15話 奪われたカトウ6
部屋に一人籠ってしまった自分の夫の姿を見て、ミチルはどうすればいいのか分からなくなっていた。
見た目に変わった様子はないのに、彼はこの前までの彼とは違う。
ルーンの代償というものがどれ程恐ろしいものであるのかを再認識させられた。
ニホンという国で育ったあの人が、ニホンについての記憶を失ってしまった。それはきっと悲しいことなのだと頭では理解している。しかし、それを聞いた時、自分は一瞬だけ安堵してしまった。
もう戻れないあの地に残してきた恋人や好きな人が実はいて、自分はその人の代わりなんじゃないかと時々思っていたからだ。
そんな話は聞いたこともなかったし、なんの証拠もなかったが、どうしてもそんな考えが浮かんでしまったのだ。
飲んで帰って遅くなる時も、アリサを初めて紹介された時も、自分はあの人の一番になれていないんじゃないのか?
そんな風に思ってしまう自分が嫌いだった。
あの人が好きな気持ちは変わらない。でも、あの人が自分を好きだと伝えてくれたのは、数える程度でしかなかった。
いつか、ニホンに帰れるかもしれないと言われた時、あの人は自分を捨てるんじゃないだろうか。
そんな考えが頭をよぎった時には、いつも枕を濡らしていた。
しかし、今回あの人からニホンの記憶がなくなったことで、不安要素が消えたのだ。
心の底から嬉しいと思ってしまった時、私は自分のことしか考えていなかったのだと改めて実感してしまった。
今なら分かる。
こんなことを一瞬でも思ってしまう自分はあの人にとって大切な存在ではなかったのだと。
だから、……失われたのは私じゃなく、ニホンだったんだ。
リビングに戻っていたミチルは膝から崩れ落ちた。
勝手に流れてくる涙は何度拭っても絶えることはなかった。
◆ ◆ ◆
泣き続けていた彼女は一冊の本を見つけた。
彼女の視界に入った本棚の中に一冊だけ少しはみ出た本が見えたのだ。
なんではみ出ているのか疑問に思うが、もしかすると、神の思し召しなのかもしれないとミチルは立ち上がり、本棚に近付いてその本を手に取ってみる。
その本はぶ厚い背表紙の本だった。
面には何も書かれていない本、ミチルは疑問に思いながら、本を開いてみた。すると、そこにはびっしりとニホンゴで書かれた文字があった。
しかし、ミチルはカトウからニホンゴを教えてもらっていたので書けるし読める。
彼の記憶から消えても、この世界からニホンの存在が消えた訳ではない。なにせこの世界にはもう一人の日本人がいるのだから。
一番最初のページに書かれた日記という言葉が書かれてあった。それでこの本が昔から書いていた彼の日記だというのを思い出した。
人の日記を見るなんてあまり良くないことだと分かっていたが、これなら解決の糸口が見つかるかもしれない。そう思って読んでみることにした。
ページをめくっていくと、そこには色んなことが書かれてあった。
初めてこの世界に飛ばされた時のこと、お世話になった人たちのこと、マルクトさんと出会った日のこと、その次の日に同じクラスメイトとして出会ったこと、ユリウス王とマルクトさんが初めて出会った日に喧嘩したことだったりとか、前半は魔導学園のことばかり書かれてあった。
灼熱竜を討伐に行った際の道中でのこともたくさん書かれていた。
そこに「幼女になつかれた」と書かれてあった文章を見つけた。
詳しく読んでみると明らかに自分のことだとわかった。
(……私、当時十歳だったんだけど)
無意識に本を強く握っていたようで、紙がぐしゃぐしゃになっていた。
深呼吸で冷静さを欠いた自分を落ち着かせる。
それから、卒業までの五年間は本当に楽しそうだった。
三冊目を開くと、自分のことが書かれたページを再び見つけた。
『○月△日
朝から、呼び鈴がうるさくてなんだろうと思い、出てみる。出てみると、数年前に出会った少女、ミチルが家にやって来ていた。ミチルが何の目的でここに来たのかと考えていると、彼女は急に結婚して欲しいと言ってきた。
驚いて飲んでいた紅茶を吹き出してしまった。
なんでも十五歳になって結婚できるようになったから訪ねてきたらしい。……正直会った時、五歳だと思ってた。
とりあえず家に招き入れ、ここまでどうやって来たのかと尋ねるといきなり泣きはじめた。
