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過去は、逃さぬ


         ※


「法都:エクストラムか――現実にはおりもせぬ神を信奉するにとどまらず、このような馬鹿でかいゴミ溜めを築くとは、なんという壮大な無駄よ。やはり、人類とは我々に管理されてしかるべき家畜の群れよな」


 闇夜であった。


 その闇に音もなく雪が降っている。

 いや、本当は雪にだって音はあるものだ。ただ、それはあまりに小さく、かすかで、そして連なりすぎて、かえって他の音を覆い隠してしまうのだとバルベラシュテ・カーサ・ラポストール――バルベラは思う。


「街路を利用した小癪な結界も、そのずさんな修繕のおかげで年々傷んでおるとも気づけず、また、雪に覆われてしまえば無効化されるとも知らず……人類とはまったく退化を続けるケダモノだな」

「御意」


 降り積もった雪に、まったく沈みもせず、バルベラは言った。

 漆黒の重甲冑はぬめるように動き、彼女の動作を阻害する様子もない。


「無理を言ってすまなかった。見送りごくろう。これより先は、わたしひとりで充分」


「姫」とバルベラのかたわらにひざまづく美丈夫が声をかけた。


「ごくろう、とわたしは言ったのだ。カダシュ。月下騎士の命ぞ。ガイゼルロンに戻るがよい。わたしはともかく、そなたに陽の光は毒であるからな」

 雪中にじかにひざまずく美丈夫の――カダシュと呼ばれた男の――肉体は一片の衣さえまとっておらぬ。その身から吹き上がる蒸気は、肉体に触れた雪片が溶けたものだった。


「このカダシュ。姫とどこまでも、ご一緒したく」

「愛い奴。しかし、そなたがわたしを大事に思ってくれるのと同様、わたしもまた、そなたを大事に思っておるのだよ」

 従ってくれるな? とバルベラの氷のような美貌が笑みのカタチを取った。

 その言葉にカダシュと呼ばれた全裸の美丈夫は深く頷いた。しかし、下げた頭をいつまでもあげようとしない。

 かちゃり、とバルベラが左のガントレットを外したのはその時だ。

 真っ白な絹の手袋に包まれた指先が現われた。それは繊細な氷の細工物のようだった。


「我が礼を受け取るがよい」

 直後、白刃がきらめき、バルベラの左手が切り落とされた。

 血の華が咲いた。

 しかし、左腕が地面に落ちることはなかった。

 カダシュが神速の動きで受け止めたがゆえに。


「さしあげよう」

 ぶるっ、ぶるっ、とカダシュの肉体がおこりのように震えた。

「さ、はよう。なめておくれ。そなたの熱い舌で」

 その命にカダシュは従った。

 懸命に主の傷を舐め、血を止めようとするカダシュの眼前で、奇怪なことにその傷はみるみるうちに塞がった。気がつけば、カダシュの手の中に残された左腕を除いて。

 これこそ伝説に語られた夜魔の、その高位存在の再生能力に違いなかった。


「さ、その左腕は喰らうがよい。遠慮など無用」

「な、なりませぬ。わ、わたくしのような下位序列が……姫の、御身を喰らうなどと」

「カダシュにさしあげたいのだ」

 弾かれるように見上げたカダシュの金色の瞳が、限界まで見開かれ血走った。

「はよう」


 くすり、と試すようにバルベラが微笑んだ。

 その瞳が濡れたように光っている。


 促されたカダシュの肉体が、めきりめきりと音を立て、すさまじい変形を見せた。恥じるように折った背中から剛毛が吹き出した。口は耳まで裂け、吻は突き出し、鋭い犬歯が抜き身になった。手足は鋭い爪を帯び、その姿は巨大なオオカミそのものとなった。

 そして、身も心もケダモノと化したカダシュは、バルベラの左腕を、その手袋ごと貪り食った。

「美味か? 美味かや?」


 いきり立ち遠吠えをあげるカダシュにもたれかかりながら、バルベラがうっとりと瞳を閉じた。

「それでは、バルベラの願いも聞いてもらおう。そなたの――血が欲しい」

 カダシュは従順にその首筋を差し出した。

 バルベラはびょう、とまた白刃をくり出すと、その首筋に走った傷へと己の唇を近づけ、長い牙を埋めた。


 そして、つぶやいた。


「お姉さま――いま、バルベラが参ります」

 その低いつぶやきを聞いたものは、いない。

 

