週末と奴の家
お久しぶりです。たくさんの読者さんが増えていたようで驚いてます。
「いざ……!」
「気を付けてね、しっかり勉強見てもらってきなさい」
「分かってるよ」
私はいつもよりも膨らんだスクールバッグを掲げた。よたよたと玄関先でふらつくも、無事に家を出ることができた。週末にテスト勉強をするという私の真剣ぶりに、母さんは「時間の許す限り缶詰でやってきなさい」と言って、生半可な勉強を許さない構えだった。
本日は日曜日、天下の休日である。私はお気にのTシャツに大きめのパーカーを羽織り、最近買ってみたスキニーなズボンに違和感を覚えながら、青山家に向かって歩き出した。
普段着にスクバはダサいと笑うなかれ、スクバが一番物が入るのだ。お気に入りのリュックが痛むのを避けるべく、私は大人しくスクバに教科書を詰めていた。そんな不格好な様子の私は、ジョギングするおじさんの目すら気になってきて、心持ち早足で仁の家に向かった。
「――あれ、インターホン?」
そして彼の家の門をくぐろうとした時、ふと真新しい機械がついているのに気が付いた。黒ずんだ古い木製の門に、カメラとボタンがついたインターホンが生えている。そのアンバランスさに私はなんだかおかしくなって、笑いをかみしめながらボタンを押した。
『はい、青山ですが』
そして受け答えをしたのは、仁でも幸さんでもない、上品な女性の声だった。
「……あ、明美さんですか?私です、志龍空です」
『あぁ、空さん。もう着いたのね?どうぞ入って頂戴』
「はーい、お邪魔します」
案の定、私を迎えてくれたのは仁の母親である明美さんだった。落ち着いた声に促され、私は仁の家に到着した。
門をくぐり、玄関までの道にある飛石を乗り移りつつ歩いていると、玄関先に黒猫がいるのに気付いた。寝そべっているのは、半ばこの青山家に飼われているスミというお猫様だ。
私を見ても微動だにしないその姿は、おそらく人間のことを微塵にも恐れていないのだろう。私は「お邪魔します」とだけ告げると、こちらは変わりない玄関の引き戸を開けた。
「よう、いらっしゃい、空」
「お、よっす仁、おはよう。お邪魔します」
「まあ上がってくれ」
するとそこには仁が待っていた。どうやら出迎えに来てくれたようだ。気が回る彼は私のスクバを持ってくれた。私が両手で持ってよろついたバッグを、涼しい顔で持ち上げている。私はやっぱりすごいなと感心して、彼の力こぶを人差し指でつついてみた。
「……どうした?」
仁が不思議そうに聞くので、私は「力持ちだなって」と返した。
荷物を先に仁に運んでもらい、私は階段を上がる仁と別れ、記憶を頼りにリビングへと向かった。曇りガラスの引き戸を開けば、明美さんがお茶を飲みながらテレビを眺めていた。
「明美さん、お邪魔してます。今日は勉強を教わりに来ました!」
私がドアを開けたのに反応した明美さんにそう言えば、彼女はにっこりと笑って頷いた。
「えぇ、昨日聞いたし、さっきも仁がお茶と茶菓子を運んでいたからそろそろかと思ってたのよ」
「あ、そうだったんですね」
明美さんは頷くと、「勉強頑張ってね」と言って視線を戻した。私は「はい!」と返事をした。
そして少々の達成感と共に、階段を上がって仁の部屋に向かうのだった。
……さて、
「……仁~、どの部屋?」
「ここだ、すまん、言ってなくて」
彼は一番奥側の部屋から顔を出した。「ごめんごめん」と言って中に入れば、なんだか懐かしいような目新しいような雰囲気の部屋だった。
全体的には「シンプル」といった印象の部屋だった。ベッドや学習机、本棚以外は、剣道部の備品やら窓際に多い小物くらいしか物がなかった。本棚を見れば、少々の漫画本の他はアスリート向けの雑誌や指導書、盆栽関係の本が並んでいる。そんな六畳ほどの部屋の真ん中には、手ごろなサイズのちゃぶ台と二つの座椅子が並んでいた。
