青山仁の煩悩
青山にも百八の破廉恥があります。
勝山から海水浴場のメンツを聞いた時から、今日という日が精神力を試される日だということが分かっていた。
最近は周囲が志龍を狙えとうるさいのだ。男子志龍の印象が薄いうちに可憐に変貌したやつは、なんとも自然に女子として扱われるようになっていた。中学が離れた私学だったことも原因かもしれない。
しかし、俺は一度女性を裏切った男である。なので、あいつの本意でない関係に踏み切る気は無い。
……無いのだが、好ましく思っているのもまた事実だ。だから、俺は耐えなければならない。
志龍の妙な可愛らしさに。
回想するまでもなく現在もそれは振りまかれている。
今日、俺は特に海ではしゃぐ気もなく、荷物番でもしながら筋トレでもしようかと思っていた。何を隠そう俺は泳げない。
西出が日比谷と荷物番をすると言うので、俺はひとまず黙想した。焼けた砂と空気を震わす熱線が、俺の惰弱な精神を焼き直している。
そんな俺のもとに誰かが歩いてきたのか、足音が迫ってきた。嫌な予感がして半目を開ければ、そこには直視を避けていた志龍らしき女子がいた。腰に巻いたパレオ?というのがはためいて、ちらちらと脚が見え隠れしている。俺はそっと目を伏せた。
「なあ、青山」
「なんだ?」
お前は海には行かないのか?そんなつもりで聞いたが、彼女は小さくため息をついた。
「海水浴に来てまで、そんな汗流して正座する?」
それは全くその通りだ。泳げないからこうして黙想しているんだ、と言いかけたのだが、何だか格好がつかない気がしてやめた。ひとまず正座を切り上げ立ち上がる。
彼女は少し身をそらして俺を見上げていた。何がそんなに楽しいのか、彼女は俺の体をまじまじと見つめている。
こうして対面しているのに、目を逸らすのは不自然か。俺はそんな言い訳がましい思いで彼女の水着姿を観察した。
俺の胸あたり程しか背のない彼女は、その細い体を惜しげも無く晒していた。
案外着痩せするらしい彼女は、その白い柔肌で布を押し上げ、上目でこちらを窺っていた。真っ赤になった顔色は日焼けでなければ何なのだろう。俺はしばらく彼女から目が離せなかった。いつも強固に視線から守られた素肌は、俺が思っていたより衝撃的だった。
しばらく言葉を失っていると、彼女の方から口を開いた。
「――い、一緒に、海、行こうぜ?」
だからなぜそんなに頬を染めるのだ。どうして不安そうにこちらを見つめるのだ。俺は思わず「いいぞ」と返した。
もしかすると本当に、志龍は男に恋ができるのかもしれない。などと、都合の良いことを考えた。
志龍にそう言うと、彼女は「よ、よーし、行くかー!」と言いながら上機嫌に歩き出した。俺は志龍が他の連中に言われて来ているのか?とも疑ったが、そういうわけでもないようだった。ともすれば彼女は俺を目当てに呼びに来たのかもしれないと、またもや俺は期待した。
俺を先導する彼女は歩幅が小さい。足場の悪い砂浜をひょこひょこと体を弾ませながら歩く彼女にはすぐに追いついた。周りには人も多く、クラスの連中は少し見ただけでは見当たらなかった。
さてどうするか。自分が泳げないことをどのタイミングで告白するか悩んでいれば、志龍は二人で海に入ろうと言い出した。またも不安げな色を瞳に宿した彼女に庇護欲を掻きむしられつつ、俺は頷いた。
だが、そう言っても彼女は海を前に立つばかりだった。どうしたのかと思っていると、彼女は目をそらした。
「――なぁ、オレのこれ……水着、どう?」
「どう……か」
今一度彼女を見る。さっぱりとした柑橘類を思わせる彼女は、落ち着きながらも体のラインの見える水着を纏っていた。腰のパレオで足元は隠れがちだが、結び目がこちらにあるため俺の視点では隠せていない。目に毒――俺はずっとそう思っていた。
自分の感性に率直になるならば、非常に似合っている。耳まで赤くしている志龍自身の姿もあわさり、俺は柄にもなく心臓を暴れさせていた。だが……良いのだろうか。女子として踏ん切りがつかないとも言っていた彼女に、女子として誉め言葉を送るのは良いのだろうか。