 人狼:カダシュでさえ、しかとは聞き取れぬつぶやきであった。


         ※


 装いを直して現われたメルロに、ネロは息を呑んだ。


 言葉を失うほど美しかった。


 いや、ネロのひいき目を差し引いてもメルロは普段から美しかった。

 長命の夜魔ゆえ、その言動がある種の達観とともにやや上方からの目線を帯びるとはいえ、メルロのそれは彼女自身の深い情に裏打ちされており、それが内側から滲み出るように、ひとを苛立たせるところがない。


 むしろ、その可憐すぎる容姿と相まって、なにか、こう蠱惑的な魅力すら醸し出すのだ。


 そのメルロが、普段は下ろしている髪を結い上げ、首筋まで覆う貴婦人のごときドレスで現われた瞬間、ネロは背筋に電流を流されたように感じた。

 普段のメルロにはその身からあふれ出る喜びが波動のようにあって、それが相対するネロの心さえ陽光のように明るくするのだが、この夜のメルロには拭いがたい影の匂いがあった。

 それがメルロの全身を鎧っていた。


 それを厳しさ、峻厳さ、あるいは――憂いとでも言えばいいのか。


 本当の名門貴族――浅薄な成り上りには決して醸し出せない血統だけが持つ、年月の重みのようなものが感じられた。歴史だけが醸造可能な時の重み、とでもいうのか。


 ネロの感覚に言葉を直すなら――歳経た特級畑グランクリュのワインのように。


 ネロは選び抜いた自身の最高傑作をメルロの前に差し出した。

 二脚のワイングラスがどこからともなく、粗末な古いラウンドテーブルの上に出されてあった。はっ、とまたネロは息を呑んだ。そのあまりの薄さ、形状の完璧さに。


 メルロの持ち物に他ならなかった。


 ラポストール伯爵家由来の品だ。こんなに透明で、薄く、硬質のグラスをネロは他に知らない。たぶん、法王そのひとでさえ持ってはいまい。

 装飾は皆無で、だがだからこそ、ネロにはその素晴らしさ、完璧さがよくわかった。

 己の権力を誇示するための道具としての食器ではなく、これはどちらかといえば、職人の道具、希代の天才騎士の武具のような精悍さを備えているのだ。


 室内を照らし出すのは卓上に直接据えられた蜜蝋だけ。降り続く雪のせいか、静寂が痛いほどだ。


 そこにたたずみグラスを見つめるメルロは、まるで一枚の絵画のようだった。


 ネロはそこに自身で最高だと思う一杯を注いだ。


 ネロはいつものように、メルロのグラスと触れ合わせて乾杯をしようとした。

 この時代、グラスを合わせることは互いの唇を合わせるほどの意味がある。


 けれども、メルロは乾杯には応じたものの、グラスが触れ合うより早く下げた。

 肩透かしを喰らったカタチになり、ネロはまごついた。

 こんなことは初めてだったからだ。

 だが、なぜか、そのことを追及する気にはなれなかった。


 静かにふたりは、まるで儀式のようにワインを飲んだ。


「!」

 はっ、とした。ネロはこのワインを選び出すためになんども利き酒をした。

 だが、いま、眼前で呑んだそれは、ネロが抱いていた、選んだはずの酒と違った。

 あきらかに、まるきり。具体的には味の奥行きがちがう。特徴が引き出され、あきらかに旨く、そして、隠されていた短所さえもがはっきりとわかった。


 ひとことで言えば、鮮やかなのだ。


「なんだ……これは……どうして……ただ、デキャンタに移しただけなのに。こんな短時間で……」


 そこまで言い、ネロは見抜いた。


「そうか、このグラス――このグラスがワインの味を引き出しているんだ」

 なんどもワインを口に運び、色を見、また鼻をグラスに差し込むようにして嗅ぎ、ワインを回しては嗅ぎ、ネロは唸った。ためしに自前の錫のゴブレットを使ってみる。

 まったく、完全にちがう。同じ酒なのに、別物に感じられる。


「まるで……まるで魔法だ!」


 もちろん、それが魔法などではないことをネロは知っている。

 この物品には呪いもかけられてはいない。もちろん《スピンドル》能力者のための道具――《フォーカス》でもない。


 口に当たる部分のグラスの薄さ、曲面の角度、薫りを収束させる形状。

 紛れもない、純粋な、技術の賜物だった。


「メルロ……すごい、これは……すごいな! こんな、こんな世界が!」


 子供のように目を輝かせるネロの向こうで、メルロは瞳を閉じていた。