「……なんか、シンプル……。てか仁ってベッド派なんだ、てっきり布団派かと思ってた」
「こっちのが寝心地が良いんだ、俺は」
「へー……」
どうしてか、そんな彼がおかしくてクスリと笑った。
ーーー
目の前では、以前配られた数学のプリントを前に唸る空の姿があった。昼過ぎにやって来た彼女だったが、もうそろそろ16時に差し掛かろうとしていた。三時間近く唸っている彼女は、よほど数学が嫌いらしい。
「……空、そこはそのまま計算すると公式に当てはまらない」
「え……ちょっと待って…………あー……?あ!そういうことね!」
何度目かの助け舟を出すと、空はしばらく不思議そうに首を傾げ、何とか正解を導き出した。今回の範囲の難所を潜り抜けたからだろう、空はホクホクと笑顔を浮かべつつ茶をすすった。
「……え、もう16時!?」
「あぁ、ずいぶん集中したな」
茶菓子を口に放り込みつつスマホをつけた空だったが、今の時刻を見て仰天した。何かがまずかったらしく、空はじいっとスマホの画面を見つめている。
「……ま、まだ英語も理科もしないとなのに」
そう言って彼女は、持ってきたスクールバッグに目を向けた。中からはかなりの量の参考書が顔をのぞかせている。確かにこの量を今から片づけるのは至難の業だろう。
「えー……今から全部は……え~……」
「まあ、とりあえず今日は数学だけでも」
「私を見捨てるというの?」
「いや、そういうことでは……」
俺が数学だけに集中しようと言えば、空は覇気のない目つきで俺を見た。俺がたじろけば、空は机に突っ伏して「やばいぃ……」と唸った。
しかし焦ってもどうにもならないのがテストというものだ。俺は空の肩に手を置いて、押し上げるように彼女をまっすぐ座らせた。なぜか空は「へへ……えへへへ」と暗い笑みを浮かべていたが。
「じゃあとにかく、数学は一度ここまでにして化学をやるぞ。問題集は持ってるか?」
「……持ってきてる……けど」
俺がそう聞くと、空は緩慢な動きで問題集を取り出した。なぜ教えられに来ておいてそこまで気乗りしていないのか、と不満を覚えたが、思った以上に今日終わらせられる範囲が狭くて落胆したのだと思い至った。
これが推薦入学で自信過剰気味のとある後輩なら俺も雷を落としたろうが、今日の相手は彼女である。俺は怒りよりもいたずら心が湧いて来た。
俺はのんびり問題集のテスト範囲を確認する空の後ろに回り、あまり強くない力で座椅子越しに彼女を抱きすくめた。
「――空、真面目にやる気がないみたいだな?」
「ひぇ」
ぼそぼそと俺が耳元で呟くと、空は体を強張らせて素っ頓狂な声を上げた。心なしか耳の方に血が集まってきている。
「真面目な生徒ならちゃんと教えるつもりだったが、そうじゃないなら勉強はやめにするか?」
「べっ……勉強終わったら、一体何を……」
「したいこと、あるのか?」
「……そ、それは……っ!?」
そこまで言って、俺は腕をほどいて再び空の前に陣取った。空はぱちくりとこちらを見ている。
「ほら、早くやるぞ。試験まずいんだろ」
てっきり空は照れて振りほどいてくるんじゃないかと思っていた俺は当てを外され、じんわりしてきた雰囲気を霧散させるためにテストに話を戻した。一方で、対面の空の返事は鈍い。
「……無念」
そんな声が聞こえた気もした。もしかすると間違えたかもしれない。
ーーー
私が仁に抱き着かれ、さらには耳元でのささやきに屈してより一時間が経った。数学での疲労と仁の思わせぶりなセリフのせいで、私はちっとも集中できていなかった。
なんだ、したいことはあるのかって。そりゃああるとも!やっぱり恋人になったのに未だキスもできてはいない、友達の延長を飛び越えるかのようなあれはしてみたいと常々思っているさ!
