#2
『どうしてこうも都会は忙しないんだ?』
携帯片手に通話の奥の久方ぶりに聞いた声から、そんな言葉が漏れた。
地方から上京して来た人のほとんどは、東京の人は歩くのが速いと思っている。僕もそう思ってる。確かに東京駅はホームも多いし乗り換えも多い。いわゆる線路の密集地帯だ。そこには大量の人間が運び込まれ、駅構内を行き交う。迫り来る障害物を避けるゲーム、乗り降り口においてはまさに戦場だ。時間と人と戦う場所、乗れるか乗れないかで生死を分けられる人もいる。
僕も、東京の人の多さには圧倒されたし、人が人を蹴落としていく様を目にして正直引いた。大人の内面の自己中心的な企みが、上手く隠していても行動、時には苛立ちとともに言葉に漏れる。駅というのはそういうところだと思う。その人本来の性質の現れは、スーツを着た見た目はビシッとした人でも然り。周りが皆、ワレモノのように腫れ物のように気を遣われなければならない空気が、そうさせているのだ。だから、東京に馴染めていない田舎者は異端者であり、のこのことやって来たカモのように当たられる。
『だぁーっ、もう!どっから出りゃいいんだよ!?出入り口こんな要らねーだろ!なんだよ!なぁここドコ?!』
「……東京」
『フザケンナ』
おおよそ、都内の地下迷宮に困惑していのだろう。ちゃんと指定された駅で降りたはずなのに、地下鉄駅から階段を上がって外へ出てみれば目的地が見えない。僕は電話越しにクスクス笑いながら少しおちょくってやると、膨れっ面が想像できる声色で言い返してくる。
まぁこれ以上、僕ですら詳しい方ではないのに、この大都会をほっつき歩かれたらたまったものではない。何より電話がギャンギャン騒ぐ声を拾ってくる。その騒音が耳障りになり始めた頃「悪かったよ」と相手をなだめるためだけに一言添えれば、僕は都会に不慣れな迷子を、適当な建物を目印にナビをして、通話を切った。
そんな不親切で分かり難い東京の雑踏を抜け、どこかレトロな雰囲気を漂わせた、趣のある喫茶店の扉をからんからんと揺すった。音に気付いた男性店員が場にふさわしい声量で「いらっしゃいませ」とハッキリとした滑舌で、店内にテノールを響かせる。
この喫茶店には何度か足を運んでいるため、顔見知り程度だが男性店員に軽く会釈をして案内されたカウンター席に座った。
「おう、ナツ!久しぶり」
「ハル…お前、変わんないなー。久々に電話したときから思ってたけど」
「第一声それかよ!?」
もうすっかり機嫌は良くなっているようで安心した。
待っていたのは高校時代、共にくだらない青春を送った親友。
大事なサッカーの試合の前に、近所の神社の、何段上から飛び降りれるかという勝負をして、足を捻挫した。上履きを脱ぎ、学校の廊下を全速力で走って急停止して、どこまで滑っていけるか勝負をして、滑りすぎて腰を打った。そんな馬鹿みたいなことばかりして来た高校生活。ハルこと、佐倉春太郎のお陰で、教師たちの中では監視対象であっただろうが、そこまで縛られた生活ではなかったし、怒られたりもしたけれど、今になっては心に残るような良き思い出だ。
仕事の合間にちょくちょく会うのはコイツと、後、もう一人。というか、たまに住んでいたところから会いにきてくれるのは彼らだけ。特別仲の良い友達、というわけである。
そのもう一人の姿が、今日はない。
「そういや、チアキは?」
「あぁ、あいつ?今日は幼稚園のプール授業があんだとよ」
「そっか。じゃあ仕方ないな。つかあいつもちゃんと仕事してんだなー」
「おいナツ…お前、俺らを何だと思ってんの?」
考え方の甘かった高校生時代。進路なんて、大方決まっていない人の方が多い。取り敢えず大学、みたいな。というのも、専門分野に進学したところで、そのままのレールを真っ直ぐ順調に進んでいる人の方が少ないからだ。蓋を開けてみたら別の人生を送っていた、最初に取り敢えず感覚で決めた夢とか進む道とか、途中で分岐しているレールの進路を変えて、そしてまた乗り換えたり。だから、留年とか浪人なんてこともざらにある。そうやって壁にぶつかって、時には弾かれたりして人生を歩んでいく。のだと思う。
僕自身、高校での進路は就職だったから変わりないとは思うが、自分たちの将来の姿や在り方など、その時とは比べ物にならないほど想像出来ない人もいる。その例がチアキだ。彼女は言うなればギャルだった。髪の毛も染め上げて痛んでいたし、化粧もケバい。近寄りがたい雰囲気だったし、僕もなんでチアキと仲良くなったのか謎なほど。短気で周りにガン飛ばしてたそんな彼女が今は黒髪でナチュラルメイク。幼稚園児を相手に楽しそうに、保育士として仕事をしている。
