後藤冴子という女
ちょっと鬱めの話が入っております。
後藤さんを追い、オレは階段を駆け登る。朝礼前だけあって、屋上に通じるこの階段に人気は無い。しかし、オレ以外の足音が小さく響いているのが聞こえる。きっと後藤さんに違いない。オレは尚のこと足を早めた。
三階を過ぎ、もうひとつ踊り場を抜ければ屋上に続くドアの前に出るというところで、後藤さんの足音が止まった。踊り場の壁には、ドアの窓から射す陽の光と、それを遮る後藤さんの影が映っていた。
「……なによ」
後藤さんの声が聞こえる。
いつもの刺すような溌剌さは影を潜め、頼りない印象を持つばかりだ。
「……気になった。なんでオレをそこまで目の敵にするのか。オレは後藤さんに何をした?」
声がトゲのあるものにならないよう、気をつけながら問いただす。
男の時、後藤さんとは全く接点が無かった。そればかりか、クラスの男子も万場以外はほぼ話したこともないような女子だったのだ。何かしたような身に覚えなど無い。今にして思えば、男が苦手だからだと分かるが、なぜ苦手なのかは分からない。
「――なにも、してないわよ」
そう答える後藤さんの声はますます弱々しかった。どうしたものかと階段を上がろうとすれば、ひとつ足音を立てただけで「来ないで」と釘を刺された。
「……ごめんなさい。私、男の人が本当に無理なの」
「……なんとなく、分かるよ。でも、どうして?」
そうでなければ、ここまでのことになるものか。しかしオレは苛立つことはなく、むしろ後藤さんという女の子と話をすべきだという気になっていた。
しばらく待つと、後藤さんはか細い声で話し出した。
「話、聞いてくれる?」
「おう、聞く」
どういう心持ちなのかは分からない。
が、彼女はオレに話をする気が起きているらしい。
「私、母子家庭なの。お父さんは今刑務所にいるの。……お父さんと言っても、物心つく前には離婚しちゃってるんだけどね、うち」
その語り出しは、想像以上に重苦しいものであった。
「お父さん、稼ぎが少なくて、たくさん借金してたんだって。それを隠してお母さんと結婚して、私ができて、でも、借金取りの人が家に来てバレたんだって。すごく怖い人で、それだけで、まともなとこじゃないってお母さんは分かったみたい」
後藤さんは声も絶え絶えに話す。彼女にとって、それだけ大きなトラウマなのだろう。踊り場の影はたちまち小さくなっていった。
「それからはお母さんの実家が怒り狂ってさ、強引に離婚させたんだってさ。聞いた話だから、全然実感わかないけどね」
「……そう、なんだ」
これだけで、後藤さんの今の状態は相応に大変だと分かる。しかし、これだけでは後藤さんの父親が囚人となり、後藤さんが男性不信に陥る過程は分からなかった。
後藤さんは続ける。
「それから、お母さんは働きだした。パートとかかけ持ちして、なんとか私を育ててくれたの。私はお父さんがいないのが不思議で何回か聞いたけど、お母さんが辛そうにするからやめちゃった」
「……うん」
「で、私が中学に上がったくらいの時かな。……お父さんが、家に来たの」
「え、」
「すごいよね。引越しまでしてたのに。パート中のお母さんを見て、付けてきたらしいの。でも、お母さんはその時はドアも開けずに追い返した。お父さんがスゴく怖い声で叫んでたけど、私は部屋の奥で泣いてたから何言ってたかは分からなかったよ」
後藤さんの影はいよいよ見えなくなり、彼女が座り込んだのだと分かる。
オレも踊り場に背を向けるようにして座った。
「でもさ、お母さんはいつでも家にいるわけじゃなくてさ、次は私一人だけの時に家に来たの。……私もバカだよね。鍵もかけずにゴロゴロしてたんだもん……ぅ……」
「……ご、後藤さん?」
後藤さんは遂に声を震わせ出した。思わず問いかけるが、後藤さんは答えない。
ただ、オレが行ってもいいのかという葛藤で、オレはその場から動けなかった。
「だいじょうぶ……聞いて。それで、私、お父さんに会ったの。茶色くなった服を着て、髭も髪も伸びっぱなしで、脂だらけのお父さん。もしかして仲良くなりに来てくれたのかなって思ったけど、すぐそんなことないって分かったよ。……興奮してたの。目を見開いて。冴子、冴子って、ずっと、話も聞いてくれなかったっ……」
「――……」
オレは何も言えなかった。そんなことが自分に起きると思っても全く現実感が湧かず、きっと後藤さんの過去のことを語る資格は無いのだろう。
「そのままね、そのまま、お父さん、私のこと押し倒してね、……は、はじめてキスなんてされてね、わたしは泣いたけど、ぜんぜん声なんてでなくてね、でもね、壁がうすかったから、隣の人が来てくれてね、は、はじめては、守れたんだ。でも、でもお父さんは、わたしのこと乱暴にして、連れてにげようとして、通報して来てくれた警官のひとに捕まって、それで、そのままパトカーに乗せられて、おかあさんが帰ってきて、ギュッてしてくれた、んだ」