 つう、とその白磁のような頬を涙がすじになって流れて行った。

 ネロは、そのさまを魅入られたように見送ることしかできない。


「これは、わたしが持ち出せた数少ない品――輿入れのときの持参品のひとつなのです」

 かしこまり、正しい〈エフタル〉語でメルロは言った。

 いや、これがメルロの本質なのかもしれなかった。

 メルロがその瞳を開き、ふたたびネロを見つめたとき、そのエメラルドの瞳は壊れそうなほどに揺れていた。


「輿入れ? ……嫁入りの? それって――」

「わたしは既婚者なのです。ネロ・ダーヴォラ」


 鈍いネロにも、メルロの言うことはさすがにわかった。

 子供のような反応を見せていた自分が恥ずかしくなった。

 これは告白――いや、懺悔なのだと。


「まさか」

「ラポストールは旧姓。正しくはハイネヴェイル。メルロテルマ・カーサ・ハイネヴェイルがわたしの名前。ハイネヴェイル家はラポストールに並ぶ、ガイゼルロン三伯爵家のひとつ」


 ネロは呆然とすることしかできない。


「わたし、あなたをたばかっておりましたの」

 どんな罰でも受けます、とメルロの背筋が伸びた。

「もし、いますぐに出て行けと言われるなら、出て行きます。死ねとおっしゃられるなら……夜魔にそれは難しいでしょうが――達して見せましょう。隷属をお望みなら……それでもお傍にいれるなら……こんなにうれしいことはない」


 もちろん、あなたに裏切りを働いた女が、そんな望みを口にすることこそおこがましいというものですが。


「なんで……いまごろ」

 そんなことを言うんだ、とネロはつぶやいた。虚ろな声だった。

 メルロの告白は、あまりに唐突なものとしてネロには感じられた。

 ゆらゆらと蝋燭の炎が揺れた。


「本当に愛してしまったから。ネロの醸すワインだけではなく、そのワインに込められたあなたの心に、恋を病してしまったから。本当に愛すると決めたから」


 揺れる瞳が片時も離れずネロを捕らえていた。


「夫は伯爵なんだよな」

「ええ」

「どうして――逃げたんだ」

「あの冷えきった居城に、わたしは耐えられなかった」


 氷室のような場所なのです、とメルロは言った。温かい、冷たい、という物理現象ではない。あそこには心のないヒトのカタチをした虚ろ、人形が蠢いているだけ。

 壮麗な白亜の宮殿はわたしには巨大ながらんどう、虚ろな監獄にしか思えなかった。


「それゆえに、ヒトの生き血が必要だった。温かい血潮を飲み下し餓えを癒す一時だけ、自分が生きているのだと実感できる。望みもなく、ゆえに絶望もなく、ただ、くり返される永劫のときのなかで、忘れることのできない記憶に苛まされる」


 ヒトの血に溶けた夢だけが、まるで麻薬のようにそのつらさを忘れさせてくれる。


「そういう場所で、わたしは生きて参りました」

 あらためてネロは眼前の女が純血の夜魔、それもほとんど最上位種の姫君であることを思い知らされていた。普段のメルロが見せる明るい可憐さにネロはそれを忘れていた。いや、互いが努めて忘れようとしていたのかもしれなかった。


「貴族の家ではあたりまえですが、婚姻は当人同士のあずかり知らぬところで家同士が決めるもの。母も、祖母も、同じようにして嫁いできて、また嫁いだものです。だから、わたしもそれが当然だと思っていた」

「それなのに、なぜ?」

「たぶん、きっかけは、ヒトの醸したワインを飲んだせいでしょう」

「?」

「我が祖国・ガイゼルロンは多くの葡萄の北限を越えてしまっている。自国でワインを造ることは難しい。だから、ワインは生き血についで尊重される貴重な飲み物でした。なぜって、そこにはまるで生き血のように夢が溶けているのですから」


 瞳に一杯の涙を堪え、微笑んでメルロは言った。

 このまま、消えてしまうのではないか。ネロの胸中にそんな不安を掻き立てるほど、メルロは儚く見えた。


「恋を――恋をしてしまったのでしょう。ワインとそれを作り出す人間に」

 そんなネロにメルロは告白を続けた。

「ガイゼルロンの宮殿にはあらゆるものがあった。高位夜魔の寿命は事実上無限。まだ老衰で死んだ者などいないから。

 だから、どんなものでも手に入れることができた。時間は常に我らの味方だった。

 でも、たったひとつ、ないものがあった。

 それは――“愛”

