断章……福音なくとも望まれる人の居る世界に
十数年前 ~ 現『森皇国イーダ領内』 アザムの街
あらゆる汚れと血肉が混ざり合い焼け爛れたかの様な匂い……。
内乱で故郷を追われ、生気を根刮ぎ殺がれた夥しい数の難民で溢れかえる往来に紛れて、フードにその身を包んだ巨躯の男は流れを縫う様に歩を進めてゆく。
悲鳴、怒号、或いは沈黙、肌に纏わりつく喪失という淀み……最もありふれて、それでいて最も重要な『日常』を奪われるという事……残されたモノに宿る歪で禍々しき陰、フードの奥から時折覗かせるスリットの瞳が凄絶という言葉さえ甘く思える生き地獄を映す。
「(この状況で店先を開ける商人は居ないか……。)」
微かな溜め息を洩らし、懐から地図を取り出すとローブの隙間から腰掛けの刀と肉球が垣間見える。
「(同族で殺し合い、挙げ句に追い出された者達が次の地を蝕んで、戦火を際限なく広げてく……だから人間は嫌いだ。)」
心中でそう呟き、鼻をつくすえた匂いに堪えきれず、足早に往来を渡りきって街を抜ける小路へ入ろうと……した時であった。
突如としてけたたましく鳴り響く鐘の音、その意味する所にフードの男の足が止まる。
「処刑だっ!公開処刑が広場で始まるぞ!!」
その瞬間、気力を喪失していた筈の難民、否、街の民衆さえも皆一様に声をあげ、狂喜に取り憑かれたように凄まじい勢いで広場へと群がってゆく。
石畳が千を越える、暴徒に近しい民の怒涛の流れによって揺れ、異様とも云える熱気が巨躯の男の背中を通り抜けていった。
だが男は動じない、辟易したと言わんばかりの溜め息を洩らし、街を去ろうと再び踏み出す……筈であった。
不意に耳にした住民らしき老婦の言葉にフードの奥の瞳が撓み、鈍い光を宿す。
連盟騎士団……その言葉にローブの内側で刀が震え鳴いている、それを柄頭から押さえつけ男は考えるより先に、踵を返して走り出していた。
アザム中心部、建国記念広場
「………。」
普段であるならのどかであろう広場は『死』の愉悦に支配された浅ましい人間達で埋め尽くされ坩堝と化していた。
景観すら歪める熱気、その中心で巨躯の男は広場には不釣り合いな処刑台と其処に居並ぶ重鎧の騎士へ視線を回す……。
「(醜悪な面の皮だ……。)」
フードの奥で舌打ちが微かに洩れる……男の眼に映った兜のフェイスガード越しの顔、それは彼にとってこの場で最も唾棄すべきものだったのだろう。
……騎士達は処刑という娯楽に群がる民衆をじっくりと、そして嘲笑うように『観賞』していたからだ。
……本来であるなら、処刑台を守衛するたかが二十人程度の人間が千人を越える民衆を抑える事は不可能だろう。
だが連盟騎士団とそれに連なる者達は列強以外の国へ干渉を厭わず、あらゆる理で侵略を繰り返し、治安維持を名目に常駐した地域では与えられた裁量権を以て裁判さえ行わずに公開死刑を凶行していた。
巧妙に、狡猾に、大陸中へ拡がる連盟騎士団の恐怖とブリニガン聖教会の威容……国を故郷を奪われた人々に『神の浄化』へ異議を唱える思想さえも残されてはいない。
その土台、背景、大風呂敷にあぐらをかいた上で騎士達は愉悦を貪っているのだと……巨躯の男は気付いていた、宿敵と定めた者達を眼前にし、殺気を消しきれぬ己が未熟とそれを気取れぬ騎士達の力量に……。
「(虎の威を借るのかよ……。)」
急速に萎んでゆく殺気に歯軋りを鳴らし、処刑台を僅かに仰ぎ見る。
男にとって最早、この場所に留まる意味も興味もない……だが。
熱狂の最中で微動だにしない巨躯の男……刑罰執行人と進行役とおぼしき司祭が壇上に上がり、民衆の熱量が更に過熱を増してもフードの奥の瞳は一点を見つめている。
処刑台に引き揚げられ、梁から垂らされた縄へとその首を通された二人の女性……。
一人はまだ幼いであろう薄汚れ虚ろな瞳をさ迷わせている青みがかった髪の少女、もう一人は……長い黒髪で毅然とした態度を崩さず、司祭を見据える二十代程の美しい女性であった。
否……巨躯の男は気付いた、彼女は司祭を視ているのではない。
その奥、処刑台の側面、一段低い場所から成り行きを見物する貴族と思われる薄笑いを浮かべた若者を見据えているのだと。
そう思考を巡らせる男を余所に進行役の司祭は仰々しく神への誓詞を唱え、続けて罪状を民衆へ向け語り始める。
