親と私とあっけなさ
私は青山家の厨房に入るべく、愛しい黒い猫毛にまみれつつある服を畳んでリュックに入れた。別に帰って嗅ぎはしない。
スミさんとチャチャと戯れた部屋と襖一枚離れた部屋で、私は服を着替えていた。流石にお猫様でも滅菌消毒は成されていまい。台所にこの服で赴くのは矜持がゆるさないのだ。
「そういやさぁ、食べたいものある?」
向こうでキャットフードを片しているはずの仁に話しかける。キャットフードに封をしているらしい彼は、物置の襖をしめつつ「そうだな」と言った。
「何があるか分からんし、なんでも」
私は持ってきた動きやすくてお気に入りのジーンズを履くべく、タイツを脱ぎ捨てながら苦い顔をした。
苦い顔をすると同時に、幸さんが襖の向こうで仁の頭をはたいた。
「バッカお前、女子は何でもいいが一番嫌いな生き物だぞ。母さんも言うだろ、何でもいいなら猫の糞を出すと」
仁の母さんも過激な人のようである。仁は「そんなものなのか」と困惑したような声を上げた。私は上着とジーンズを着替え終えたので襖を開けた。
「まあ、洗い物とか出すのもなんですし、フライパンだけで済むようなものにしますね」
私がそう言うと、幸さんは「できる女子だねえ」と呆れたような感心したような声を上げ、仁は「姉さんが苦手すぎるだけだ」と本音らしきものを漏らし、幸さんから良い肘を頂戴していた。
世の弟たちが姉嫌いなのは、きっとこういうことなのだろう。
そういえば幸さんは私が男だったことを知っているのかしら、と思案しつつ廊下を抜ける。点きっぱなしのテレビの前に幸さんが転がるのを尻目に、私は青山家の台所に足を踏み入れた。
そこは廊下やさっきいた部屋と比べ、いくらか新しいつくりになっていた。大きめの流しに三つもあるIH、見たことない調理グッズは、私をいくらか怯ませた。
「……何を作るんだ?」
仁が私の顔をやや覗き込みながら言った。私は「失礼」と冷蔵庫の扉を開いた。先ほど幸さんの言っていたシーチキンを始め、ところ狭しと食材が並んでいる。むしろなぜあの二択だったのかは謎である。
私は仁に向かって親指を立てた。
「ふふふ、炒飯」
みんな好きだろ?炒飯。
私は鼻歌を歌いつつ、ハムと卵を取り出した。
ーーー
カチャカチャとスプーンと皿がぶつかる音が大人しく響いている。私と仁、それに幸さんはそれぞれ炒飯を口に運びつつ、食卓を囲んでいた。
幸さんは頬を膨らませながら何度も頷いた。
「美味いなぁ、空さんはやっぱり料理ができるのだな」
「ありがとうございます」
幸さんは私の炒飯と言うよりは焼き飯と呼ぶべきシロモノをしきりに褒めた。私はこそばゆい感覚と共にはにかんだ。
炒飯が女子力の高い料理かどうかについては目を瞑ろう。美味いからいいのだ。
「これなら嫁に来てもらいたいなあ」
「え!?」
「……」
思わず口の中の米を噴きそうになる一言に、私は心の準備をする間もなく襲われた。急に出た嫁という言葉にたじろぐ私と、横で炒飯を見つめる仁を幸さんは見比べた。
「作る飯は美味しいし、君らは仲良いだろう?比べるようで悪いが、仁が連れてきたこの中でもダントツで雰囲気が良いしな」
「え、や、あの……」
「姉さん、あのなあ」
私と仁が声を揃えると、幸さんは「あぁ、悪い悪い」とばつの悪そうな微笑みを浮かべた。
「まだ早いよな、うん」
――まだ早い。私も仁も、その言葉になんの反論もできずに炒飯を食べ進めた。
そうか、私もそうだが仁もそうなのか。私はそんなことに思い至り、嬉しくなって仁を肘でついた。
仁は大いにむせた。
「――ただいま〜。良い匂いねえ」
「おお、母さまかそれに父さんも。おかえり」
リビングの扉を開くのは、長髪を後ろで結ったキツネ顔のマダムと――
「仁、そこの娘さんは」
――厳しい顔をした、ややガテン系の見た目のおじさまだった。仁の父さんは確かめるように仁に目配せした。
私はどうやら、仁のかつての彼女らよろしく、家に上がりこむ女子と同じようなことになってしまったらしい。
「――はじめまして、お邪魔してます。仁君とお付き合いさせてもらっています、志龍空といいます」
私はしかし、そんな生半可な気持ちで彼と別れていった女とは違うのだという意地と共に、丁寧に仁の両親におじぎをした。
先ほど仁と炒飯を炒めながら話すと決めた、私が元男であるという話題が、私と恐らく仁にも落ち着かない気分をもたらした。
