日々薄れてゆくもの……。
「……あなたのはねた黒髪、私の子供の頃そっくりね。」
何処か不鮮明なる微笑みはそう柔らかく呟き、甘夏の様な匂いの白く温かな手で幼子の髪を撫でやがて離れてゆく。
(ママ……何で?)
幼子は泣きながら断片的な世界の彼方へ消えてゆくその笑顔を必死に追いかけて、だがそんな焦りに反して水中を歩く様に抵抗がまとわりつき……決まって途方に暮れてしまう。
決して届かない記憶の風景。
(ああ……またいつもの夢か。)
座り込んで泣き続ける幼い自分を冷めた目で見つめているオリハ。
(こんなものだけ鮮明なんだね。)
少女は泣き叫ぶ幼子へ確かな苛立ちを抱いて、唇を噛み締める……その苛立ちの正体が無力な己か、遠ざかる大切な者の顔や声が日々薄れてゆく事か、或いは両方であるのか定かではない。
ひとつ確かなのは幾度となく見る夢の終わりは苛立ちと共に目覚めるだけ……この続き等ないのだ。
そう思っていた……だが。
(……!?)
不意に、幼子が涙に濡れた顔を上げてオリハを見た。
「助けてよ……。」
一瞬、驚き戸惑いで声を発しようとするオリハであったが微妙な違和感から自分に掛けられた言葉でないと察し、振り返る。
……そこには大きく太った『黒猫』が憮然とした表情で座り、オリハを通して幼子を見つめていた。
「………。」
朝焼けの色に染まる天井の陰影が僅かに歪んでいる……。
オリハはベットの中で頬を伝う涙に唇を噛み、手の甲で両瞼を覆う。
「………。」
隣のベットでまだ眠っているターニャに気付かれぬよう、涙を拭い起き上がる。
結局、あの猫人は修道院で寝泊まりする事になった……らしい。
珍しく一日中機嫌の良かったファベーラと思い出し笑いを繰り返すアビゲイルと違い他の修道士達は数日とはいえ、彼が修道院に居着く事を快く思っていないようで、彼が院内を出歩く先々で潮が引く様に人が居なくなってゆく。
その様子を子供達は訳も分からず面白がったが、オリハを含む一部の子供は大人達のこの『忌避感』とも云える変容に対し敏感にもなっていた。
結果……事態に呆れ修道士達へ雷(激昂)を落とした後、ファベーラはタマへ謝意を示し、重ねて庭園にある離れへ移ってもらうよう頼んだ。
当のタマ自身はそんな修道士達の様子に怒りひとつ見せる事なく、あっけらかんとしておりオリハは何故かそちらの方に苛立ちを感じてしまう。
「……文句のひとつだって言えばいいのに。」
「……。」誰にも聞き取れないはずの小さな呟きと共に相部屋のドアを開けるオリハ……。
修道院の朝は早い……のだがどうやら院内に佇む静寂を見る限り、動き始めているのは彼女ぐらいなのだろうか。
否、廊下の窓から中庭を覗くと既にアビゲイルが日課にしている得体の知れない体操を踊っていた。
過去、彼女に教えを乞うた人間は誰1人として体得出来なかったという謎の体操……その動きは緩急の差が激しく、時に人体の関節可動域を完全に無視しているとしか思えないファンタジーが展開される。
「…………。」暫くの間、沈黙を守った後、何処か達観した眼差しで頷くとオリハは洗面所へと向かった。
重ねて、修道院の朝は早い……料理番に従事する修道士達と当番の子供が食堂にて慌ただしく朝食の仕度に追われる頃、礼拝堂は神への静謐なる祈りで充たされようとしていた。
それが一通り済むと修道士、修道女達は朝食となるのだが……ローブの裾を掴み競歩(中には明らかに走っている者も居る)の要領で我先にと食堂へ殺到し、ビュッフェの激しい争奪戦が始まってしまう。
彼等にとって食事は許された数少ない俗事であり、凄まじい執着を見せる者も少なくない。
そんな競争に子供達を巻き込む訳にはいかないと、当然の事ながら別のビュッフェが用意されるのだが……子供達の視線は食堂ではなく他へと向いていた。
「……どきなっ!?」
「ふほほほ……。」
想像だにしない冷徹な眼差しと笑い声を上げて、修道士長は見切れない速さの足運びで廊下を縫う様に移動し、その後ろをファベーラが最早、隠す事もなく激走しながら追いかける。
……誰一人として神へ奉仕する者としての『佇まい』を注意出来る者が居なかったのだろうか。
そんな疑問を置き去りにし、修道士長は食堂への扉を射程圏内へ捉え、一番乗りであると確信した笑みで腕を伸ばす。
次の瞬間、すぐ後ろからケモノの咆哮が轟いた。
凄まじい凶相で意を決したファベーラが身体を捻り、回転を加えて跳んだ……行く先は食堂の扉ではなく修道士長であった。