彼女の足は傷だらけになっていて、他に頼るところも金もないらしい。断ったら野宿してまた明日もお願いしにくると言ってきた。確かにあの村からここまでは一日程度でつく距離じゃない。しかし、こんな幼い子を野宿させるなんてさすがに良心が傷んだ。
仕方ないのでここにいる間はこの家に住んでいいことにした。一応その間の家事は彼女に一任させることにした。きっとすぐに根をあげて帰るだろう』
彼女はページを一枚めくった。
『○月◇日
あれから一週間が経った。しかし、彼女は諦める兆しは見せなかった。むしろ、俺が頼んだ仕事を楽しそうにやっている。……なんで諦めないのだろうか? たった一人でこんな家の家事をさせているのに、しかもたった一度しか会ったことがない俺なんかのために……』
『◇月◎日
今日はミチルが日本語を教えて欲しいと言ってきた。
まぁ、特に問題もないと思ったから教えてみたけど結構苦戦していた。
まぁ、俺もこの世界の言語習得には苦戦させられたし、難しいのは当たり前か』
『●月◇日
今日は仕事が休みなので、ミチルと二人で出かけることにした。買い物したり、街を散策したりとなかなか楽しかった。最後にミチルが「哲也さんとの初デート楽しかったです」と言ってきた時はさすがにドキッとした。見た目も性格も可愛いのは可愛いんだが、どうしても小学生くらいにしか見えないんだよな~。もうちょっと胸が大きくて、大人っぽい艶やかな女性の方が俺は好きなんだけどね。
そんなことを考えていたら、後ろから変な視線を感じた。振りかえってみると、目の下にくまを作ったマルクトが不機嫌そうなオーラ全開で立っていた。
「人が徹夜でずっとず~っと働いていたというのに、幼女と戯れているとは良いご身分だな」
そんなことを言いながら近付いてくるマルクトの手には、拳が握られており、足音をたてながら詰めよってくる。
その顔や雰囲気とかが恐くて必死に宥めようとしたんだが、それは無意味に終わった。
初デートは理不尽な暴力によって幕を閉じた』
『□月△日
ミチルが買い物に付き合って欲しいと言ってきた。買うものが多いから男手が欲しいそうだ。日がな一日やることもなかったので付き合うことにした。
ミチルに振り回されて疲れたが、彼女が楽しかったなら良かった。
夕方になってもう帰るかと提案すると、ミチルがもじもじしはじめた。どうしたのかと声をかけようとした瞬間、目の前に箱を突き出された。かわいらしい包装紙に包まれた箱、いわゆるプレゼントというやつなのだとここで初めて理解した。
女性からプレゼントをもらったことがなかった俺にはスゲー嬉しかった。開けてみると、中にはイヤリングが入っていた。
シルバーカラーのイヤリング、こんな高価なものをどうしたのかと尋ねてみると、誕生日おめでとうと祝われた。
その時感じたのは嬉しいという気持ちだけじゃなかった。
手を合わせて今日はご馳走にしますねと彼女が言った時、その右手の中指に普段から着けていた指輪がないことに気付いた。
一度も外したことのない指輪、失った母の形見だと聞いたそれを今日に限って着けていないことを不審に思ってしまう。
俺は感極まってミチルを抱き寄せた。こんな俺のために形見を手放したのがわかってしまったからだ』
ミチルはそのページを読んだ後、自分の右手を見た。
そこには、あの日失った指輪がはまっていた。あの日から数週間後にカトウから贈られたものだった。
初めて見た時は、驚いて声が出なかった。指輪は専用の箱に入っており、日頃の感謝を込めてと書かれた紙が添えてあるだけだった。
次の日、指輪を売った質屋に行けば、渋っていた主人に男が10倍の値段を払って購入していったとカウンターの女性に教えてもらった。
それ以来、この指輪は自分にとっての宝物となった。
『○月△日
そういえば、この日でちょうどミチルが来て一年か。初めて来た日はあんなにも追い出そうとしたのに、今では、彼女にただいまと言ってもらって、彼女の作ったご飯を食べるのが、日課になってしまった。
そういえば、彼女は一度だって俺に文句なんか言わなかったし、泣き言だって言わなかったな
もしかしたら、いつか本当に結婚するかもしれないな』
その後も、いろいろなことが書かれてあり、もっと読んでみたいと思って四冊目を取った時だった。
一枚の紙が床に落ちた。