しかし断じて引きはしない。私が元男だというのは恥じるべきことなんかじゃないのだから。
ーーー
仁の両親は本日は二人で買い物に出かけていたらしい。予定では夕方まで楽しんでくるはずだったそうだが、お目当ての店が臨時休業で家で寛ごうという話になったらしい。
私は目下何となく居心地の悪さ……というか、怖いような気分になっている。原因は食卓を挟んで私と仁の向かいに座る仁のご両親へと相対しているである。母親は明美さん、父親は隆之介さんという。
私は自分が仁の恋人であると打ち明け、「でも」と前置きしたうえで一呼吸置いていた。
「でも、私は……普通の子とは、違うんです」
私がそう言うと、仁の母さんと父さんはもちろん、ソファに寝そべる幸さんまでもがこちらを見た。仁が動じた様子もないのを横目に確認し、私は口を開いた。
「私は……元は男なんです」
「知っていますよ?」
「え」
私は思わず仁の母さん――明美さんを見つめた。横では隆之介さんが余っていた炒飯をパクつきつつ何度か頷いている。
私は仁にも視線を向けた。言ってあるなら言っておいてくれたらいいのに!しかしまあ、仁の性格なら家族に打ち明けていても何も不思議じゃないのだろう。彼はほんのり微笑んで私を見返した。
私は脱力し、「……本当ですか?」と声を出した。明美さんは「秋ごろには言っていましたよ」と言った。秋となると、文化祭ごろか。幸さんが家族の間で噂になっているとも言っていたし、きっと私みたいに家でいじられていたのだろう。
……よくデートなんかも行っていたのだから。
「最初は疑ってたのだけどね。仁がずっと言うものだから、クラスのママ友グループで聞いてみました。『おかしなことを聞くけれど、男の子が女の子になるものかしら』って」
「ぐ、グループで?」
「ええ。そしたらそういう子がいるって聞いて驚きました。大変な病でしたね、空さん」
明美さんはそう言うと私の手を取った。私はだんだんと大丈夫だという実感に押寄せられ、女性らしい手付きの中に仁のような剣だこのある明美さんの両手に安心していた。明美さんは続けた。
「幸からも印象の良い子と聞きました。これからよろしくお願いしますね、空さん」
その言葉に隣の隆之介さんも頷いた。寡黙な人らしい彼は、明美さんに流れを委ねているらしい。
「は、はひ」
明美さんの柔らかな態度に危うく咽ぶところだった。私は意図せず仁の両親との対面を済ませたことに満足やら安堵を感じつつ、冷めてきた炒飯を頬張った。
母さんに隠さないでくれと言っておいて良かった。
おかげで、私は理解してくれる人が周りに生まれている。
ーーー
空がいくらか柔らかい顔になって帰った後、俺は居間で親父と母さんから引き止められた。
「仁、少し良いか」
「……なんだよ、親父」
空の作った飯を機嫌良く口に放り込んでいた親父は、仏頂面を強張らせた。
「……良い子だな」
「そうだな」
親父が空を褒めるので、すぐに俺は頷いた。
「彼女は元は男だったそうだが、本当に良いんだな?」
親父は古式ゆかしい思考を持つ。きっと『中身は男なのだから、男同士じゃないか』などと言うのだろう。
俺は正直な気持ちを吐露した。
「空は見ての通り女だ。元は男だなんて、心の持ちようで変わるだろ」
母さんは親父の横で微笑んだように見える。紅茶の入ったマグカップが口元から離れれば、母さんの口は真一文字に引き結び直されていた。
「心の持ちようか……」
親父がポツリと言う。俺は「現に空はもう女子としか思えない」と付け加えた。
「そうでもなければ彼女になんてしないものね。ありがとう、付き合ってもらって」
母さんはそう言って、親父に「ほら、つまんないことに拘らないの」と言った。
「つまらないかなぁ」
親父が言うと、母さんは頷いた。
「だって、もう空さんは女の子よ?逆に、純粋な女の子でも空さんより失礼な子だっているじゃない」
「……結局、そうなるよなぁ」
「私だって、すぐに理解したってわけじゃないですからね?」
「……そうかい」
俺はそれだけ聞いて居間を出た。
空はもうどうあっても俺の恋人なのだ。最近ではますます女子らしさに磨きがかかって来ている彼女に対し、俺はその気持ちに応えようと心に決めた。
俺の為かと期待するのは仕方がないと割り切った。
「仁、シャキッとしろよニヤついてるぞ」
「……そうか」
風呂を洗ってくると居間から出ていった姉さんと鉢合わせ、俺は表情を引き締めた。




