ベルカ、たべるのか?
しんしんと雪が降っている。
すっかり雪化粧した遺跡群のただなかに、旨そうな匂いが立ちこめている。
夏の間にコツコツと集め割っておいたブナの薪を使い、大鍋ですじ肉のシチューを掻き混ぜ匂いの原因を作っているのは他に誰あろう――ネロだった。
パートナーである夜魔の姫――これも考えものだ――メルロに関して言えば「おぬしの造ったワインさえあれば、メルロは生きていけるのじゃ」ということだそうだが、ネロ自身はそうもいかない。
ヒトはワインのみで生きるにあらず、だ。
アテ(酒の肴)がなければ。
んふ、となにがおかしいのか自作の格言もどきに吹き出して、ネロはシチューの味見をする。
自前のナイフでよく煮えたすじ肉の一片を突き刺し、なんども息を吹きかけて口中に放り込む。たくさんの種類(ようするに残っていた切れ端、全部を突っ込んだ)の野菜と豆類を使ったシチューはネロの好物であり、また得意とするところであった。
しっかりと煮込まれたすじ肉は蕩けるようでいて、その奥にクニュリと噛み応えのある部分を隠している。
じわり、と旨い。この旨味が豆に染み込み、滋味を引き出すのだ。
そして、口中の感触にメルロとの情事を連想してしまうネロの脳味噌は、きっとピンク色のシェードがかかってしまっているはずだ。
バカなのである。阿呆であり、色ボケなのである。
「さて……そろそろ仕上げ時だな」
この「仕上げる」ことを古代語にして古典である〈エフタル〉では「アドレナルワ」という――わけはないが、まさしくネロはすこし高揚して塩壺を抱えた。
この手の料理は「塩」のタイミングが肝要だ。
素人は早い段階で塩を入れてしまい、味をぶち壊してしまう。入れ過ぎればすべてが海みたいな味になるし、だんだん煮詰まっていく過程で塩気が強くなることを想定していない。そして、一度でも素材に入ってしまった塩味は、そのあといくら水で薄めてもなくならない。さらには素材それそのものにも、わずかだが塩気があり、それも加味して調味しなければならぬことを知らないのだ。
まず徹底的に素材から水分を抜き、そこから味を加える。
すると調味料の量も少なくてすむ。結果的に素材の味が立つ。
塩は最後の最後。香りづけのオリーブオイルの直前。なんども味見しながら慎重に。
これはマストだ。
「それにしても、よく降るねえ」
はふはふ、とまた味見し塩を加えながら、だれとはなしにつぶやいて、ネロは天を見上げた。
薪の束を椅子替わりにネロの座り込むここは、自宅兼醸造蔵である地下迷宮からすこしだけ離れた大アーチの真下にあたる。
調理用のかまどが自宅に近すぎると、煙突のない室内に煙が吸い込まれてとんでもないことが起こる。穴ぐらの虫や獣を煙で燻すのを、立場を逆転して体験する事態に陥るのだ。
いや、笑い事ではない。最悪窒息死が起こるから、これはけっこう重大だ。
だから、調理場は不便でもすこし離れたところにする。生活の知恵だ。
その大アーチの下以外、周囲は一面の雪景色だった。
ネロの暮すこのフォロ・エクストラーノの丘を内包する法都:エクストラムは、本来、雪は降っても積もることは稀だ。温暖で太陽に恵まれた土地なのである。
それが今年はどうだ。
気狂いみたいに雪が降る。また積もる。
街でも元気なのは子供たちと犬だけだ。エクストラムの住人は雪に耐性がないのだ。
ネロなど毛皮をもこもこに着込んでクマみたいになっている。
いっぽうでメルロは「祖国・ガイゼルロンを思い出す」と憂鬱顔だ。
夜魔の国――イシュガル山嶺の稜線から北側を有するガイゼルロンは一年の半分近くが雪に覆われる冷涼な土地だ。
その夜魔の伯爵の娘であるメルロからすれば「せっかく人界に下りてきたのに」といったところなのだろう。
加えて昔のつらい記憶とでも結びつくのか、最近はネロにすがりついていないと「眠れないのだ」と泣きながら甘えてくる。断られたら死んでしまう、みたいな様子で。
まあ……そうなるとネロの方は別の理由で「眠れなく」させてしまうのだが。
昨夜だって……と、ネロがまたぞろ色ボケで一部モザイクの回想を、ピンク色に染まったおつむの中身でリフレインしはじめたときだった。
ごそりっ、となにかが座り込んだネロの足元に雪を巻き上げながら滑り込んできた。
ドリフトで。
なにか、毛むくじゃらの。
「うお」とネロがいささか間抜けな叫びをあげ、横倒しに倒れた。
塩壺を抱えて護りきったのはさすがだったが、丸々と毛皮で覆われたネロがこてん、と転げるさまは、もうなにかコメディだ。
ぐぐー、と原因の毛むくじゃらが唸った。いや、ゔゔー、か?