「この少女の姿をした罪人は事もあろうか、我ら連盟に付き従う正義の騎士団へ献上されるべき貴重なパンを盗み……」
「(食い散らかすだけのテメェらがそれを言うのか……。)」
「この女、イノリ・マルソーは信仰と夫となるべきフィアンセを裏切り、不特定多数の男と姦通し不浄なる仔を宿すという罪を犯した……よって両名を連盟の名の許に死刑を言い渡す、最後に申し開きがあるのなら申すがいい。」
主文を読み終わり、厳格な面持ちで改めてイノリ・マルソーへ視線を向ける司祭……否、司祭だけでなくその場に居た全ての民衆までもが好奇の目で彼女を観ている。
神への謝罪、或いは不様な命乞い……己が溜飲を下げるための贄、大衆の醜悪なまでの期待が渦巻く中心で彼女は一度、眼を伏せると数秒の沈黙の後で再び前を見据え口を開く。
「……貴方達は貴方達が悪魔と断定したこの娘の名前を知っていますか?不浄だと決めつけている私のお腹の赤ちゃんの名前を知っていますか?」
「……!?」
それは滔々と、だが凄絶なまでに穏やかなる旋律を紡ぐ言葉であった。
決して罪人でも生け贄でも、ましてや晒し者にされる人間が吐ける音色でもない……誰しもが想像だにしなかった言葉は広場を支配していた熱狂を戸惑いの細波にまで鎮めてしまった。
「(………そうか、気になったのはあの女の眼か。)」
「馬鹿な、悪魔に名等、ましてや産まれてもいない仔に福音は訪れない!」
「そんな事は絶対にないわ!」
「……!?」
イノリの断言、何よりその一点の迷いの欠片も映さぬ紫の瞳が司祭を圧して神の代弁を詰まらせる……。
「故郷を追われ、戦禍の中で私は確かに酷い目に遭わされてこの子を身籠ったけど……でも全てを諦めて死のうとした私を胎内から『生きたい』と鼓舞したのもこの子だった!!だから私はっ!!」
「だ、黙らないかっ!背教者め!もういい……刑を執行せよ。」
そう何とか吐き捨て、司祭は苦々しく右手を上げ執行人へ合図を送ると戸惑いながらも再び大衆の視線が執行人へと注がれる。
刹那……少女の虚ろな瞳は民衆の赤黒く蠢く熱狂に憎しみを映して撓む。
……だが同時に少女は確かにそれを目撃した。
特異点、醜悪に蠢く人の波の最中でそのフードの男だけが冷徹なまでの静けさを纏っていた。
一拍の推移……少女以外、誰もまだ気付かない……ゆるりとフードを捲り現れた獣の、茶虎の毛並みを憤りへ歪めた猫の貌に……。
次の瞬間。
形容し難い獣の咆哮が熱狂を喰い破り内包された恐怖と共に広場へ、否、アザムの街に響き渡る。
それは臓腑を掴まれるかの様に想起させられた『死』という重圧……抗えない本能からの恐怖。
巨躯の男、否、その獣人は引き摺り降ろした……高みの見物、対岸の火事、『死』を肴に愉悦に浸ろうとした全ての民衆の喉元に『死』を突きつける事で。
今や広場は沈黙と停滞によって包まれている。
それは騎士達も例外ではなく、彼の獣人はその隙を赦しはしない……。
およそ約二秒、獣人の咆哮から疾走に連動し直面した人々の悲鳴に騎士達が気付くまで……。
だが騎士からは民衆が障害物となって獣人が見えない……そして。
「……!?」
並びの右側、その騎士は確かに視た……民衆という波打ち際から突如として跳びだし、眼前で獣人に放たれた人生で最後の閃き、光景。
直後に訪れる暗転する視界と凄まじい熱痛、更に嗚咽さえ許さぬ衝撃が鎧を突き抜けて騎士の意識を完全に刈り取った。
力なく崩れた仲間を驚愕の眼差しで視ながらも、獣人に斬り結ぼうと己を叱咤する騎士達……だがその行為すら獣人にとっては無為の蛮行に映る。
「……!!」
緩やかに、しなやかに、されど怒涛……通り抜け様に騎士三人を斬り伏せて、処刑台へ登る階段の前で何事もなかったかの様に止まる獣人。
最早、意味無しと断じ放たれた殺気に残された騎士達は完全に瓦解せざるを得なかった。
ある者は腰砕けとなり失禁し、ある者は泣き叫びながら逃げてゆく……露とも思わなかったあり得ない光景に民衆は茫然と沈黙を守る事しか出来なかったのだろう。
図らずも連なる者達、引いては連盟とブリニガン聖教の威容が剥ぎ取られ踏みにじられた瞬間に立ち合ってしまったのだから民衆の沈黙は仕方のない反応と云えた。
