最後の父弁
普通の父と息子の関係という
物はどういうものなのだろう。
それが分からなくなったのは
ちょうど俺が12の時だった。
ある時俺は、家の中でくしゃくしゃ
になったメモを見つけた。
『男→兄、大志 弟、翔太
女→姉、美宇 妹、千尋』
大志。俺の名前である。
ぱっと見、親が子供の名前を
考える時に使ったメモなのだと
思った。
しかし、一つだけひっかかるところ
があった。
兄、そして弟。
もしも子供が女の子だったときの
ために考えた名前にも姉と妹、
二人分の名前が書いてあった。
おかしい。俺は一人っ子だ。
弟、ましてや妹なんていやしない。
なのにどうして……。
その後父に尋ねた。
すると父は俺の手からメモを奪い取り、
「お前は知らなくていいことだ。」
と言い放つだけだった。
しかし、やはり子供の好奇心は
はい、そうですか、と認めやしない。
俺は必死に調べた。
といっても当時はまだ子供。
ましてや祖父や祖母、親戚すらいな
い。
誰にも聞くことができず、時間だけが
過ぎていった。
ある時、我慢できなくなり俺は
一度も見たことがない父の部屋に
入り、机の引き出しを開けてみた。
そこにはまるで忘れ去られたかのように
ポツリと二つの母子手帳が入っていた。
一つは俺の。そしてもう一つは
生まれてくるはずだった俺の弟のもの
だった。
「大志! ねぇ大志聞いてる!?」
高校の三階、雲が流れるのがよく見える
窓際で俺はそれをボーッと眺めていた。
「え、ごめん。なんだっけ?」
「もう! もうすぐ三年の夏休み
だよ? いい加減どこの大学行くのか
決めないと……。」
必死に俺に話しかけてくる彼女の
名前は村田向日葵。
成績優秀で顔もスタイルもよく、
男子はおろか女子にも人気の高い。
そんな彼女が何故俺に話しかけてくる
のかというといわゆる幼馴染だからだ。
「ほんとに進学する気あるの?」
正直なところあまり無い。
ただ将来してみたい仕事が無いから
彼女に進路はどうするのか、と聞かれ
た時にまあ進学かなぁ。と適当に答え
ただけだった。
同じ進学希望である向日葵は、
その言葉が嬉しかったのか
謎の火がついてしまったのである。
「あるよ、ある。大丈夫だよ、
この前の模試も良かったし。」
「良かったって第一志望D判定
だったでしょ!」
「つ、次は頑張るから……。
ほら!それより昼休みなんだから
昼飯食わないと。」
俺は彼女の進路の話から逃げるように
弁当出して食べ始める。
「まーた、父弁?」
その言葉に手が止まる。
「あ、あぁ。……食うか?」
「いいわ、私自分の弁当あるから。
それより進路の事だ今週中には決めとい
てよね!」
「は、はい。」
「進路か……。」
火曜日の七時間授業を終え、帰宅部の
俺は家へと帰っていた。
「決めろって言われたって……。」
父さんはどう思っているのだろう。
進路に悩みながら、ふとそう思った。
母子手帳を見つけ、中身を確認
するともう一つの方は俺の双子の弟の
物だと分かった。
俺が母の母体から生まれて来た時には
既に弟は母体の中で息絶えていたそう
だ。
当たり前の事だが、約2キロの赤ちゃん
が一人の人間のお腹の中にいて
双子はその赤ちゃんが二人いることに
なる。
つまり、双子の出産はそれ相応の
リスクを伴う。
母体へのダメージも計り知れない。
俺の母も出産の時に亡くなった。
そのことは、俺の誕生日と母の命日が
同じだからすぐに分かった。
俺だけが助かった。弟と母を犠牲に
して。
父の大切な宝物を俺は奪って今ここに
いる。