そして、ネロの毛皮で覆われた腕に噛みついた。
ぱくり、とそんな感じで。
「うお」とまたネロが悲鳴をあげた。
痛みは……なかった。甘噛みで、さらには牙が毛皮を貫通できなかった。
ぶらり、と体長五十セトレルほどのそれが、どうにか体勢を立て直したネロの袖からぶらさがった。
「……オオカミだ。子供の」
ぼうぜんとしてつぶやくネロに、くりくりとした瞳を向け、ぐぐーとまたそいつが唸った。あいかわらず、袖に噛みついたまま。
※
「ほれで、つれてかえってきたのかえ、うちのおまえさまは」
あきれ顔でシチューをぱくつきながら、メルロが言った。
「面目しだいもない」
隠し子を連れ帰ってしまった旦那のように、しょげてネロは言った。
オオカミのチビッコ(仮称:チビカミ)は、自分用に取り分けられたシチューを眼前にして睨みを効かせている。がっついたら熱かったのだ。オオカミ的には。
「ぐぐー」
「どうせなら隠し子のほうがよかったぐらいじゃわ」
「それってどういう……」
「おぬしの子供なら、別の女子に産ませた子であろうと、無条件に愛せる自信がある!」
そういうことを恥ずかしげもなくメルロは言うのだ。
「それをよりにもよってオオカミとは……。さらに、こやつ、ほれっ――女子じゃ!」
尻尾を握って持ち上げ、メルロは証拠を示した。
ぐぐー、とチビカミは唸ったが、メルロを噛んだりはしなかった。野生のオオカミとはいえ、子供の時はこんな反応をする……ものなのか?
「近くに親がいるのかな」
「そんなもん、おるわけなかろうが。ここは一国の首都の城壁内じゃぞ? それも僻地ではない! 法都:エクストラム。イダレイア半島唯一の百万人都市!」
「んじゃ、コレ……まさか、やっぱり」
それ以外になにがあると思うか、このニブチンが。とそんな目でメルロがネロを見た。
「ルシルベルカ――なのか?」
足元を覗き込むと、自分に呼びかけられたことを理解したのか、チビカミがネロを見上げた。もぐもぐ、とやたら人間臭い表情で口吻を動かした。
「《スピンドル》を通してみれば鑑識など、一発じゃろうが?」
「あ、そうなんだ。どうも生きてる対象に直にって、恐くてさ。傷つけないか?」
「おーおー、うちのおまえさまはお優しくていらっしゃるのう」
一月ほど前、人狼に身をやつしてしまった娘を、ネロはその《スピンドル》能力と自らが醸した貴腐の酒で救った。ただし、救えたのは心だけ。命は救えなかった。
その娘――ルシルベルカの心はオオカミの幻となって荒野に帰って行ったはずだった。
それがまさか……たぶん、どこか遠い森で生まれたオオカミの子供に宿ってしまったとでもいうのか……さすがにこれは予想しなかった展開だ。
「おいで」
とネロが呼びかければ、はくっ、と伸ばされた指に噛みつく――もちろん甘噛みだ。
「釣れた」
ぷらーんとぶらさがり、チビカミはネロの膝元へやってきた。
「かわいい。かわいいっ。なっ、かわいいな」
「……今日のシチューはえらく薄味じゃな」
一刻も早くチビカミを連れ帰りたくなって調味を中断したとは言えなかった。
「あー、そうかな、そうかもな」
「まあよいよ。塩気は足らねば加えればよいだけのこと。……効き過ぎではチビカミが喰えまいしな」
それよりおぬし、よもや香味にネギやタマネギ、ニンニクなど……使っておるまいな?
ぎろり、とメルロから睨まれ、ネロは慌てて言った。
「一片も!(在庫がありませんでした!)」
ふうん、とメルロは気のないため息をついてそっぽを向いた。
だが、ネロはわかっていたのだ。メルロが冷たい態度を装っても、ほんとうはチビカミを気にかけてくれていることを。優しすぎるくらいメルロは心根の優しい娘なのだ。ただ、その正体を見抜いたゆえに、メルロの心中が複雑であることまでネロは考慮できなかっただけなのだ。
「うちに……置いてもいいかな」
ひきっ、とメルロの頬が強ばった。空気読みひとしらず、とはこのことだった。
「ここの家主はおぬしなのだから、わしにお伺いをたてる必要などなかろうよ。わしは、まだおぬしの……正式な伴侶というわけでもないのだし。置いて、置いてもらっているだけだしっ」
ますますそっぽを向いたメルロの目の端にみるみるうちに涙が溜まって行くのを見、ネロはようやく自分の過ちに気がついた。
最愛の女を前に、別の女を自宅に囲っていいかどうか訊いているような間抜けさに。
自分のボンクラさに死にたくなった。
「ごめん……家の中には、もうチビカミは入れないことにする」
神妙にネロは言った。
途端にメルロに噛みつかれた。
「かわいそうではないかッ! そやつは、おぬしに会いとうて、恋しゅうて、残念があって、こうしてオオカミになってまで、やってきたのだろうがッ!」
ぼろろっ、と泣きながらそっぽを向いたままメルロは言った。