獣人はそんな民衆を冷たく一瞥し、緩やかに処刑台へ上がってゆく……そして。
「我ハ猫人族ノ戦士ナリィィ~!ニンゲーン共ヨ、我ハ空腹ダ~!ソノ女ドモヲ喰ワセロ差シ出セ!デナケレバ……皆・ゴ・ロ・シ……ダァッ!!」
どよめく民衆に対し、大仰にして白々しく身振り手振りを交え言い切る猫人。
そんな異物を排除しようと、まだ民衆へアピールを続けようとする猫人の背中へ斬り掛かる二人の執行人、だが……。
「五月蝿イヨ。」
猫人の右腕がしなやかに刀を背中へ回し、執行人達の大剣をテコの原理で受け弾き体勢を崩す。
続けざまに刀を反転、逆手に持ち変えながら死に体になった執行人達へ横凪ぎの一閃を見舞い、彼等を処刑台より文字通り叩き落とした。
……全ての邪魔者を排除し、涼しい貌で司祭と相対する猫人。
司祭の方はと言えば、護衛も居なければ己を守る術さえない、初めてと言っていい死の恐怖に脂汗と悪寒の抑えが利かない。
「う、失せるがいい、この穢らわしい獣人風情がでなければ神罰を降すぞ。」
「……アンタノ人語ハ速過ギテ聞キ取リニクイ、二人ハ貰ッテ逝ク。」
「何を馬鹿な……許さん許されんぞっ!?」
「(面倒だな)……ナラバ。」
血に濡れた愛刀椚木断を緩やかに司祭の鼻先へ差し向け、生殺与奪が己にあると暗に示す猫人。
「選ベ、コノママ殉教シ神ノ威光ヲ示スカ……二人ヲ差シ出シ、不様ニ生キ永ラエルカ。」
「……なっ!?」
「チナミニ、五秒以内ニ選ベナイ時ハ不様ニ生キル方ヲ取ッタト黙認スル。」
「……。」
意地の悪い脅迫……猫人は生殺与奪を示しながら、神の使徒を自称する者へあえて時間内の自決を促したのだ。
敵対者に殺されれば殉教としてブリニガン聖教の面目は保たれるだろう、だが短く区切られた時の中で迷いなく、しかも教義に反する自殺を選ぶ事は……司祭には出来なかった。
「オメデトウ……コレデ貴方モ『背教者』ダ。」
崩れる様にしりもちをつく司祭を一瞬だけ見下ろしてから、猫人はイノリ達へ近付いてゆく。
恐怖に顔をひきつらせながらも気丈に振る舞うイノリを無表情で見ながら……二人の首縄を引き千切り、お構い無しに両脇に抱えてその場を去ろうとする。
「待って、お願いだから待って。」
「……?」
「黙ってあなたに拐われてあげるから、だから私にも五秒だけちょうだい。」
その言葉に一瞬、困惑の表情を浮かべる猫人であったが二拍の間の後、抱えた右腕を緩めて降ろす。
そんな猫人を背に次の瞬間、イノリは何故か気合いを入れる様に声を張り上げた。
その視線の先にはまだ座り込んでいる司祭に取り入ろうと懸命に介抱するあの貴族の青年がいた。
青年はまだ気付いていない……浮わついた笑顔で尚もゴマをすっている。
「……。」
薄汚れたスカートの裾を掴み、一歩を踏み出すイノリ。
「(おっ……いい踏み込みだな。)」
刹那、遅まきながら青年は気付く、眼前に広がる乙女(?)のひざこぞうに……。
次の瞬間、小気味よく乾いた打撃音が響き、鼻血を吹き出しながら白目をむいた青年は司祭もろとも処刑台の下へと墜ちていった。
その光景の意味する事情は分からなかったが……猫人はあまりに見事な回し蹴りに思わず声を上げて笑ってしまう。
「……『別れ話』は済んだわ、胃袋でも何処でも連れていってちょうだい(やけくそ)。」
改めてイノリを右脇に抱え、処刑台を降りてゆく猫人。
あまりの光景にまだどよめく民衆であったが一部の暴徒が猫人を取り囲もうかと……動い、否、野性に基づいた殺気がそれを許さない。
「……。」
威風堂々、まるで誇示するかの様に胸を張り、ゆったりと割れた民衆の波間を練り歩いてゆく……。
「ちょっと……早く逃げないの?」
「自由気ママニ歩キタイヨウニ歩クダケサ。」
そう嘯き尚も練り歩く猫人……広場の出口門を……くぐり……広場を出た民家の角を……曲がった時だった。
突如として脱兎の、否、脱猫の如く走り出す猫人。
「ちょっと……自由気ままじゃなかったの?」
「追手ガクルダロ……舌噛ムゾ、黙ッテロ。」
次の瞬間、猫人の大腿筋が張りつめ凄まじい浮遊感がイノリと少女を包む。
およそ10米はあろうか……民家を軽々と飛び越え、障害物をものともしない疾走の中心でイノリの絶叫が響く。
「やっぱりついていくんじゃなかったああああぁぁぁぁあっ!?」
断章つづく