無知の知
ブクマ付いていて驚きました、ほんとにありがとうございます!
かのギリシアの哲学者ソクラテスは言った。「無知の知を知れ」と。自分が何も知らないことを知るのが、成長を促す一歩であると提唱したのだ。
「すもももももももものうち」のような趣の言葉だが、これは確かに的を射ていると俺は思う。
俺は今、自分がどれだけの者か理解して打ちひしがれているところだ。
「お姉ちゃん、なに自分の全裸眺めてんのさ」
「……うん、ちょっと俺の無知を知ってね」
「はぁ?」
俺の後ろには、俺と同じく一糸まとわぬ妹夏生の姿があった。
話はほんの三十分ほど前に遡る。
・・・
「お風呂ってお前……本気か?」
俺の部屋からアンニュイな雑誌らが撤去されて間もなく、夏生は俺と風呂に入りたいと言ってきた。
改めて言うが、俺は昨日まで男だったのだ。昨日どころか、夏生は小学生の時分には「お兄ちゃん汚いから一緒には入りたくない」と俺との入浴を拒否した過去を持つ。
そんな彼女が一緒に風呂に入りたいなんて言うとは、俺は信じられなくて聞き返した。
「うん。だってお姉ちゃんだし」
動機がよく分からない。
小学生の夏生さんの言い分から考えると、女になった俺はもう汚くはないということなのだろうか。別に変わらないとは思うが、彼女ひいては女性には思うところがあるのだろう。
男は気持ち悪い的な。
「まあ確かに今はお姉ちゃんだがな。しっかり俺の中身は男で、つまり俺はお兄ちゃんなわけで――」
「はいはい。良いから一緒に入ろう。理由はちゃんとあるからさ」
ふむ。どうやら汚く無い以外の理由があるらしい。首を傾げていると、夏生はため息と共に語った。
「お姉ちゃん、どうせ女の子の手入れとか知らないでしょ。放っとくと目もあてらんないだろうから、今のうちに教えとくの!」
「は、はい」
鬼気迫る夏生に気圧されて頷く。女子の有無を言わさぬ口ぶりには敵う気がしない。あと身長差。
夏生はバレーボール部に所属しており、女の子にしては大きめの体躯と過剰な筋力を持つ。その身長差は目測で十五センチほどにもなる。そんな勝ち気な少女に言い寄られて、ノーと言える男はいるだろうか?いやいない。
夏生は俺の手を引きずんずん歩く。その後ろ姿は機嫌が良さそうで、見れば足はステップを踏んでいる。
こんなに上機嫌な夏生を見るのはちょっと高めのプリンを上納した時くらいなので、少し新鮮だった。
「じゃ、脱いで」
「……そうか、脱ぐのか」
風呂場に着いて何をするかといえば、脱衣である。
しかし良く考えれば、目の前には家族とはいえ異性(精神的に)がいるのだ。
気圧されて来たが、手入れの仕方とやらを聞いて断れば良かったと後悔した。
「なにまごついてんの?ていうか逃げないでよ」
「いや……やっぱいい。手入れの仕方だけ教えてくれればそれでいいから……」
そう言うと、夏生は絵に描いたようにぶすくれた。見透かすような猫目が刺さり、いたたまれない気分となる。
「そっか、お姉ちゃん恥ずかしいんだ?」
にんまりと合点がいった笑みを浮かべた夏生は、両手をわしゃわしゃとうごめかせながら詰め寄ってきた。
「お、おい。なんか変だぞ夏生?やめろ、それ以上近づくな」
「そう言われて近づかないでいられるかー!!!!」
「ほやぁあああああああ!?!?」
まさに電光石火!バレー部の強靭な筋力にものを言わせ、夏生は壁に寄りかからせるように俺に組み付いた。というか奇声がでた。男の時では野太かったであろう声が可愛らしいものになっていて、思わず赤面した。
「ぐふふ……小さい……柔らかい……やっぱ最高、お姉ちゃん好き……」
俺の首元に顔をうずめた夏生はもしゃもしゃと喋る。それが妙にくすぐったく、身悶えるように恥ずかしい。
「んやっ、やめろ夏生。なんかくすぐったい。てか、そんなキャラじゃなかっただろお前ぇ……!」
必死である。妹の変貌に頭がこんがらがる。お兄ちゃん時代にもこうして甘えて欲しかったと残念な気持ちになる。
「だってこんな理想のお姉ちゃん……やばい可愛い……!くすぐったいとか萌える……」
夏生は我を失っているようだ。まあ抱き着いている分には無害だし、特に何をされる訳でも無い。しかしいつまでこれが続くのだろう?そう思案していると、救いの手、いや足音が響いてきた。
「バカやってないで早くお風呂入っちゃいなさい!あと夏生、ちゃんとソラに教えるのよ?」
母さんは偉大であった。母さんの一喝により夏生の身体は電気が流れたように一度震えると、バツの悪そうな顔を浮かべる。
夏生はすごすごと俺から身を離すと、物悲しそうに服に手をかけ、母さんは扉を閉じて遠ざかっていった。
……んん?