 胸のうちに灯り、心臓に熱を与えてくれるこの想いだけは、なかった。

 ワインは、いっとき、わたしの胸にその灯を灯してくれた。

 だが、それも、時とともにやがて失われる。

 そして、その陶酔が去ったとき、時間の牢獄に囚われた空っぽの自分をより残酷に意識するようになった」

「その――夫とのあいだに、愛はなかったっていうのか?」


 思わず口をついた質問に、これでは以前の男に嫉妬しているみたいじゃないか、とネロは自身を恥じた。だが、訊かずにはおれなかった。

 メルロは誠実に答えた。


「わたしの愛は、それまで、きっとすべてが借り物だったのでしょう。しきたりと伝統と、牢獄に刻まれた記号が起させる反射的な行動。そのことをヒトの血とワインが教えてくれた。家を飛び出すまで、わたしは、その借り物を本物だと勘違いしていたのです。

 けれども、だとしたらどうすればいいのか、そこまではわからなかった。

 糸を切られた操り人形のように。

 そんなときです、大公家の息女に再会したのは……」


 シオンザフィル・イオテ・ベリオーニ・ガイゼルロン、とメルロは言った。


 百五十年以上も昔に夜魔の血と決別し、同胞を離反した伝説の存在だという。

 遠く異教の地で再会したその姫君のかたわらには、人間の聖騎士がともにあった。

 同族殺しの罪で大公家から精鋭の刺客が数十人も送られている凶状持ち。物狂いとして始末されるべき彼女は、同じく家を棄てたメルロを同志と見なしたという。


「考えられなかった。シオン殿下は、人間の、それも聖騎士を自らの伴侶としたのだと仰った。生きるも死ぬもともに、と誓ったのだと。

 それは永劫の命を手放すことではないのか、とわたしは震えながら問うたのです。

 すると、殿下は嬉しそうに微笑んで仰った。

 愛したものとともに果てることができるというなら、それがたとえ夢の途上であっても、これほど嬉しいことはない、と。

 それよりも、わたしが恐れるのは『燃焼のない生』なのだと。

 かたわらの聖騎士がそんな彼女の手を慈しむように取ったのを忘れません。

 わたしはその言葉に深い感銘を受けたのです。ふたりのそのありようにも。そして、無謀と知りながらエクストラムへ向かいました。人類の叡知の砦と言われた聖地へ。

 楽な道のりではなかった。追っ手が迫っていたし、さまざまな結界がまだ生きていた。

 気がつくと、餓えと疲労に倒れていました」


 それを救ってくれたのが、ネロ、あなただった。


「うれしかった。いないはずの神に思わず感謝した。あなたのくださったワインに、たちまち恋をしてしまった。――その“夢”に」

 たぶん、とうつむいてメルロは言った。

 その肩が震えていた。


「たぶん、ルシルのことがなかったら、それをあなたへの愛だと勘違いしたまま、わたしはいたでしょう」


 恥じていた。己の欺瞞を。ワインへの愛とネロへの想いを混同していた自分を。

 絶え間なくその瞳から涙が落ちる。


「でも、同じように――代筆の手紙という“虚構”のなかから、ルシルはあなたを、ネロを見つけ出した。すごい、と思った。同時に恐くなった。勝てないって。取られてしまうって。必死になって返事を書くネロの後ろ姿を見て。わたし、わたし……」

 やっとわかった。

「ネロ、わたし、あなたが好きです……だから、」

 だから、もう、これ以上、嘘をつけない。


 血を吐くようなメルロの告白を、ネロは最後まで聞かなかった。

 いや、言わせなかった。

 立ち上がり、その華奢な体を抱き上げた。

 乱暴に掻き抱く。メルロの衣類の綴じヒモを力任せに引き抜いた。

「釈明なんて聞きたくない。オマエの過去なんか知りたくもない」


 グラスを奪い取り、卓上に置いて言った。


「いま、オマエが誰のものか、徹底的にわからせてやる」

 あきらかな恫喝であるはずなのに、メルロの涙はうれし泣きに変わってしまう。


「わたし……なんども、なんどでも教えてもらわないとわからないんです。物覚えが悪いから」

「泣いて許しを乞うても、もう遅いからな」

 完全記憶を種の特性として持つ夜魔の姫であるメルロが、物覚えの悪かろうはずがない。

 それでも、なんども、その身に刻んで欲しい、とメルロは言ったのだ。

 ぎゅう、とメルロがネロを抱き返した。ふたりの間に言葉は無粋だった。


 ぐぐー、とベッドでベルカが寝言を言った。



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