二年生とは
学園物だという意識を強く持っていきたいですね。自戒なんですけれども。
いや、これはやはり私が“キス”を意識しすぎなのだろう。
元より私は、彼の家に上がり込むという大胆不敵な行為のために、彼と自然にいちゃつけるように努力していたのだから。もはや人前で手を握ることなどたやすいのである。ならばマウストゥ―マウスなど、恐るるに足らないはずだ。私は自分の過剰な意識を仁の顔のせいにしたことを恥じた。やつの顔は悪くない、むしろ良い。
私は久々に勝山と一緒に登校しつつ、ぼんやりとそんなことを考えた。ちなみに、前回腕を組んで帰宅してから、とうに一週間以上が経過している。彼と手を繋いだり放したりを繰り返しているうちに、私は自分の肩に力が入りすぎていることに気づいたのである。
「――でよお、その店の唐揚げがまずいのなんのって」
「ほーん、そうか」
勝山が横で何か言い散らしているが、私の頭にはあまり入っていない。唐揚げがいかにまずかったについて熱弁しているが、そもそも裏路地の薄暗い店に入る方が悪いのである。隠れた名店というのは、リピーターが隠しているにすぎないのだ。本当に隠れているところに行ってどうするというのか。
同じバスケ部の後輩を何人か引き連れて食堂巡りをしている、という彼の話を遅れて理解し、私は今度その後輩たちにとっては苦行であろう旅の出発に出くわした時には、胃薬を渡してやろうと心に決めた。
勝山はまだ何かを熱心に話している。
「それでだ、志龍。今週号から連載始まったラブコメがすげえ良くてな」
「はいはいすごいな。てかお前、そんなの読むような男だったか?」
「あんまり読まないが、今週のはすげえお色気路線なんだよ」
「そっちかよ!楓がいんだろ!」
「いや、別に見たらダメじゃねえだろ……四六時中しかもそんなとこ見ねえし」
「……まあ、そうだな」
別のことを考えていたからか、勝山にツッコミを入れられてしまった。私もうっかりしたものである。
遠めに見えた勝山の後輩らしき男たちが、道路をはさんだこちら側にまで響く声で「ッッス!!」と挨拶をした。運動部の習慣は分からない。
ーーー
「おはよ、志龍さん」
「わ、おはよ。珍しいね、教室いるの」
教室に入ると、勉強ができる真面目っ子の割には朝来るのが遅めな後藤さんがいた。何があったかと言えば特に何もないらしい。「たまに早起きできちゃったりするよね」と彼女は笑った。
「今日は何かあるかもしれないなあ」
「なによ、人の早起きを悪いことの前触れみたいに」
後藤さんはムッとした顔で腰に手を当てた。なかなかどうして堂に入っている。するとのっそりと後藤さんの後ろに桐野さんが姿を現し、後藤さんの目におわん型にした手を被せ、自身のおわんに彼女の頭を押し付けた。
「だ~れだ~?」
「いやきりのんしかないじゃん」
後藤さんが呆れたように言うと、桐野さんは「ありゃ」と気の抜けた声で言って手を離した。彼女はその温和な顔に精一杯の申し訳なさそうな顔を浮かべると、ぺち、と手を合わせて言った。
「冴子、お願い!数B教えて!」
「え~、この前もだったじゃん……」
「いきなりすぎて分かんないのよあれぇ……」
後藤さんは呆れたようにため息をつき、桐野さんは何度も「ね?ね?」と言って後藤さんに教えを乞うていた。しかし、私にはそれ以後の会話など聞き取ることは出来なかった。
私は近くの席にもたれかかるように手を突いた。
「――勉強が…………まずい」
何度も言うが、別に私は特別頭がいいわけではない。試験の前には徹夜をしたり、賢いやつを質問攻めにして平均点を少し超えたり超えなかったり、ということを繰り返す女だ。
そしてそんな私にとって、高校数学という摩訶不思議な文字列は、勢いよく締められる真綿のような殺人的科目と化していた。しかも2年になってからは、今までひいひい言いながら解いていた問題とはまるで違う計算になりやがったのだ。いっそ明日の自分にすべてを任せてやりたいような、今の私には荷が重い問題ばかりに見えるのだ。