「ばっ!夏生、お前目の前でっ!?」
慌てて顔を背ける。が、しっかりと目には夏生の下着姿が焼き付いてしまった。妹は全く躊躇なく俺の目の前で服を脱いだ。信頼出来るお兄ちゃんとして守ってきた一線を超えたようで、俺は敗北を感じた。
「お姉ちゃんはもう女の子だからこれくらい慣れないとね。てか、自分でもブラとか着けるんだから見慣れといた方がいいよ?」
ずいずいとまた夏生は寄ってきた。ふわりと感じる女の子の匂いに、俺の男は猛烈に照れてしまう。十五年以上狙われもしない純潔を守り続けた俺には、例え肉親であっても刺激が強かった。
「お姉ちゃん、いい?これくらいなら学校でもあるんだよ?それにあたしは家族だし、ちゃんと慣れて」
そうか、学校。明日から行かねばならない学校でも、体育の前などはこういうことも有り得うるはずだ。一人だけ別室になる可能性もあるが、少なくとも男と同じ所では着替えさせてはくれないだろう。というか、男のメンタルで思春期男子の好奇の目に晒されるのは辛い。
俺はこういった状況を避けられないという事実に打ちのめされた。
「……ぜ、善処します」
「善処じゃなくて、絶対!ほら、こっち!!」
そう言って顔を挟み込むように掴まれ、無理矢理に夏生に向き合わされた。それと同時に目に飛び込んできたのは、「こっち見ないで。キモイ」と拒否され続け、数年間目に入れることを避けてきた妹の肌である。
正直に言う。男でなくて良かった。でないと情けないことに、俺は夏生に渾身の金的をお見舞いされる羽目になっただろう。
動じない夏生と俺の空気感の差が恥ずかしさに変換され、顔が熱くなる。
「ふふ、まあ勘弁してあげる。でもさっさと慣れないと困るのはお姉ちゃんだからね」
「……お、おう」
「じゃ、私先脱ぐから」
「え、ちょっ!?」
夏生はそして俺の目の前で真っ裸になった。
詳細は省くが、俺はひどく赤面した。
「はい、じゃあお姉ちゃんの番。逃げないように、私見てるから」
辛うじてタオルで身を隠した夏生は出入口を塞いで鍵を閉めた。これで俺は晴れて風呂に入らざるを得なくなったわけだ。
しかし、これで俺が男のままだったとしても、服を脱ぐ気にはならないだろう。
なぜか?肉親に見られながら着替えるのが恥ずかしいからだ!