それから俺は父に顔を合わせる事が
できなくなった。
無論、会話も。
そういう関係が今まで続いてる。
今ではもう昔は何を話したかさえ、
思い出せない。
だから、進路の相談もできないで、
うだうだ悩んでいるのだった。
「お先に失礼します。」
「あ、はーい。お疲れ様でした。」
社員と仕事終わりの挨拶を交わし、
スタスタと会社を出る。
私はいつもこのとき、あの子の顔が目に
浮かぶ。
同じ家に住んでいるのにまるで他人の
ような自分の息子を。
私が悪いのだろう……。
今思えばもっと前に話すべきだった
のかもしれない。
「余命二ヶ月です。」
医師から告げられたその言葉を
私は受け入れるのに時間がかかった。
最近頻繁に嘔吐をする私は
病院に行った。
肺がんだと言われた。既に他の部位
に転移していると。
それを告げられたのは一ヶ月前。
今現在でもとても自分が後一ヶ月で
死ぬなどとは思えない。
治療を進められたが、そんな
気にはなれなかった。
入院すれば息子にそのことが
バレてしまう。
それがとても怖かった。
せめて、息子に私の病の事を
打ち明けてから入院しようと思った
のだが、一体何と言えばいいのか
わからない。
私は自分の胸に手を当てる。
こんなんで体が今どうなっているのか
なんて分からない。
そう思いながら、私は彼のいる
私の家へとまるで棒のような足を
引きずりながら帰るのだった。
家の明かりをつけ、制服を脱ぎながら
父が帰ってくる前に、二階に上がる。
いつもならそうしていた。
プルルルル……プルルルル……。
自分のスマホが鳴る。
スマホの画面を見ると、初めて見る
『父』
という文字が出ていた。
「……も、もしもし?」
「もしもし、山田義和さんのご家族
のかたでしょうか?」
「はい、そうですが……。」
父の電話から知らない女性の声が
聞こえる。
「○○病院の者です。」
その後の言葉を聞くやいなや、俺は
家を飛び出した。
道行く人混みの中、俺は無我夢中
で病院に向かう。
父が道端で倒れた。
今俺の頭の中にあるのはそれだけ
だった。
「あ、あの!
山田義和の部屋は!?」
病院に着くとナースを捕まえ、
俺は病院内に響く大きな声で
尋ねた。
父が運び込まれた部屋の前で
俺は下を向きながらただ祈っていた。
「山田大志君で間違いないね?」
「は、はい。」
白衣を着た一人の医師が俺に
話しかけてきた。
「義和さんから何か聞いてるかい?」
「どういう意味ですか?」
「義和さんは私から話すと言っていたん
だがね。言ってなかったのか……。」
「大志君、落ち着いて聞きなさい。」
「は……今なんて……。」
「余命あと一ヶ月だと言ったんだ。」
「……そんな……そんなわけ……
だって父さんは何も……。」
俺が落胆し、状況を受け入れられず
にいる俺に医師は続けて言った。
「辛い事を言うが、義和さんが
目を覚ましたらこれから
どうするか、二人で話し合いなさい。」
そう言って、医師は俺から
去っていった。
数時間して父は意識を取り戻し、
父の横に俺は座っていた。
「大志……。」
久々に自分の名前を父に呼ばれた。
だが、俺も父もそれきり何も話さ
なかった。
父は俺を死神とでも思っているのだろ
うか。
俺の周りの人間が死んでしまうから……。
あの時と一緒だ。
怖くて目が合わせられない。
だけど、このままじゃ……。
何も変わらない。
俺は意を決した。
「と、父さん。」
父と目が合う。
父は俺の次の言葉を待っていた。
「……父さんはさ。俺のこと……」
どう思ってるの?