それもこれもハルが「お前化粧薄くしたらもっと可愛いんじゃない?」と怖いもの知らずに、厚かましくアドバイスしたお陰でもあった。確かにチアキの笑顔は子供受けも大人受けもする、柔らかい表情だった。
そんな中、若干一名身も心も変わらず普段通りの安心感はあるが。
「…え?なんだよ、顔に何かついてる?まさか、ちょっとヒゲ生えてる?!ちゃんと剃ったはずなんだけどなー」
「いや、お前の肌つるっつるだから。大丈夫」
大人になって、社会の中に慣れ親しんだ今では、その意外性を知る楽しみを覚えた。
会って話すのは決まって昔のこと。そして今との比較。それから、お互いの近況報告。
離ればなれだった期間の長さと仲の深浅度の違いにより、いつの間にか時を忘れ、世間話は弾んでいた。
せっかく流れているジャズピアノのBGMが店内を盛り立てているのに、注目を集めそうな、聞いているこちらとしては不愉快極まりないゲラゲラとした小汚ない声を耳にしながら、僕はその愉快犯に同情するようにムッと口を閉じたまま目をやった。
「…っいや、ごめんって。んな顔すんなって」
「笑いすぎだろ」
「いやだっておま、それ…、っ」
「なんだよ…」
堪えきれない声を喉の奥でくつくつと鳴らす。
受け取る側としたら滑らない話だし、柄にもなく自虐ネタを披露した自分のせいで間違いはない。しかし、自分として面白くないと思っていた話をここまで笑われると、話し手としての素質があるのではと疑いたくなる。
それは、僕が高校を卒業する少し前の話。
何かしらのアクションを起こしてくるに違いないとは思っていた。
僕はさも予測していなかったかのように首を傾げながら手渡された紙切れを受け取ると、キリッとした顔で「ありがとうございます」と言った。
ご当地のものがあるほど、鉄道ファンの中でも話題性のある発車メロディーが鳴り、扉が閉まったあと僕はその手紙を早速開いて見てみた。
緩んでいた口角がみるみる消えて、真面目な顔になる。
満員電車で人にもみくちゃにされながら、急いで書いた文字。そこに綴られていた事実に、僕は暫くの間何も考えることができない。
もしかしたら、
チャック
あいてるかもしれません。
もし、この内容をこっそり背後から見られていたら非常にシュールな展開だっただろう。
取り敢えず、せっかく知らせてくれた女性に複雑な気持ちを抱きながら、早いところ確認しなければならない。だから、これから僕がする行動を、決して変な目で見ないでほしいと思う。というか、そもそも誰にも見られずに済んでほしいと願う。心からそう思う。
息を吸って吐いた。
一瞬にして覚悟を決めた僕は恐る恐る、そしてどさくさに紛れて自分の股間を触った。
感触的に、チャックは全開といったところだ。
あの子、謙虚だなと、また思った。
「もしかしたら」だなんて、もしかしなくとも、もしかしていた。
その気遣いが逆に切なかったが、僕は次の駅で降りて就職活動の最大の修羅場を迎えようとしていたため、感謝せざるを得ない。
最終面接に、まさかチャック全開の状態で挑む者がいるだろうか。いたとして、その者を採用する会社は少ないだろうし、何人も面接しなければならない面接官に意味のない印象を与えてしまっては、いずれにしろ不合格は9割以上、免れない。
多分僕は、一生この出来事を忘れないと思う。思うっていうのは言葉だけで、年寄りになってもボケたとしても覚えていられる自信はある。
ちなみに僕が今勤務している会社が、あの時下品な身なりで面接を受けそうになった会社。
この話は、会社の仲の良い同僚にも、もちろん上司にも部下にも誰にも話したことはない。ただの一度も。
「まぁ良かったな!気付いてもらえて!!」
「んあー、まぁ、微妙なとこだけど…」
そんな話を、やはり一度たりとも打ち明けず、このまま自分の胸の内に仕舞っておけば良かったと、隣でオレンジジュースを飲みながら顔にしわを作って笑うハルを見て思う。
笑い疲れて、暑そうに半袖のシャツをパタパタと仰いでいる。
僕は唸った。確かにハルの言う通り、気付いてもらえて良かったっちゃ良かったのだが、僕からしたら引っかかるところもあり腑に落ちなくて、純粋に肯定することはできなかった。