に帰ってくるなんて珍しいねとまで言われた。
お互い無言のまま。
前までは沈黙も苦にならなかったのに……今は何か話さなきゃいけない気になってくる。というか話したいことはいっぱいあるはずなのに、それが口から出てこない。
「ちょっと、図書館で雨宿りしていきません?」
なんとかそれだけ絞り出すことが出来た。
図書館へは数分で着いたが、中には入らなかった。正確には入れなかった。すでに閉館の時刻を過ぎていたからだ。
私たちは正面入口の軒下に駆け込んだ。ちょうど建物が見えはじめた頃から、急に雨がどしゃ降りになった。
私は鞄の中からタオルを出して、濡れておでこに貼り付いていた前髪を、くしゃくしゃと拭いた。彼は傘を閉じ雨粒を払っている。
私の隣に戻ってきた彼に「はい」とタオルを差し出す。
「わたしが使ったやつだけど……」
「ああ、ありがとう。でもこれくらい平気だよ」そう言って彼はくしゃくしゃくしゃっと片手で髪の毛を払った。
水滴が私の方に飛んできたので、反射的に目を閉じ、顔を背けて腕でガード。「ひぇ」っと変な声が出てしまった。
彼に何かやられるなんて、始めてではないだろうか。私からはいつも何かしている気がするけれど。
「さっきの仕返し」彼が意地悪そうに笑っていた。ちょっとむかついたので、軽くふくらはぎ辺りを蹴ってやった。
雨の勢いはなかなかおさまる様子を見せなかった。
「なかなかおさまらないね」
私の頭に浮かんでいたことを、そっくりそのまま彼が言った。
「センパイは門限……とかないの?」
「うち?うちには特別ないかなぁ。まぁあんまり遅くなったら何か言われるかもしれないけど」
「ふーん。うちもそんな感じ」
彼と同じことを考えて、同じ時間を共有すること。そして同じ環境に生きているということを確認する。
雨に濡れて時間が経ち、少し肌寒くなってきたが、なんだか胸の奥はとても暖かかった。
彼がぶるっと震えるのが目に入った。
「大丈夫ですか?そろそろ行きましょうか……」
「え、雨全然おさまってないけど……」
私は彼のその言葉には答えず、「そうだ、これ書いたんで渡しておきます」
と、鞄から今日の授業中に書いた交換ノートを取り出し渡した。
「ああ、ありがとう」そう言って彼はそのままノートのページを開こうとしたので、「ちょっと!私がいないところで読んでよ!」と、彼の胸にグーでパンチを入れた。
「ぐっ」ちょうど息を全部吐き出したタイミングだったのか、彼は一瞬呻いた後むせ込み始めた。
「あっ、ごめんね。それじゃ私は行きますね」と、私は雨の中に駆け出す。
「え……あ、ちょっ……傘は……」
まだ呼吸が整わない様子で途切れ途切れ言う彼に、私は立ち止まって振り返り「私の家、ここから走って二、三分なんで大丈夫です。ここまで入れてきてくれてありがとうございました」と両手を口に当てて叫んだ。
私は再び駆け出す。
まだ彼が何か言っているように感じたが、雨音で聞こえなかった。
やっぱり雨は嫌いじゃない。たまには濡れるのだって、悪くない。