その言葉が出なかった。
今聞くようなことじゃ無いだろ
と心の中でその言葉を殺したのだ。
再び静寂が病室内を支配する。
「ま、また明日見舞いに来るね。
……体大事に。」
その空気に耐えかねた俺は
逃げるよに病室を出ていった。
酷い父親だ。
大切な事を何も言わないで
死んでいく私を彼はどう思うだろう。
大志は誰よりも優しくて、賢くて、
そして責任を感じてしまうところが
ある。
それは父である私が一番よく知って
いる。
だからきっと、母と弟の事を
話してしまえば自分のせいにして
思い悩んでしまうだろう。
私はそう思い、伝えなかった。
しかし、それは逆効果だったの
だろう。
大志が私と妻とで書いたメモを
手に持っていた時、私はそれについて
話すのを躊躇ってそれを取り上げ
てしまった。
それがいけなかった。
それからというもの、彼は私に目を
合わせなくなった。
距離を置いていった。
こうなったのも、私の責任だ。
……私がなくなったら大志は
生活できるのだろうか、
大志ももうすぐで高校を卒業して
社会人になる。
私が死のうが死なないが彼は
私から離れていく。
もう遅いのだ…。おそすぎたのだ。
私は後悔しても仕切れないこの
過ちをただ嘆くだけだった。
時間は12時を過ぎ、昼ごはんが
病室へと運ばれてくる。
今頃大志も学校でご飯を食べてる頃か
と窓の外を眺める。
そういえば、妻は料理が下手で二人
で暮らしてたときは私が作って上げて
いた。
妻が亡くなってからは大志に。
私が朝、弁当を作って机の上に
置いておけば、彼がそれをカバンに
入れて、家に帰れば弁当箱は
既に洗ってある。
これの繰り返し。
これだけが、私と大志との間にある
変わらぬ関係だった。
大志の好きな物、嫌いな物、それと
栄養バランスを考えて作る弁当は
思いの外楽しかった。
あともう一度だけ、あともう一度
だけでいいから、作ってあげたい。
私は手に持っていた箸を強く握った。
「すみません、看護師さん。
私の担当の医師を呼んできてもら
えないでしょうか。」
父の病室を出てからもうすでに三週間
が経過していた。
父の命が残り少ないにも関わらず
俺は、父に会いに行くのを躊躇って
いた。
「あれ?また、今日も食堂行くの?」
「……うん。」
「どうしたの?最近元気ないけど、
何かあったの?」
廊下で向日葵に話しかけられ
た俺は大丈夫だからと言って
その場をあとにした。
そして帰り道、病室へ向かう。
だが、父の病室の前に立つと途端に
入れなくなる。
父は俺を待っているのだろうか。
そう思うと開けなくなる、
このドアを。
俺はまたドアを開けるのを諦め
家に帰るのだった。
「大志!」
帰り道で聞き慣れた声がする。
声の主は向日葵だった。
「そう、お父さんが……。」
俺は向日葵の問い詰めに観念し、
おとなしく父のことを話した。
「それで今日もお見舞いに?」
「いや、行ったんだけど
病室に入れなくて。」
「どうして?」
「会っても何話していいか分かんなく
て何も話さずに帰っちゃいそうで。」
「そんなことないよ、お父さんも
大志が来るの待ってるよ。」
「向日葵は何も知らないから…
そんなこと簡単に言えるんだ…!」
俺はそれが励ましの言葉だと分かって
いても、何も知らずに言う
彼女に八つ当たりの言葉を言ってしま
った。
「きっと父さんは俺を恨んでる!
母と弟を犠牲にした俺を!
俺さえ居なければ、母さんも、
弟も無事に生まれてきたかも
しれない!俺が生まれてきたから」
ペチンッ!
と音が響いた瞬間、
右頬に痛みが走った。
「馬鹿っ!あなたのお父さんの口から
直接そう聞いたの!?
そんなの自分が勝手に思い込んでる
だけじゃん!
大志のお父さんは大志の事ちゃんと
思ってる!