「わしだって、ルシルの立場じゃったらそうするッ!」
「だけど……だからって、やっぱよくない。これじゃ、不実すぎるよ、オレ」
キッ、とメルロがネロを睨んだ。
「捨てることは、できんクセして!」
ネロにはぐうの音も出ない。
ルシルと知ってしまった以上、いまさらチビカミを荒野に捨ててくることなどできはしない。ひたすら恥じ入るしかない。メルロの言う通りだった。
痛すぎる沈黙がふたりの間に下りた。
どれくらいそうしていたか。
「でも……でも、そういうところがスキなのじゃ」
うつむいていたネロが顔を上げると、そこには泣き笑いのメルロがいた。
「おぬしだって、そういうところに惚れたのであろ? ん?」
ネロのひざ上で、きょとんとしていたチビカミにメルロは問いかけた。腕を伸ばすと撫でてやる。んー、とチビカミは気持ちよさそうだ。
「ひとがひとを好きになることは、どうしようもなく、止められん。たとえ、ひとの姿を手放したとて、人外に墜ちたとて、それはおなじ」
なあ、とチビカミに言葉をかけながらメルロは微笑んだ。
「だから、わしも、ネロ、もう気持ちに歯止めをかけるのはやめるぞ?」
「???」
ネロはメルロの論旨が掴めず混乱した。
「がまんをやめる、と言っておるのじゃ」
「な、なにのでせう」
古文調なネロのセリフは本気で焦っている証拠だった。
「決まっておろうが、ヌケサクが。おぬしを想うことを、じゃ」
「??? では、いままでは?」
毎夜の情熱的な求愛を思い返し、ネロは蒼白になった。
「半分、くらいかの? ネロというワイン醸造家への愛がいままでの分、これからさきは男としてのおぬしへの愛を解放してゆく。いっておくが、夜魔の愛は永劫じゃからな。ミイラにならんように気をつけるがよい!」
びしり、とネロをさしたメルロの指先に、はくりとチビカミが齧りついた。
わりと強く。
まるでライバルを認めたように。
「こんの――ド畜生めが!」
そんな叫びが雪のフォロ・エクストラーノに響き渡った。
※
「こんなになるまで喰いおって。ん、ん、このお腹ぱんぱんじゃないかえ。どうじゃ、ほれ、どうじゃ、腹を撫でられるともはや抵抗できまい。ころころしてやろう、ころころしてやろう。ケダモノめ、ケダモノめ、どうじゃ、逆らえまい」
愛し子をいたわるように優しくチビカミを撫でながら、メルロは言った。
ベッドの上でチビカミはお腹を真ん丸にしてうとうととしている。しこたま食べたシチューのおかげでお腹はぽってりを通り越し、パンパンの丸々だ。
けっきょく、ネロよりメルロのほうがチビカミをかまっている。ベッドに上げてしまったのもメルロのほうだった。
「ほうれ、もう寝てしまいよった」
「うまいもんだ。まるで経験があるみたいだ。子育ての」
「望んだことだけは、いくどもあるからの」
メルロのそのセリフの意味をネロはまだその時、深く考えられずにいた。
「ネロ、本はいったん置いておいて、こやつを嗅いでみい。あの手紙と同じ匂いがする」
「ほんとか?」
ネロは醸造学に関するノートを置いて立ち上がり、ベッドのチビカミを嗅いでみた。
「ほんとだ……なんか、若いワインのようにも感じる。獣……臭くない」
「こやつ、こんなにメシをくらいおって、はようでかくなるつもりじゃな。……気をつけるがよいぞ、ネロ。次の春には若い雌オオカミがおぬしの貞操を狙ってくるかもじゃ」
「いや、メルロ、それマジで?」
ネロがリアクションに詰まって妙な顔をした。
「ろりこん野郎どころか、とんだズー……(くすくす)」
「ゔわー、それ以上は、やめろぅ!」
叫びながらメルロの口を押さえたネロの、その口を、同時にメルロが押さえた。
「しー、せっかく寝た子が起きてしまうぞ」
間で寝息をたてるチビカミを見下ろし、ふたりは微笑んだ。
「それで、こやつ名前はなんとする? まさかチビカミと呼び続けるわけにもいくまい」
「んー、そうだな。……ベルカ、でどうだろう?」
ふうん、とメルロが片眉をあげて笑った。ルシル、ではさすがに未練がましいにもほどがある、とさすがのネロだって気づいたのだ。
「ふうむ、ベルカ……よい名ではないか。よし、それでキマリじゃな」
「気に入ってもらえて嬉しいよ」
「んふ、ベルカ、どうじゃ? おぬしは無口じゃな。吠えぬのか?」
ベルカの口元を指で撫でてやりながらメルロは言った。
その口元になぜか寂しげな微笑が浮かんだ。
それから、ふと立ち上がり、ネロを見た。
「? どうした」
「ネロ……話がある。聞いてくれるか?」
「もちろん……だが。なんだよ、どうしたわけだ? あらたまって」
「着替えてくる。その……ワインを用意してくれ。おぬしのとびきりを」
そう言い残し立ち去ったメルロを不思議そうにネロは見送った。