無いんだが
読みたいけどなかったので書きました。
よろしくお願いします。
追記:ジャンルを文芸にしていたのを恋愛に変更しました。
……無い。
日曜日の朝、俺――志龍空は焦っていた。
普通、週末の朝というのは二度寝三度寝を繰り返し、いい加減眠れなくなった辺りで目を覚ますものだ。しかし、今日という日に俺は二度寝すらできないほどに覚醒していた。
まず感じたのは違和感だった。うつ伏せになって寝ていたらしい俺は、何だか妙に纏わり付く髪と、胸の辺りの圧迫感で身を起こした。
ハラリと流れる黒髪は、明らかに伸び過ぎである。この前散髪に行ったばかりなのに、何故こんなにも伸びているのだろう?
シャツでも丸まったのかと胸元に手をやり、そして俺の意識は覚醒した。
胸から伝わってくるのは柔らかな反発と、自分が触られているという感触だった。遅れて目で見やれば、いわゆる萌え袖になった手先が胸元に沈んでいる。俺はこんなに太っちゃいないはずなのだが。
次に感じたのは座った感触への違和感だった。
俺の息子はこんなにも主張の少ない謙虚なやつではなかった気がする。
嫌な予感に促されて股間を見やれば、そこにはなだらかな丘があるばかりであった。
「……無い」
鈴の音を鳴らしたような、可愛らしい声が耳をくすぐる。
「……嘘だろおいおい」
俺は弾けるような勢いで部屋を飛び出し、ずり落ちそうになるぶかぶかのズボンを庇いつつ、大慌てで洗面所に転がり込んだ。
「うっそぉ……」
鏡に映りこんだのは、昨日まであった腐れ高校生の俺ではなく、パッと視界の華やぐような可愛げな女の子だった。
ボサボサの髪が目元まで伸び、男にしては大きめな目が隠れ陰気さを助長し、顔全体の造形が陰鬱さからぼやけていた俺の姿はとうに無い。
黒い絹のような髪が滑らかに肩まで落ち、レモン型の大きな目は活発な印象を抱かせる。通った鼻筋は少しあどけなく写る位置に鎮座し、薄く花弁のような唇が桜に色づいて色っぽい。ひどく清廉そうな少女がこちらを困惑気味に見つめていた。絶世とまではいかなくとも、間違いなく可愛い部類の女子である。
少し震える手で自分の胸元に手をやる。すると少女もおずおずと胸元に手を置き、そこそこに存在を主張するおのが胸を揉んだ。ふむ、柔らかい。
「……なんで?」
間違いない、俺は女になっている。
いやいやいやいやいや、なっているじゃ済まないだろこれは!?
え、どうすんのこれどうなんの俺!?
俺はこれでも十五年は男をやっていた。そんな俺が突然女になって、周りがはいそうですかと受け入れる訳もないし、俺だって素直に頷けるはずもない。
ていうか明日も高校あるし、こんな姿じゃ家族にすら分かってもらえるか分からないぞ……。
そうだ、家族。
せめて家族にはこの儚げな美少女が俺であることを認知して貰わねば、俺は突然ぶかぶかの服で不法侵入を敢行した痴女という評価に甘んじることになる。
ていうか家族に見放されたら死ぬ。精神的にくる。
「……だ、誰?」
「あ」
警戒の色を隠そうともしない声色に空気が固まる。鏡越しに背後を確認すれば、そこには冷えるような視線をこちらに向ける妹の姿があったのだった。
違います。お兄ちゃんです。俺は即座に弁明した。
ーーー
「……確かにこれは昨日お兄が来てたジャージだし、部屋の感じ見てもお兄が彼女を連れ込んだって訳でも無いみたいだね」
ところ変わって今、俺は妹――夏生に連行され、はるばる自室へと帰還していた。
まず疑われたのが「俺、俺の彼女疑惑」だ。しかし安心しろ妹よ、俺にこんな美人をモノにできる甲斐性はない。それどころか女の子の時点で荷が重い。
というかゴミ箱を漁るな。そこに男女の契りは無くとも、乙女が触れるには少々下劣なものが詰まっている。
「……お兄の趣味は?家族しか知らないような」
ゴミ箱に猛烈な蔑みの視線を投げかけつつ、夏生は尋問に移った。なるほど俺にしか分からないようなことを確認するらしい。
「料理」
「なんで始めたの?それと得意料理は?」
「母さんが俺の好物を調理が手間だからと作らないから。得意料理はミネストローネ」
「……合ってる……」
夏生はまだ信用してくれないのか、思い詰めたような顔をして唸った。
しかしここで焦ってはいけないし、下手に憶測を飛ばしてもいけない。