何回目かの逡巡を経て、私はまた向かいに座る仁を見た。彼は何食わぬ顔で化学の問題を解いており、視線に気づくと「分からないのか?」と聞いてきた。
「いや、何でもない」
「それなら良かった」
また彼は視線を戻した。私も一緒に視線を戻す。
そして問題に集中……NAOH……。いや、できない。いつもは何となく理解しているつもりの化学記号がアルファベットにまでほぐれ、つるつると私の脳内を滑っては抜けていった。
「……ね、ねえ仁」
「ん?なんだ、空」
私はたまらず仁を呼んだ。もう今から集中するなんて無理!と思い至ったからだ。私は思い切りが良い。
「ちょっと休憩したいかな~、なんて」
「そういえばもう一時間くらい経つか。一回休むか」
「お、おう」
私がそう言うと、仁はすんなりシャーペンを置いた。二人揃って背もたれに体重を預ける、ゆったりとした時が流れた。
さて、ここからが重要である。まだやるつもりだった科目を残しているが、正直私はこれから集中するなんて芸当はできる気がしない。そしてここは彼氏の部屋で、そんな彼と二人きり。
――これはなだれ込むべきなのでは。あいや、そんな大胆な真似はまだする気は無いが、ずっとずっと気にしているキスくらいならできそうな雰囲気である。
ここはなだれ込むべきだ!私はそう思った。
「――ヒ、ヒトシはなんかシタイことある?」
「どうした、片言になって」
「さ、さあ?」
訝しむ仁だが、ここで負けるわけにはいかない。いざ、一線を越えるのである!オトモダチの延長を越えるのだ。
「口が寂しいとかそういう」
「……言っていいのか迷うが、遠回しになってないぞ」
「っさい。もう思いつかないんだよ、余裕なくて」
「見ればわかる」
「察してんじゃんか……」
私は恨むように彼を見れば、彼は「悪い……」と言って目を逸らした。机に身を乗り出すように顔を近づければ、仁はゆっくりこちらを向いた。
「……い、一回、しよう」
「……そうだな。今度は不意打ちじゃなく、真正面からキスするか」
「言葉にするなよ……!」
「いやだって、実際二回目だろ……あぁいや、すまん」
仁が火に油を注ぐようなことを言い、私は急に前の風邪の時の不意打ちを思い返してたじろいた。仁は慌てて謝った。ただ、しばらく向かい合ってあーだこーだと言い合えば、だんだん硬い空気がほぐれてきたような気がする。二人して黙って、じりじりと距離を近づけた。
――ドス、ドス、ドス
「「!?!?」」
そこへ突然、階段をゆっくりと上がる音がして、私たちは固まってドアの方を向いた。
『あ~疲れた。仁ただいま~、空さんいらっしゃい』
「ああ、おかえり」
「おかえりなさい」
ドアの向こうから幸さんの声が聞こえ、彼女が自室に入る音が聞こえた。私は「はぁ~……」と息をついて、机の上に肘をついた。
一拍。
――ドス、ドス、ドス
「「!!??」」
『空さん、夕飯食べていきます?』
今度は明美さんが階段を上ってきて、仁の部屋の前で私に問いかけた。
「あ、大丈夫です。夕飯前には帰ります」
『わかりました、根を詰めすぎないようにね』
「はぁい」
それだけ言うと、明美さんは階段を下りていった。
残されたのは、微妙に残った熱と年とも言えない空気だけだった。
「――ねえ仁」
「なんだ、空」
私はあることを確信し、仁に向き直って告げた。
「仁ん家だとなんか間が悪くなるから、せっかくならちゃんとしたデートの時にしない?」
仁は大人しく頷いて、私たちは二人で漫画を読むことにしたのだった。