「……それで……」
後藤さんが男性不信になったのは、その父親との事件がきっかけなのだろう。
とうとう泣き声をかみ殺すこともしなくなった彼女の声を聞きながら、オレは「気にしすぎ」だと言った自分を恥じた。
「……お父さん、ヤクザの人にお金借りてたんだ。それで、逆らえずに言われるままになって、色んな悪いことしたんだって。詳しくは教えられなかったけど、きっと、聞きたくもないようなこと。……私、お父さんにあんなことされたのが忘れられないの。今でも思い出したら、お風呂で血が出るくらい擦ったり、何回も何回も吐くくらいなの。……へへ、男子にこんなこと話すの、初めてだなぁ……っ……」
「――後藤さん、ごめん」
オレは耐えきれずに階段を上がり、後藤さんに頭を下げた。彼女にトラウマがあると聞いていたが、それを知ろうともしなかったオレが恨めしい。知っていたら、さっきも違う風になっただろう。しかし、後藤さんはそんなオレに「気にしないでよ」と言った。
「私、志龍くんが女になったのに、今日みたいな割り切りかたできるの、すごいと思ったんだよ?みんなに変なこと言われたりしてるのにさ、全然動じてなくて、すごいなって、私なんて、一時期不登校にもなったし……ずっと、うじうじしてさ、男の子に慣れたくて、共学の高校入ったのに、治せなくてさ……」
「いや、オレなんて大したことないんだ。家族だって支えてくれたし、友達だってできたんだ。でも、後藤さんはその時、一人だったんだろ?……ほんとにごめん。オレ、さっき言ったこと、全然分かってなかったよ」
オレは、男とか女だとかを気にしないでいることで割り切った。しかし、後藤さんはどうだろう?男と女の違いを嫌でも意識せざるを得ない傷を負った彼女は、どう割り切れば良いだろうか?
「……ううん、元気もらった。私、だって、うじうじしてないで、割り、切る……」
きっと、オレに話してトラウマが蘇ったのだろう。後藤さんは今にも崩れそうな表情を浮かべて、自らの肩を毟るようにして掻き抱いた。
そんな彼女を見て、ただ見ているだけでいられるだろうか?まして、今までの不満をぶつけることができようか?
オレは自分の心の赴くままに彼女を抱きしめた。セクハラも厭わぬ葛藤の末の抱擁である。
「……無理はしない方がいいって。焦っても、きっと良いこと無いって」
そう言うと、後藤さんは弱々しいがはっきりと首を縦に振った。
「……ごめん、ごめんね。今まで、キツく当たって。私、怖かったんだ。怖くない女子のあいだに、男の子が入ってきたと思って。……でも、志龍くんは違うね。男の子みたいなのに、女の子なんだね」
「……どういうことだよ?」
後藤さんは自分を抱き寄せるオレを突き放すわけでもなく、抱かれたままに呟いた。
「キツく当たっても、やり返してこなくてさ、強いと思うし、でも、こんな私の話聞いてくれて、優しいと思うし、こんな風にぎゅってしてくれてさ……あれ?私、なんで男らしいとか女らしいとかおもったんだろ?どれがどっち?」
「さあ?オレは分からないな。あべこべだ」
本当に、男と女はどこがどう違うのか。夏生の言うように恋をすれば、その違いを意識するようになるのだろうか。
「……志龍くん、無理、してない?私なんかに優しくして」
「いや、してない。むしろ後藤さんがなんであんな態度だったか分かってホッとしてる。むしろ後藤さんがオレみたいなのにこうされて大丈夫か不安だ」
男性不信であるのに、元男のオレは大丈夫なのだろうか。
冷静になった後に錯乱し通報されないか不安である。
後藤さんはくすりと笑った。
「なんか、大丈夫。志龍くんがどっちか分かんなくなっちゃった。だから、大丈夫」
「……そっか」
「……ねえ、志龍くん」
「なんだ?」
「……また、話してもいい?普通の話」
「いいよ。元男のオレで、練習しよう」
そう言えば、後藤さんは弱った顔をした。
「……と、友達っ……とか、ダメ、かな。あはは」
さて、人によれば後藤さんのこの申し出は図々しいものに映るかもしれない。
しかし、オレは大海原もかくやという器の男を目指していた女子である。
少し、場の流れによっていることは否めないが、オレに後藤さんを突き放す選択肢は無かった。
「――いいよ、友達になって、また話そう」
「……っ、ありがとう!」
きっと、いつか後藤さんが男友達を作った時、オレは嬉しく思うと思う。
すっかり一限の時間に食いこんだオレたちの語らいは、そのまま罰則課題として身に降りかかった。
書き終わって思ったんですけどこれ百合ですか。




