ある春の出来事
その日私は走っていた。
全てはかの名高き暴君、邪知暴虐のくそったれこと体脂肪を駆逐するために。
雀の涙ほどの春休み、その全てを返上しても構わない。そんな覚悟で両足を動かし、腕を必死に動かした。
「くそーーーー!仁のアホーー!」
私は雄たけびを上げると、原動力となった憎きあやつの顔を虚空に思い浮かべつつ、川沿いを全力疾走した。
私たちが仲を直してしばらくのことだ、仁は私によく気を回すというか、相談をしてくるようになった。
良いことである。私も不満はすぐ言うし、仁もお小言を挟んでくる。健全な関係である。
しかし同時に、彼は少々やっかいな性質を兼ね備えるようになった。
「空、ここのケーキが美味いらしいぞ」「あそこの店、期間限定のスイーツがあるらしい」「買ったお菓子が美味かった。いるか?」
「いる」
そう、ご機嫌取りである。
私は甘いものを食わせば機嫌が直るような安い女ではないのだが、どうにもあいつはこの餌付けに手ごたえを感じているらしい。隙あらば私の口に砂糖を投入する。
まあ、別に悪い気はしない。私とて一端(曰く付き)の女子、甘いものは好物だ。でも頻度がよろしくない。
機嫌は良くなってしまうのだが、二日に一回のペースで何らかのお菓子を恵まれていては私にも笑えない状況がやって来るのである。
肥満体型が。
「あれ、空、太った?」
「え?」
その爆弾発言は春休み前、学年末試験が済んでしばらく経った日に放たれた。
昼休みに紬と皐月の三人で話していた時のことだ。私がギクッとして動けないのをいいことに、目の前にいる皐月は紬にも意見を求めた。
「ねえ、空やっぱり太くなってない?」
皐月が言うと、紬は私のお腹に手を当ててぐにぐに揉んだ。私はいたたまれない気持ちで溢れて虚空を見つめていた。
「うわ、これはヤバいよ空。デブってわけじゃないけど、ぽっちゃりに足突っ込みかけてるよ」
「ぽっちゃ……!?」
「うん?まあむっちり体型みたいな感じか、これは。身体絞る前の一年みたいになってんね。空の好みってこういう感じだったん?」
紬は全く容赦も遠慮も無く私の腹を批評した。私の顔からは血の気が失せている。皐月は紬に混じって私の胸をまさぐっていた。これはもう無視でいいだろう。構う方が怖い。
「失敬な……俺の好みはスレンダー美女だ……。それよりむっちり……むっちり……」
「うわ、なんか素直に好み言われるのも、それはそれで後悔するな……。てか空ってそんな無茶苦茶食べるってわけでもなかったくない?どしたの?」
紬は少し舌を出して私のストライクゾーンに引いたものの、腹を揉むのをやめて聞いていた。皐月は遂に私の席の後ろに回って肩に首を置き始めた。
「……お菓子を食べすぎた……?」
私は最近ますます勢いを増している仁の餌付けについて告白するのだった。
「――は゛あああああぁぁぁ……終わったあ……」
私は今日の分のダイエットメニューを遂行し、だらだら流れる汗をタオルで拭いながら尻もちをついた。ゴール地点に選んだ近所の公園は静かで、私一人が騒いだところで迷惑になる人もいやしない。私は遠慮なくベンチに寝そべって息を整えた。
「――お?」
そんな時にスマホに通知があった。何事かと画面を寝そべったまま覗けば、ダイエットメニュー考案者の紬からの連絡だった。
『どう?終わった?』
「エスパー?なんでこんなタイミング良いんだか」
紬はやけにいいタイミングで連絡してきた。「痩せたくば走るべし」と言い放った彼女にとってみれば、人のランニングのペースも簡単に分かるものなのかもしれない。
汗でほんのり湿った指で苦労しながらスマホに文字を打ち込んだ。
『ちょうど終わったとこだよ。やっぱ本格的に動くと疲れるね』
『空は帰宅部だもんな。ちゃんとストレッチしとくんだぞ』
『言われたやつね。あいあい』
『ん。そんだけ。じゃあ私練習戻るわ』
『あーい、頑張ってね』
女子バスケ部の紬はどうやら練習の合間に連絡してきただけだったらしい。ただの偶然かあ、とさっきの紬への過大評価を取り消しているうちに体力も戻ってきた。
いい汗をかいた、これで私もいずれは元の体型を取り戻せるに違いない。私はそう確信を深めると、くつくつと湧き上がってきた笑みをかみ殺しながら、仁の餌付けにはもう屈しないと誓うのであった。
ーーー
「――で、見事にリバウンドした、と。私的にはそんな変わってない……というか、出るとこ出てきた風に見えるんだけど」
目の前で楽しそうな顔を浮かべて由佳は言った。紬は横でコーンマヨパン片手に不満そうだ。
「私は動けば痩せるって言ったけど、食べたら太るんだからな?」
「分かってるよぉ……これも仁が悪いんだよ……」
私が運動を始めたことを聞きつけた仁は、それでも餌付けを止めなかった。それどころか「運動してるんだし、少しは構わないだろ。俺も部活終わりにはがっつり食うからな」と甘言をのたまい、私の目の前に脂肪と糖の塊を差し出すのである。
おまけにニヒルな笑顔付という爆弾だ。私は屈した。動いてるから無問題ということで、せっかく痩せたにもかかわらず微妙にスレンダーじゃないレベルに脂肪がついたのである。なんか女性的な体つきに近づいたのはご愛嬌だろう。
「青山君に言えばいいのに。控えてって」
「で、でもさ……」
私がいい返せば、由佳は訝しげに私を見た。
「でも?」
「――ふ、太ったとか言うの、恥ずかしくない?」
「ない」
私は仁に頭を下げた。「太るからせめて頻度を減らしてくれ」と。仁は言った。「……少しくらい肉がついた方が……」
私は激怒した。仁に掴みかかりぷよりとしたお腹に手を当てさせ、「これでもかぁ!」と叱責した。
仁は折れた。「無理なダイエットはやめてくれ」と。幸さんが断食の末に倒れたことがあり、それ以来ダイエットには否定的らしい。
この日以来、私は健康食・運動生活ナイスバデー計画を実行し、図らずも女を磨いていくことになる。
これはそんな、二年生の春のお話だ。