「神の許へ逝けぇい!!!」
勢いよく開け放たれる扉、それと同時に重なりあって転がり込む二人……静まりかえる食堂、微動だにしない二人、後から来た者と給仕係り達が見守る中で、最初に起き上がったのは……なんと修道士長であった。
「やはり神への信仰が認められているのは私のようだ……。」
口角を歪め、そううそぶきながら颯爽とトレーを掴み、勝利者として蒸せかえる薫りに誘われるまま栄光のビュッフェロードを回り始める修道士長。
ファベーラはまだ動けない、そんな彼女を尻目に後続が続々とビュッフェへ並んでゆく……。
「ああ~あ、これで534勝536敗で負け越したね。」
「相討ち狙いまでは良かったんじゃない?僅かに修道士長が芯を外してたみたいだけど。」
「立ち回り(逃げ足)と変わり身(掌返し)は誰にも負けない……それが修道士長クオリティ。」
「アンタ達、本人の前では言わないでよソレ。」
本日の朝食争いの統括を冷静に分析しながらもファベーラを通り過ぎてゆく子供達……。
「(最近のガキ共ときたら……。)」
心中でそう嘆き、頬を床に擦り付ける様にして顔を上げるファベーラ……何気無くオリハの表情に眼が留まる。
「……。」別段、変わった様子もなくいつも通りに見える少女の雰囲気に引っ掛かりを感じ、眉をひそませる。
敗戦のショックから深い溜め息をもらすとヨロけながらゆらり立ち上がる……みなファベーラの姿をそう捉えていただろう。
殆ど残されてない料理をトレーに盛り、ふらふらと座席へ向かう。
だが彼女は中央にある自分の座席ではなく20名の子供達のテーブルへ、オリハの隣に詰めて座り感謝の祈りを捧げ始めた。
「(余程、私に負けたのが悔しかったのですね……ファベーラ。)」
今日の修道士長のお祈りの言葉は必然的に饒舌かつ長いものとなった。
まさか青春時代にまで話しが遡るとは誰が想像出来ようか……。
業を煮やしたファベーラが焦れた調子で咳払いを洩らす……と完全に悦に入っていた彼も現実へと戻ったらしく、物足りなそうな表情で感謝の祈りを締め括り、全員冷めかけた朝食にやっとありつけた。
「……またあの夢を見たのかい?」
途中スプーンを皿に置き、視線を向けずに穏やかに問いかける……。
オリハはパンをわざと口一杯に頬張りながら、無言で一度だけ頷いた。
「……そうかい。」
それだけを言葉にして、ファベーラは関を切った様に笑い両隣の頭を勢いよく撫で回す。
「……んっ!?」この時、片側にはオリハと同室のターニャが座っており、突然頭を撫で回された事で驚きの余りむせてしまう。
その様子が可笑しかったのだろう……咲いた様に子供達の笑い声が響いた。
謝りながらターニャの背中を撫で、何故か幸せそうに顔の皺を寄せるファベーラ。
「(親なしはあんただけじゃないってのは大人の詭弁さね、分かち合えない痛みも孤独も何時だって自身のもんさ……でもね、私達はそれでも、手前に残ったものと向き合わなきゃならないんだよ。)」
ファベーラは言葉にせず、そう心中で語りかける……それは時間をかけてでも、オリハ自身が理解でなく実感しなければならないと願ったからだろう。
未だ戸惑うターニャとまだパンを咀嚼しているオリハへ眼を細めているシスターファベーラであったが不意に何かを思い出し、ワシ鼻を掻く。
「……二人ともワルいんだけどね、朝食が終わったら『離れ』の方にも食事を運んでやってくれないか?」
その言葉に僅かに眉を動かすオリハ……。
「ん、嫌かい?」
「私はエエですよ……オリハはどうする?」
心配そうな問い掛けに首を縦に振ると、水を一気に飲み込み咀嚼しきれなかったパンを胃へと流し込む。
「持って行……くよ、考えて……みたら昨日……ング、のお礼もちゃんと言ってないし。」
「ああ、そういや街へ行くらしいから案内も頼むよ、奴っこさんどうやら方向音痴らしいからね。」
「猫さんなのに?可愛いトコあんねな。」
そう言うと赤みがかった金髪のおさげを揺らしながら、けらけらと笑うターニャ……対し一瞬、脳裏に過る夢の猫をタマに重ねて何処か憮然としてしまうオリハ。
「(昨日の記憶があの夢に混ざったのかもしれない……。)」
納得も妥協も出来ない結論を暫定的に据え、切り替える様に眼が合ったターニャへ僅かに笑ってみせる。
そのぎこちない笑顔へ安心したと言わんばかりに溜め息をひとつ洩らし、ターニャもふざけてみせた。
つづく