これではまるで見世物である。
「あーあー、早くどっかの誰かさんが脱いでくれないと、あたしこんな恥ずかしいかっこのままだなあ~。風邪ひいちゃうかもしれないなあ~」
「ぐおお……お前ぇ」
こちらをからかう視線が腹立たしい。しかし睨み返そうものならその他もろもろが目に映って非常に危険なので睨み返すのも難しい。ジレンマである。
「……わかったよ、脱ぐ。脱ぐからな」
「はいはい」
「……よし」
俺は改めて気合を入れる。実は朝から着替えていない。何となく、自分のものであったとしても女子の裸を見るのには抵抗があったし、なんか認めざるを得なくなる気がして遠慮していたのだ。だが、気になるのも事実。
俺も男だ、一思いにジャージに手をかけると、シャツごと一気に脱ぎ捨てた。
俺にはなかったはずの質量を感じる。見る分には眼福であろう光景が広がっているのを感じつつ、俺は下も脱いだ。
「おぉ……」
夏生は感嘆の息を吐く。夏生に倣い、俺は自分の体を見下ろした。
何というか、エロいな。主観で見てるから、全体像がどうなっているかは分からないが、結構胸も膨らんでいそうだ。夏生よかあるのではなかろうか。突然出現した丘は壮大であった。
しげしげと見つめていると、夏生が静かなのに気付く。何とか大事なところを意識しないように見れば、夏生は夏生で自分の胸を眺めているらしかった。
「……どうした?」
そう問うても、夏生はうつむいたままだ。
「……お姉ちゃん、でかいね……」
「……あぁ、いや、うん」
さっきまで俺は男物を着ていたので、着痩せしていたらしかった。元気のなくなった夏生にかける言葉も見つからず、俺達は脱衣室にて立ち往生する羽目になったのだった。
・・・
さて、そうして冒頭に戻るわけである。
鏡に映った自分を見て、まさか固まる日が来るとは思わなかった。それくらい、全身を見ることへの衝撃は大きかったのだ。昨日までの細身ながらも「男」であった各所は、もう見る影もなく「女の子」らしく変化していた。ありていに言えばそそられる、そんな具合だ。
おっかなびっくりな顔をする女の子が見つめ返してくる。こちらをうかがうような大きな瞳は、女の子らしい顔と相まって俺であるという実感を薄れさせた。
どうやら俺は、想定していたより女性らしくなっていたようだ。男らしく扱ってもらおうと思っていたのだが、そうはしてくれないだろうなと、自分を正しく認識した俺は深く感じ入った。
女子は気持ち悪がって遠巻きにするかもしれないが、男とは今まで通りにいかなそうだなぁと実感したのであった。
「お姉ちゃん、なに自分の全裸眺めてんのさ」
「……うん、ちょっと無知の知を知ってね」
「はぁ?」
「何でもない。それより、手入れがどうとか言ってたよな?なんか違うの?」
「まるきり違うよ!えぇと、まずはね――」
女は長風呂である。
中学の修学旅行では変なのと思っていたが、これほどのことに気を付けるとは思わなかった。
どうしてそこまで髪を洗うのか。ちゃちゃっと体をこすって何が悪いのか。そこってそんな洗い方したの?夏生の肌を極力見ないようにしながら教えを乞うのは大変だった。
あーだこーだと説教され、俺は普段の倍以上の時間をかけて身を清めた。明日からは絶対時短しよう。
「明日から、これ絶対やらせるためにあたしとママどっちかと入ってもらうからね。慣れてきたらお姉ちゃん一人でいいけど、男の時みたいにやったら分かるから。そん時はお姉ちゃんの弱みばらしてくよ」
「……はい」
女の勘というやつだろうか。どうやら俺はこの七面倒くさい洗い方を強要されるらしい。
その後俺は湯舟で月のものや洗顔、保湿、エステなどのご高説を賜り、ぐったりとしながら風呂を出たのであった。
風呂での約一時間は夏生に慣れるのには十分であったらしく、風呂を出たころには普通に夏生のことを直視していた。
まあ兄妹仲が良くなったと理解しておくが、自分の適応力にも驚いた一時間となった。
「……明日か」
そして、ところ変わってベッドの上で、俺は不安と戦っている。
部屋にあるものは全て男物。だが、ここにいるのはどう見ても女の子である。そして明日クラスメイトに受け入れられなければ、俺の高校生活には陰りが差すだろう。
「夏生はいけるって言ったけどなぁ」
慰めの一種にしか聞こえない。「可愛いから!いけるいける」などと、あそこまで疑いなく言ってくるのはかえって疑わしく思えてきた。というか可愛いからいけるって、完全に女の子として生活していきそうな理由ではないか。男なのに哀れ女の子になってしまったというテイを望む俺としては複雑なことだ。
父さんは「空は空らしくいたらいいよ」と、夕飯後に語り掛けてくれ、母さんは「変なのにくっついちゃだめよ」と娘へのアドバイスを投じて俺をへこませた。
「なるようにしかならないか」
絶対的に父さんからの言葉を信じることにして、今日一日の疲労に押しつぶされるように、俺は眠った。