否、否。彼女自身がこうして水着を着ているのだ。それを褒めないでどうするのか。俺は自分が志龍に女でいて欲しいとどこかで思いながらも褒めると決めた。
「――似合ってるぞ」
しかしまさか「大胆で良いが、それに照れてるのが可愛らしい」などと言えるわけもない。俺は当たり障りのない言葉でお茶を濁した。
志龍は口をニマつかせながら「そっか」と言えば、サンダルを脱いで波に足をつけた。波打ち際で十分らしい。
「うひぃ、久々だときもちーもんだな。青山も入ろうぜ」
「……おう」
あまり入りたくはないのだが。他ならぬ彼女の誘いとあらば、俺は受けても良いだろうと感じた。久しぶりに入った海は確かに気分のいいものだった。俺は志龍から水着選びの時の愚痴を聞かされつつ、なぜそこまでして露出の高いものを選んだのかについて、密かに考えを巡らせた。
ーーー
志龍はしばらく足を冷やせば満足したらしい。ざぶざぶ水を蹴りながら浜に上がっていった。
「ちょっと、オレ……と、トイレ行ってくる」
「――付き合うぞ」
なるほど満足したのではなく単に催しただけらしい。しかし、志龍はどこか抜けているし、容姿も整っている。あらぬ不安を覚え、俺は付き添うことにした。なにより俺はナンパ除けだ。
「へっ?あ、あー、うん。ありがと」
「気にするな」
志龍は少し早足で歩きだした。俺も横について歩く。志龍が気付いているかは不明だが、夏場の男の目というものは無遠慮だ。まあ、元男だしわかってはいると思うが、結構こいつは見られている。なので俺は付き添っている。
「ちょっと待ってて。ごめんな」
「俺が勝手についてきたんだ。気にするな」
人ごみで混雑するトイレの前で、俺は志龍を見送った。パレオというのは不便そうだなとぼんやり立っていると、後ろからひじか何かで誰かに小突かれた。
「――久しぶりですね」
「そうね。元気してる?肝無しくん」
そこには柊さんが立っていた。彼女は挑戦的な水着を身に着け、いつもの美しい顔をいたずらににやけさせていた。
「どうしてここに?」
「どうしてってそりゃデートでしょ。私が男漁りとかすると思って?」
「……早いですね」
確かに彼女であるならば引く手には苦労しないだろうが。それにしても早い。蟻地獄という異名は一体なんだというのか。
俺がそう言うと、柊さんは半目になった。
「……そんな尻軽じゃないっての。デートってのは方便、今日は友達と遊んでんの」
「あぁ、なるほど。すみません、気も回らず」
どうやら勘違いをしたらしい。こういう時には素直に謝るべし。彼女が求めた彼氏像の一つだ。これは全く正論である。
「ま、君はちょっと頭固いからね。仕方ない。それより君は何してんの?」
「……友達を待ってます」
俺がそう言うと、柊さんは意地の悪い笑顔を浮かべた。まさしく悪女のような、かつ人を惑わす妖精のような笑みだった。
「へーえ、付き添いってことは女子でしょ?なに、好きな子?」
「……似たようなものかと」
俺は図星を突かれて少しどもった。振ったばかりの人にそういう相手がいると言うのは遠慮してしまい、ハッキリとは口にできなかった。柊さんはその瞳を一層キラつかせた。
「煮え切らないねえ、君も。好きなら好きでいいじゃないか」
「柊さんは気にしてないんですね」
柊さんは声で俺を気圧すように笑った。
「ハッ、離婚後の法律でもないんだから、別れてすぐ好きになっても良いじゃない。私だって今そうだし、前言った乙女心を考えろって、恋しながらでもできるじゃない」
「引きこもれと言われましたが」
「あんなの腹いせよ。なに、君は全部言わないと動けないわけ?」
柊さんは苛立ちを隠さずに言った。俺は返事を奪われた。
「正直にぶつかんないと、次の子だって逃げるわよ。それよりさっさと行かないと――この前の体育祭の時の子、危ないよ」
柊さんは俺の背後を見て表情を変えると、さっさと言葉を連ねてしまった。俺は促されるまま振り向くと、人ごみの向こうには志龍が立っていた。
そして彼女は複数の男から言い寄られていた。
情けなくも、俺は彼女へのナンパを許してしまったのである。
これは青山悪くない。




