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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

井戸の中の短編集

非常識な人

十六年位前に書いた短編が引っ越しで出て来たのでアップします。

さらっとお読みいただければ幸いです。


※グロ描写及び頭おかしい人。及び子供の死亡シーンがあります。ご注意ください。

 いつも利用する地下鉄は混んでいる時間が決まっていて、朝は七時半から八時半頃まで。夕方は五時半頃から八時頃まで。特に朝は通勤者と通学者が完全に重なるので、腰が痛くなるくらい混む。

 しかし大学生である僕は講義の関係で時間をずらすわけにもいかないので、狭苦しいのがわかりきっている電車に渋々乗ることになる。


 その日の朝も薄暗いホームにぼんやりと立ったまま、集団の先頭で電車を待っていた。うっかり本を忘れてしまったので、どうにも手持ちぶさたで仕方がない。

 視線を携帯電話や腕時計に向けたりしたが、あと五分を潰すには全く足りない。鞄を足下に置いて、線路や壁に貼り付けられたプレートの、意味の分からないアルファベットと数字の羅列を見ていた。


 僕はいつもよりも少しだけそわそわした気分でいる。今日は同じ大学の女の子をデートに誘おうかと考えていたのだ。

 映画でもいいけれど、つい先日から始まった美術展でもいいかもしれない。デートは誘うときが肝心だから、おろしたての真新しいシャツを着てきた。新しいものというのは、どうして意味もなく気分が良くなるのだろう。何の根拠も無いけれど、デートもうまく誘えそうな気がする。


 そうして僕はむずむずとした気分を押さえながら、五分後の電車を待っていた。たった五分間だが、気分が高揚しているせいか、普通よりも大分長く感じる。

 目に入る番号を全て見終わると、すぐに新しい暇潰しを思いついた。隣の列の先頭で、さっきから延々騒いでいる親子だ。普通ならいらいらとしてしまうだけだろうが(実際、さっきまでそうだった)、なるほど恋をしているというのは素晴らしい。逆に考えれば騒いでいる人間を見ていれば幾分か暇つぶしになるということまで頭が回った。さりげなく、横目で見るように騒音の中心に視線を向けた。


「いいかげんにしろ!」

 僕の視線の先、隣の列で叫んでいるのは見た目三十代半ばくらいの男だ。さっきからずっと、連れの男の子(おそらく息子だろう)を叱り続けている。

 男の子は四歳か五歳くらいだろうか。この二分で二発ほど頬をぶたれて、わんわんと泣きわめいている。その泣き声が父親をよけいにいらつかせるのだが、子供にはそんなことはわからない。


「わざわざ迎えに来てやったのに! なんだ、その態度は!」

 また一発、子供の頬を張った。

 こういうのは、見ていてどうにも腑に落ちないことが多い。どうしてこの男は、息子が泣いている理由が自分にあることを知りながら叱り続けるのだろうか。

 親子の周りの無表情な人たちは、彼らに一瞥もくれずに本を読んだり線路を眺めたりしている。中年の女性数人だけが顔をしかめてちらちらと見ている。だが、暴力主義の父親を注意しようという気は毛頭ないらしい。僕も同じだが。


 そうこうしているうちに、父親の暴力は次第にエスカレートしていった。今は、息子のズボンのベルトを掴んでぶんぶんと振り回している。子供は腹を圧迫されて、苦しそうなうめき声を上げている。

 きっとこの父親は、別に子供が憎いだけではないのだろう。虫の居所が悪くて、たまたま目の前に格好の獲物がいた、といったところだろうか。男の説教の中には、息子の責任とは思えない内容も多い。


「お前なんか生まなければ良かった!」

 別にあんたが生んだんじゃないだろう。単一の感情に支配された人間の言動というのはどこか滑稽になることが多々あるらしいが、彼もその例に漏れないようだ。人間というのは観察すればするほど面白い。

 僕は、口の端に笑みを浮かべた。そう考えると、本を忘れてしまったこともそこまでマイナスではないのかもしれない。何事も前向きなのはいいことだ。


 やっと姿を見せた電車に視線を移した。僕が立っているのは先頭車両の出入り口だ。後ろの方にいると電車が起こす風が強すぎて髪がぐしゃぐしゃになるので、最近はずっとこの位置に決めてしまっている。電車を降りてからの、出口までの距離も近い。

 ここは単線だから、親子はこの電車に乗るだろう。車内でも騒ぎを続行するのだろうか。電車の中は声が響くから、大声で騒ぎ立てるのは躾のなっていない高校生共々鬱陶しいのでやめてもらいたいのだが。


 そんな心配をしていると、件の父親が実に思いきった大胆な行動に出た。

 ブレーキの音を構内に思い切り響かせている電車の目の前に、息子を蹴り入れたのだ。誰も、この男が衆目を気にせず殺人に走るとは、誰も想像もしなかったに違いない。

 瞬間、時間が止まったようだった。思い出してみると、その場の人間で一番驚いた顔をしたのは、帽子を被った運転手だった。きっと彼は、これ以上絞れないのにブレーキを固く握りしめただろう。唯一、父親だけがその場で笑っていた。僕はどんな表情だったろう。鏡を持ち歩く習慣がないのは、こういうときに不便だ。