だってあんなに毎日弁当作って
くれてたじゃん。」
その時、はっとする。
そうだった…。あった一つだけ。
会話すらなかった俺と父さんの
間にあった物。
「……ち、父弁……。」
俺がその言葉を呟くと向日葵は
険悪だった顔をニコッとさせた。
「そう、父弁。」
「……俺、今から病室行ってくる!」
「ちゃんと話すんだよ、お父さん
と。」
向日葵はそう言って俺を見送った。
どうして気付かなかったのだろう。
あんなに毎日食べてたのに。
今ならきっと話せる。父さんと。
「父さんっ!」
俺は勢いよく重かったドアを開け
父を呼んだ。
返事は無い、けれど父はそこにいた。
「大志…?」
弱々しい声で父は俺の名を呼ぶの
だった。
「……父さん、ごめん。」
「どうして謝る?」
俺の謝罪に父は不思議そうに
返事をした。
「…謝るのは…父さんの方だ…
すまなかったなぁ…病気の事を言わな
いで…それとお前の母さんと弟の事。
……随分自分を責めただろ?」
俺は正直に頷いた。
「……そうか…悪かった。お前はそう
いう子だと分かっていたのに……。」
「俺…父さんに恨まれてるんじゃな
いかって。」
「…父さんが大志を恨む? どう
して…」
「俺が生まれたせいで母さんも弟
も亡くなって…それで。」
声が涙声になるのを必死に抑える。
「……大志。実はな…父さんも
双子を生むのは反対だった……
お前の母さん、香菜は体が弱くてな…
自分の体も危なくなる状態だった……
だから私は、双子は諦めよう
って……言ったんだ。
そしたら香菜が言うんだよ。
『私がこの子達を諦めたら
この子達の築いていく
未来も諦める事になる。
だから、私は決して諦めたくない。』
って。
母さんはね…大志の未来を諦め
無かった。
そして……お前は生まれてきた。
これをどうして…私が……恨むんだ。
それにね…大志。
私もお前を生んで良かったと思って
る……
だって」
父は力の無い棒のような腕を上げ、
手を俺の頭に乗せる。
そして、撫でながら言った。
「お前はこんなにも優しい人に
育ったのだから。」
ポロポロと父が横になっているベッド
のシーツに俺の目から溢れる涙が
落ちては染み込む。
それを見て父は微笑みながら
更に、俺の頭を撫でるのだった。
「大志、お前がこれからどんな未来
を築くか、父さん、母さんともう一人の
息子と一緒に見てるから……。」
俺は止まらぬ涙を拭き、鼻水を
すすりながら、頷いた。
それが、最後の父の言葉だった。
次の日見舞いに行くと父は既に
言葉を喋ることができず、体も
ほとんど動かなくなっていた。
予定より3日早く、父はこの世を
旅立った。
俺は最後まで父の手を握っていた。
「大志君。」
「はい?」
父が亡くなったその日、
医師が俺に箱を渡してきた。
「これは?」
「義和さんから頼まれてね。
私が亡くなった後にこの弁当を
渡してくれないかって。」
「弁当!?」
「義和さんが看護師さん達にお願い
して病院で料理したんだよ。
流石にそれをそのまま渡せないから
今まで冷凍してたんだけどね。」
「あ、ありがとうございます!」
俺はお礼を言い、頭を下げる
すると医師は微笑みながら言った。
「そういえば大志君、もう少しで
受験だろ? 頑張れよ!」
「は、はい!」
俺は再び頭を下げ、病院を後にした。
家に帰るとすぐに電子レンジで
先程貰った弁当を温める。
チンっと音がなり、レンジを開き、
弁当を取り出し蓋を開ける。
中からは匂いの混じった湯気が俺の
顔めがけて上昇してくる。
「この匂い…。」
俺はすぐさま箸で具とご飯を
同時に食べる。
「……美味しい……」
その一口一口が父の優しさを
思い出させる。
自分の好きなものだけではなく、
機雷なもの、栄養バランスまで
考えて作られていた。
その弁当、いや父弁には父の
優しさが詰まっていた。
春。
桜がピンク色に染まり、
人の心が浮足立つ季節に
なった頃。
「大志ぃぃぃ!」
後ろからあの声が聞こえる。
「向日葵!」
「まさかほんとに医学部に
合格するなんてね。」
「夏休みに向日葵が勉強教えて
くれたおかげだよ。」
「だからって私より頭の良い学部
にいかないでよ!」
「まあ国立大学に合格できたんだし
いいじゃん?」
「キーッ!ムカつくっ!」
向日葵はポコポコ俺を
殴る。
「それより医学部に入ったんだから
やっぱり医者になるの?」
「うん。俺もっと頭良くなって
いつか、余命宣告された人でも
救えるような医者になりたい。」
「そっか、いい夢だね!」
向日葵は俺の夢を聞いて微笑んでく
れた。
母と弟、そして父が残してくれた
この道を、この未来を俺はこれから
少しずつ築いていく。