4月27日(火) 脛きっく
4月27日(火)
あの保健室事件――そう、事件と呼んで良いだろう――から、私はしばらく彼と会うことはなかった。
それは、保健室事件から翌週の昼休みのことだった。連休前で、学校全体に浮ついた雰囲気が流れていた。
私はお弁当を持って教室を出て、廊下を歩いていた。すると前から三人組の男子生徒が、廊下の幅いっぱいに広がって歩いてきた。真ん中が彼だった。
その時には、もう彼への苛立ちは全くなかった。ただ、もし校内のどこかで会うようなら、関わるのは止めようと思っていた。というより、関わることもないだろうと思っていた。
私は廊下の隅で立ち止まって少しうつむき、彼らをやり過ごした。少し離れた後、背中に視線を感じたが、気のせいだと無視して、そのまま歩いていった。
階段のとこまで来て、さあ登ろうと一段目に足をかけたとき、「46キロの子」という声が聞こえた。それで一気に頭に血が上るのがわかった。
彼だった。
声に聞き覚えがあった。
階段の一段目にかけていた足を戻し180度回転。
距離30センチまで彼に詰め寄り、「おい」と、分かりやすく怒気を含んだ声音で言い睨みつけた。
二回目の出会いのほんの一言で、彼への嫌悪感は一気に再沸騰し、ハイスコアを更新した。
「なんなのあんた?」
「いや……違うんだよ……名前が、分からなかったから……それで……」
歯切れの悪い言い方だった。視線も泳いでいた。
保健室で会ったときのような傲慢な雰囲気とは違うことに、少なからず拍子抜けした。
そして、次の言葉に私はさらに驚かされることになる。
「それで、なに?」
「いや……あの……携帯持ってる?その……LINEのIDとか、教えてもらいたくて……」
そう言ったのだ。理解出来なかった。
「は?」
「いや……だから……携帯、スマホを」
「それは分かってる」
彼の言葉を遮って言った。
それは分かってる。
分かってるのだ。
携帯とかスマホとか、そんなのどっちでも良い。彼は私になんて言った?LINEのIDを教えてもらいたい?なんで?なぜ?Why?そこが全く理解出来ない。
三秒考えてみたが、答えは出なかった。私はバカではないが、私以外の誰であっても、その答えを出すことは出来なかっただろう。
というか、いや……いや……って口癖?
敬意や感謝の意味がある「礼」って漢字は、「いや」とも読むらしいけど、まさか私を敬っているわけではないよね?
「私が聞きたいのは、なんで、私が、あなたに、LINEのIDを教えなきゃいけないのか、ってこと」
なんで、私が、あなたに、のところを強調して言った。
「いや……今度、一緒に出掛けたくて……」
軽くパニックになった。また「いや」って言ってるよ、なんて思う余裕もなかった。
パニックになった弾みで、私は思わず彼の左スネをつま先で蹴っていた。
「いてっ!」
彼は先日と同じリアクションを披露した。それをボキャブラリーが無いなぁ、とは攻められない。
屈んでスネをさすっている彼に、さすがに私は「ごめんなさい」と謝罪した。彼の言葉に驚いて、自分でも無意識に足が出てしまった。決して故意ではないのだ。そして、きちんと謝るときは謝る、私は分別をわきまえた女の子なのだ。
数十秒、彼の痛みがある程度引くのを待って、私はもう一度聞いた。その間に、私の心も落ち着き冷静になっていた。
「それで、なんでID聞きたいって?」
「一緒に出掛けたくて」
まだ少し痛みが残っているのだろう。彼は嘆息してから、先ほどと同じ台詞を言った。
「私、携帯持ってない」
正直に答えた。そう、私は携帯を持っていないのだ。
携帯電話……購入を考えたこともあった。親からは、中学入学時や未成年誘拐事件がニュースで流れたときなど、何度かその話があった。しかし、それを私は「要らない」と突っぱねたのだ。私にとって、電話やメールは煩わしいだけ。ゲームも興味がない。娯楽なら図書館で本を借りて読めば良い。そんな理由から、持っている必要を感じなかったからだ。
最近の中学生は、持っていない子の方が珍しい。私の通う学校でも、もちろん持っていない子も私以外にはいるようだが、それほど多くはいないだろう。おそらく全体で八割位は所持していて、私と同じ中学二年女子に限って言えば、所持率は九割を超えるのではないだろうか。
彼も私が携帯を持っていないとは予想していなかったらしく、言葉には出さなかったが、え?という言葉が貼り付いたような表情をしている。そこには少なからず落胆した色も浮かんでいたように見えた。
そんな彼の表情を見て同情したわけではないが、気づいたら「出掛けるときは私から電話するから。番号を教えて」と言っていた。なぜだろう?
言ってしまってから、はっとなった。「ちがうちがう、いまのナシ!」と撤回しようと思えば出来たのかもしれないが、そうはしなかった。
後から無理矢理理由をつけるなら、なんで私と出掛けたいのか?どこに行くのか?なにをしたいのか?そういった疑問の答えを知りたいから、といったところだろうか。
私は、たまたまポケットに入っていたボールペンを取り出して彼に渡した。
おおよそ女の子が持っている可愛らしいキャラクターの物ではなく、昔流行ったロボットアニメのキャラクターのボールペンだった。
それを受け取った彼は、一瞬きょとんとしたが、私の顔とそのボールペンを何度か視線が行ったり来たりした後、妙に納得したような表情を浮かべた。ホント失礼なやつ。何考えてるのか丸分かり。
「それで番号書いて。あ、紙がないや……」
辺りを見回すと、廊下の壁に何枚か部員募集のポスターが貼ってあるのが目に入った。
その中から、余白の多かったバスケットボール部ポスターの端を破り、彼に渡した。
彼は無言でポスターの切れ端に十一桁の番号を書き、ボールペンと一緒に私に返した。私はそれをポケットに入れ、「それじゃあ待ってて。タイミングは私が決めるから」と言った。
彼は無言で頷いただけだった。私はそれでその場から立ち去ろうとしたのだが、一つ言い忘れていたことがあった。
「体重で呼ぶのはやめてくださいよね。センパイ」
にっこりと、皮肉たっぷりにそう言ってやった。
そのときの彼の表情も、後から思い出しても笑える。酸っぱい梅干しを食べたときと、なにか臭いもののニオイを嗅いだときを足して割ったような、絶妙に不思議な表情をしていた。
窓の向こうに見える校舎の時計を見た。
けっこう時間が経ってしまっていた。お弁当を食べる時間がなくなってしまう。
私は、一段飛ばしで階段を駆け上がった。