 鏡はいずれ買うとして、父親のこの突然の行為は、僕に困った影響を与えた。死んだ子供の血を、真っ白のシャツやら腕やらにたっぷり浴びてしまったのだ。

 先述の通り、僕は先頭に立っていた。その僕の目の前で、子供が鉄の箱に押し潰されたのだ。血しぶきだけならまだしも、ピンク色の脳漿やらよくわからない肉片やらまで服に付いてしまった。見ると、隣に立っていたサラリーマンもスーツを血まみれにして唖然としている。


 これでは、この父親と無関係でいるのはちょっと不可能だ。僕は鞄に張り付いた内臓の欠片を指で摘まんで引き剥がしながら、つかつかと男に近づいた。

「ちょっと、おじさん」

僕はできるだけ怖い顔を心がけ、低い声を絞り出した。

「なんてことしてくれるんですか。今から学校に行かなきゃならないのに。見てくださいよ、このシャツ。おろしたてなんですよ。結構高かったのに」


 早口でまくし立てながら、ぐいと詰め寄って見せた。僕の背は決して高くはないが、畳みかけるように言ってみると、頬に少しだけ血が付いた男は一歩だけ下がって、困ったような顔をした。

 相手が若いと知ってか、僕を見る視線には軽い軽蔑が含まれている。

 人を馬鹿にしたような表情をする無精ひげの四角い顔は、僕を心底怒らせるには充分すぎた。生来僕は生理的嫌悪感というものを信用しているので、一も二もなく「僕は、この男が嫌いだ」という結論を出した。それでなくとも、この愚かな父親のせいで僕の今日一日の充実した計画が頓挫してしまったのだ。許せるわけがない。


「とりあえず、学校に遅れる云々は仕方がないにしても、この、どす黒い血で汚れたシャツを洗うために、クリーニング代くらいはいただきたいんですがね」

 僕はできるだけはっきりと言ったつもりだった。それでもどうやら彼には巧く伝わらなかったらしく、きょとんとした顔で僕を見ていた。財布を出そうという素振りもない。


「あのね」

むっとする血の匂いに、頭が少しふらふらする。

「この血はあなたが殺した子供の血なんですよ? わかりますね? 僕が思うに、あなたには僕にクリーニング代を払う義務くらいはあると思うんですが、違いますか?」


「なにを、この」

男の狼狽は完全に怒りの表情に変わった。

「わけのわからんことを言いやがって、クリーニング代だと? 誰が出すものか」

 何という非常識な男だろう。怒っているのはこっちの方なのに逆に怒り出すなんて。僕はこめかみが熱くなってくるのを感じると、腕を鞭のようにしならせて、右手の甲を男の鼻に叩きつけた。

人差し指が目に入ったのだろう。第二関節あたりが男の涙でじっとりと濡れる。


 不意打ちを喰らった父親(子供が死んだから元父親か)は、顔を押さえてびいびい泣きながら電車の壁にぶつかると、身体を捻ってこちらに尻を向けるようにしてうずくまった。そのズボンのヒップポケットに、財布が入っているのが見える。

 こんな所に、それも見えるように財布を入れるのは不用心ではないだろうか。


 僕はその財布を抜き取ると、中に五枚ほどの一万円札が入っているのを確認した。

 指先の血をなめとって、汚れないように注意しながらその全部を抜き取った。小銭を残して空になった財布を、未だうずくまって呻いている父親の方に投げ捨てて、僕は二万円を折り畳んでポケットに押し込み、残った三枚を、僕と共に血しぶきを浴びたあのサラリーマンに渡した。


「スーツって、クリーニング代高いんですよね。どうぞ、使ってください」

「ああ……あ、ありがとう」

 まだ血しぶきで服が汚れたのがショックだったのだろう。それとも、僕のような若者がこんな親切なことをするのは珍しいと思ったのか、うまく笑えない様子でお金を受け取った。

ひょっとしたら、元々照れ屋さんなのかもしれない。


 善行に気を良くしたのもつかの間、僕はシャツの血が乾きはじめて薄汚い色に変わってきているのに気づいた。周りにはいつの間にか人が多くなってきている。元父親も制服の男たちに取り押さえられた。

 それを見ていた僕はこんな服で大衆の面前にいることが恥ずかしくなって、さっさとプラットフォームから離れた。

 一度家に帰って着替えないと、とてもデートのお誘いなんてできない。僕はブツブツと文句を言いながら血まみれのまま歩き続けた。


ありがとうございました。


良かったら、他作品もよろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 実際にありそうで、足元からそっと冷えてくる話でした。 [一言] うーん、きっとこのやりとりの間には、 事件現場を「いいネタ遭遇!」とばかりに興奮しつつ 写メや映像を撮る人、ツイッターとか…
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