何せ夏生と同じく俺も事態を飲み込めていないのだ。俺も夏生に倣い低く唸った。ひどく可愛い声が出た。
「……もし体が変わって無くなってたらと思って見なかったけど、ちょっと首元はだけて」
「え、あぁ。あれか」
言葉に従い、俺はジャージを左にずらす。俺には見えないが、夏生には鎖骨辺りについた傷痕が見えるはずだ。
これは別に伏線とかに繋がるものではないことを保証しよう。何故これが出来たかについて知らせておくと、人生で初めて鮮魚を捌いた時、知り合いが持ってきた魚がまだ生きていたのだ。迂闊に包丁を通そうとした俺は、唐突に暴れだした奴に手を弾かれ、勢いそのまま首元……といっても鎖骨だが、自刃する羽目になったのだ。
後にも先にも包丁のミスはそれくらいで、あれは半ば黒歴史と化している。
閑話休題。夏生は傷痕を確認したのか更に思い詰めた顔になり身を引いた。
なんだろう、俺が悠長に構え過ぎてるのか、情報の受け入れ容量が少なくてまだ飲み込めていないのか。妹のが危機感がありそうだ。
「……じゃあ、ホントにお兄なんだね?」
「なんか、そうみたい」
これからどうしよう。
ーーー
夏生はすぐさま父と母を叩き起し、早朝7時という数年ぶりに起きて迎えた日曜の朝に、志龍家はリビングに集合した。
もちろん俺に向けられる視線は強い。母さんは小声で「え?え?空の彼女?それとも夏生のお友達?」と言い、父さんは「そういうのはまだ早いと思うんだけどなあ」とのんびりボヤいている。
「はいそこ!言っとくけど両方間違ってるからね!」
そこに夏生が訂正を刺す。我が家のおしどり夫婦は二人して鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
「お兄、傷痕」
「へえ、ただいま」
有無を言わさない夏生の口ぶりに小姓みたいな口調になったが、誰もツッこまない。父さん母さんの視線は俺の鎖骨に向いていた。
俺が服をズラせば、二人とも鳩が実弾を叩き込まれたような顔になり、俺の今の状態をいち早く飲み込んだ母さんが父さんの顔面に左ストレートを叩き込んだ。そうだね、言うなれば高校生の女の子だからね、そんなとこを覗き込むのはダメだよね。
「パパもママも分かったと思うけど、この清楚で可愛い女の子は、無表情で天然でデリカシー無くてせっかくの顔をやる気の無さで台無しにしてたヒョロガリお兄です。さっき私が確かめたし、間違いない」
「ちょっと待って」
夏生よ、それがお前の本気か!
無表情の点については目をつむろう。しかしそれ以外は異議ありだ。割とお兄ちゃん顔に出してたつもりだぞ、結構気を回してたつもりだぞ、ヒョロガリじゃなく細マッチョと言いなさい、お兄ちゃん別にイケメンじゃないよ……中の中辺りがいいな……くらいだよ。
しかしその件について深く取り沙汰されることは無く、父も母も信じられないものを見る目で俺を見た。
「そ、空?」
「はい」
母さんがおずおずと口を開ける。ひっくり返った声が、その混乱具合を如実にした。
「言われてみれば目元が……去年の母さんへの誕生日プレゼントは?」
「恥ずかしながら手作りのぬいぐるみを。猫のベンジャミン」
「合ってる……」
そういえば贈ったなあ。夏生が「お兄は器用そうだし手芸でもやったら」とか言ったから、少し気合いを入れたのだ。
「じゃ、じゃあ、父さんが去年お前に贈った誕生日プレゼントは?」
「プレイターミナル4とFPS。お金の出所は書斎の三番目の棚の奥のへそくり」
「OH,Gosh!合ってるけど合ってない!その回答は0点だぞ空ァ!」
オゥガッシュなんてジョークかませるんだから大丈夫だろ。母さんが獰猛な視線を投げやっていたが、次のへそくりの隠し場所を思案し始めたらしい暢気な父さんは気付いていない。
「とにかく!この女の子がお兄で、お兄がお姉に変わったの、わかった?」
「「わかった」」
「これからどうする?」
「「どうしよう……」」
我が家は結束力が強いらしい。
家族みんなに俺のことを理解してもらえたので、ひとまず胸を撫で下ろした。
ーーー
「ひとまず病院に行こう」
これは父さんの提案である。非常に常識的かつ堅実だ。俺としてはこれを推す。
「ダメよ、こんな病気聞いたことないし、変な研究所に連れてかれちゃ堪らないわ。民間療法とかを調べてしばらく様子を見ましょう」
