近くと遠くと
威勢のいい運動部の掛け声を聞きながら、私は机にかじりついていた。
中間テストというのは、案外早く迫ってくる。そして課題の量も増してくる。その量の多い課題は私から優雅さを奪い取り、先日由佳達とカラオケに行った時、カバンに英単語帳を忍ばさせた。
結局それを開くことはなかったが、家に帰った時にそれを見て、勉強できてない!と心を焦らせた。
「――ふあ~。疲れた」
人もまばらな図書室でそう呟いた私は、備え付けの時計から自分の勉強時間を振り返り、休憩しても良いかという気になった。解きかけの問題集を閉じて頬杖をつくと、窓際の席ゆえにグラウンドや体育館が目に入る。
サッカー部がわらわらと走り回るグラウンドのそばを、制服姿の生徒が帰りがてら見物している。その隣を練習着姿のバスケ部が走り抜け、その進行方向には体育館があった。
換気のために開けられたらしい窓を覗けば、剣道場が目に入った。図書室からは剣道部が陣取る体育館が見える。図書室の窓は閉まっているので聞こえないが、パチパチと竹刀のぶつかる音がしているのだろう。
「お」
ぼんやり見続けていると、どうやら仁らしい人物が立ち上がった。どうやらあいつも何かするらしい。
私は詳細を知らないが、壁に向かってひたすら竹刀を振り始めた。
「がんばってるなあ」
そのままじーっと見続ける。見続け見続け、彼が10振りもしたかという時、私はぼんやりしていた頭を振った。
「よし、がんばろ」
私はシャーペンを握り、問題集に集中し始めた。
一度集中しきって疲れていたが、不思議とそれからも勉強ははかどり、結局暗くなるまで自習は続いた。なんだか真面目なガリ勉ちゃんになった気分である。どこか普段と違う自分になれた気がして、私は得意な気分になった。
てこてこといつもより歩調早く歩いていると、体育館への渡り廊下から笑い声がした。ふと足を止めてそちらを見やれば、なんと道着姿の仁が曲がり角から姿を見せた。私が目を丸くして驚けば、彼もまた驚いたように一度足を止めた。一瞬そのまま見つめ合ったが、彼が「よう」と手を挙げたので、私も「よっ」と軽く応えた。
「練習終わったの、今?」
「ああ、ついさっき終わった」
部活終わりの彼は、どこか熱を持った空気をまとっていた。顔を見れば、汗が流れて髪も濡れていた。
手には財布を持っていたので、私がさっき通り過ぎた自販機に向かいたいらしい。
「飲み物?」
せっかく会ったのだ、この後は彼と一緒に帰ろう、そう思った。そして私がそう聞くと、仁はうなずいた。なので、一緒に歩いて自販機に向かう。
自販機は下履きのまま歩くことを許された、野外の休憩スポットにある。仁が引いたガラス張りのドアから外に出ると、夕暮れも落ちかけた紫がかった夕焼けが見えた。どこか夜のにおいを感じながら自販機の前に来る。仁は500円玉を取り出して、「どれにする?」と言った。
「奢ってくれんの~?じゃあレモンティーで」
「わかった」
続いて仁がスポーツドリンクを買い、私たちはそのまま並んで立ち飲みをした。
ぷは、と一口飲めば、横では仁がぐびぐび音を立ててスポドリを飲んでいた。よほど練習がハードだったらしい。
ぱちり、と音を立てて、近くに伸びる電灯がついた。
重いカバンを下に置くと、仁はベンチに腰掛けた。ちょうど向かい合う形になったので、私は立ったままでいた。仁は「座るか?」と首をかしげたが、私は「いいよ」と首を振った。
「今日は遅かったな」
練習終わりで疲れているはずの仁だが、どこかやわらかい表情でそう言った。
「図書室で勉強してた」
「そうか。長い時間やってたんだな」
「すげーだろ」
今日の成果を報告すれば、私はますます得意な気分になった。ニッと笑えば、仁はフッと気が抜けるように笑った。
「図書室から剣道部見えたよ」
「確かに、場所的に見えるよな」
「五時半くらいにさ、窓際で竹刀振ってなかった?」
「少し待てよ……あぁ、そういえばそれくらいだったかもな」
「見えてた」
「本当か。……というか、分かるのか」
「ぽいなーって」
「当たってる」
「だろ?なんか奢って」
「今買った」
「これはノーカン」
「そうか。……また今度な」
ぽつぽつと話すと、私たちのどちらもペットボトルの口を閉じていた。もう特に飲む気もないので、カバンの中に入れた。
顔を上げても、仁も私も動かなかった。なんとなく、落ち着いた重みのある空気が流れていた。この場所は静かで、ずっと遠くに運動部たちの喧騒が聞こえている。
そんな場所で見つめ合っていると、ぼんやりと最近のことを思い出した。
(そういえば、キスのこととか騒いじゃったな)
他のカップルたちに助言を求めていたのを思い返し、私は落ち着かない心境になった。したいことがバレバレで恥ずかしい。
「空、座らないならそろそろ行くか?」
「んー……」
仁の問いにもぼんやり返し、私は不思議そうにする彼を見た。
「お疲れだなー」
「まあ……そうだな。ありがとう」
なんとなくこの場を引き延ばしたくて、思いついたことを口にする。私は部活終わりの彼の姿も好きである。緊張のほぐれた、素に近い姿のような気がするのだ。
「なあ、そろそろ……――」
彼がスマホで時間を見て立ち上がろうとした時、それを押さえつけるような体勢で、ちう、と私は彼に口づけた。目を開けたまま、そのまま彼の目をのぞき込む。いつもより、目が開いた気がした。
ぺた、とまた彼が腰を下ろしたことで口が離れ、またさっきの位置関係に戻る。しかし、さっきとは全然空気が違っていた。
「できたな、キス」
「……そうだな」
「びっくりした?」
「そりゃな。でも、そうだな」
「うん?」
仁はすくっと立ち上がり、私の頭に手を置いた。
「嬉しかったな、今度は空からで」
「……そっか」
私はそれだけ言って、先導するように歩き出した。
なんとまあ、驚いたことに、あれだけ難しく思っていたことは、いとも簡単に超えられる壁だった。
その後の帰り道は、普段より彼の温かみを感じられていた。