そして明日の私もまた、次の日の私に頼むに違いない。そんなことを繰り返していると、たちまち来月半ばにある……もう始まるまで一か月を切った、2年最初の定期試験に直面するだろう。
「……さ、避けねば……」
今年は後腐れ無いように遊ぶためにある年なのである。勉強について不安になっていては、おちおち最近始めたサンドボックス系のゲームにも集中できやしない。必ずや、平穏な心で某ネズミの国を再現するのだ。
私も桐野さんのように、勉強のできる後藤さんに勉強を教わろうか……ニコニコ顔で後藤さんの頭を胸元に埋める桐野さんを見ながらそう思っていると、教室のドアが開けられる音がした。
「おう青山、おはよ」
「あぁ、おはよう」
ドアの近くの席に陣取る谷口が、手に持っているスマホを振った。その視線の先には、私が最近その口を睨んでやまない、勉強もスポーツもできやがる男、仁が立っていた。朝練が終わったらしい彼は、少し乱れた髪を特に気にもせずに席に向かった。私もそれを追う。
「おはよ仁」
「あぁ、おはよう」
まるでさっきと同じ挨拶の彼の前に陣取ると、机に今度は両手をついて顔を近づけた。
「仁、勉強教えてくれ」
「まだ中間は遠くないか?」
仁は涼しい顔でカバンからスマホを取り出しつつ、差しっぱなしになっていたらしいイヤホンを引き抜いた。
「数学がまるでわかんないんだよ……。このままだと徹夜して肌を荒れさせてしまう、助けて仁!」
さっきの桐野さんのように手を合わせると、仁は「なるほどな」と呟いた。
「分かった。じゃあ週末とかで良いか?」
「え、週末?普通に放課後とかじゃ……あ」
「俺は部活があるからな、放課後はほとんど無理だ」
そう言えばそうだった。前からたまに教えてもらっていたが、その時は帰り道の途中でそう言う話になったり、テスト週間で私が必死になっていた時ばかりだ。
「……まあいっか、まとめて聞いたら良いし」
「そうだな。なら週末うちで良いか?」
「うん。そっち行くな」
「おう」
こうして私の成績維持のもくろみは半分ほど達成された。仁は根気強いので、同じことを聞いても許してくれるのだ。私の壊滅的な数学の成績も、なんとか人並みになるに違いない。
気分も上向いてきた私が教室の窓ぎわに集まっていた由佳たちの輪に入ると、なぜかみんなして私に半目を向けてきた。
「ほんとにまだなの?」
「なにが?」
由佳に聞き返すものの、彼女ははぐらかして「分からないならそれでいいよ」と言って、最近買うか悩んでいるという17種類の化粧水について意見を求めてきた。楓、皐月ともども、とりあえず聞いたことのあるメーカーのを勧めておいた。由佳は「やっぱり?」と言って笑っていた。
ーーー
「――まだってそれかー」
私はハタと気づいた。それは五時限目の国語の時間の最中だった。西先生の低い声を聞き流しながら、私は朝礼前に由佳に聞かれたことの真意に気が付いた。
言われてみれば当然か、と思える。家に普通に入れるのなら、そりゃあ高校生にもなれば道の一本や二本踏み外すこと請け合いだ。
「いやでもなあぁ……成績のがヤバいし……」
いつそんな雰囲気になるか考えながら勉強をしていては、中間テストで血(の色の点)を見ることになるかもしれない。それだと後々まずいことになるのは、既に高校受験で身に染みて分かったことだ。
……いや、終わってから労い合いつつそんなムードになるというのも、なんだかそれっぽくていいんじゃないだろうか。
「――志龍、では続いて読みなさい」
「――ぁえ、あ、はい」
西先生が教科書に目を向けながら私を指した。私は慌てて教科書に目を戻す。
「……すみません、次どこからですか?」
「17ページの第三段落から。君は少し長めに読みなさい」
「そんなぁ」
私が開いていたのは13ページの見開きだった。