これはスマホ片手に症状を検索した母さんの提案である。確かにこんなことがあれば全世界の性同一性障害の抜本的解決に結びつくかもしれない。何らかの異常があれば研究者は諸手を挙げて俺を解析するだろう。検索結果はライトノベルだそうだ。
「いっそ女の子として生きていけば?」
これは夏生の提案である。これは無い。というか、できない。
しかし皮肉なのが両親ともこれに乗ったということだ。そして今、俺は三人からの怒涛の説得に対峙している。
「だから、そんなの無理だって。借金してでも性転換手術受けさせてくれ」
「いやいやいや、そんな……身長まで随分変わったし顔つきまで違うのに、そんななりで男になっても戻ったことにならないよ!?」
「そうよ、それに何も女の子らしく振る舞わなくてもいいの、ただ体が女の子になったよ〜ってだけ!」
「それが問題だろ。俺男だし。高校のみんなに引かれる」
「安心してそれは無い。お兄今可愛いから、何しても男感ないから、ていうか元々女々しかったから」
「「そうだ!」」
「それはそれで傷つくだろうが!!」
平行線である。
しかしここで引く訳にも行かない。何がなんでも医者への切符を勝ち取らねば、俺の男としての未来は無い。
「大丈夫!いきなり女の子になったんだから急に戻ることもあるって!それまでは女の子として生きていこう!」
「……むっ」
夏生の意見は簡単には言い返せないものだった。
確かに俺としては今の体で男になるより、元の体に戻る方が良い。というかできるならそれしかありえない。
確かに思ってみれば急に変わったのだ。明日にでも戻ってても不思議ではない。いや不思議だけど。
「ね?それに、病気がどうとか言っても骨まで違うなんてどう考えてもおかしいし、ママの研究所ってのも笑える話じゃないでしょ」
そう言われると弱い。というかそんなこと信じてくれる気もしないが、万が一被検体になったら華の高校生活が棒に振られるわけだ。
確かに忌避すべき事態かもしれない。
「……つーか、そんな最高の体が手に入れといて戻ろうとするとか、あたし的には有り得ないんだけど……」
「最高って……男として見るなら最高かもしれないけど、自分のとしてなら憂鬱だぞ」
今まで男の体だったし、周りに受け入れられるか不安だし、月のものとかあったら嫌だし。
不安は絶えない。
「そんなもんあたしとママで教えてやるわ!とにかく、お兄は今日からひとまず女の子として生きていく!それでいいわね!?」
「ひとまず、だからな。とにかく明日から上手く生きていけるように手続きとかしないとだろ。担任にすぐにでも会いたいって電話してくれ」
ここでいじけても仕方ない。とにかく出来ることをやろう。
さしあたって、明日からの生活の準備をしなくてはならない。その上で学校に馴染めるかは……明日の俺次第になるだろう。
なにより、俺がこんなことになった理由も突き止めねば。人間ドッグなどに診察受けに行くことに決めた。
「……チョロ……お兄、変なのに絶対ついて行かないでね。もうか弱い女の子なんだからね」
前の方の部分は小声で聞こえなかったが、夏生の心配ももっともだ。前まであしらえていた夏生の筋力に抗えず、今朝は連行されたのだから。というか俺弱っ!夏生は運動部だしそれでノーカンには……できないか、できませんか?
あと、俺の戸籍を変えるのは決定事項なんですか。なんでみんな割と乗り気なの。息子より娘なんですか。
「母さん女々しいし浮いた話のないあんたが心配だったのよ。いっそこっちのが幸せになれそうだからいいわ」
あなたは良いでしょうけど俺は良くないんですよ。
「父さんは息子欲しいけど、それは母さんが頑張ってくれたら良いからね」
こっちはこっちで建設的だよ。なんでその努力を俺を戻す方に向けないの。まあ戻し方分かんないからなんだろうけど。あと母さんと腕組むな。なんか腹立つわ。
「私お兄よりお姉ちゃんのが欲しかったし、弟も欲しいからそれでいいんじゃないの」
良くないよ。俺の気持ちは蔑ろにされるのかね?
まともに取り合えそうもない家族は放っておいて、俺は担任に連絡を取るのだった。
家族全員で説得すれば、まあ何とかなるか……な?
書きだめを無くさないのが目標です。