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マリアージュ

         ※

         

 進路は東に取った。

 水運を使い、山岳地帯を迂回する。

 朝一、河を降る船に潜り込む。

 かつて自作ワイン樽が遡航してきた河を、逆にネロは流されていく。

 

 法王庁からの支度金で路銀は充分あったし、それなりの金を握らせれば、水夫たちは特にゴネたりはしなかった。

 流れに身を任せ、振り仰いだとき、シュクレー修道院から火の手が上がった。

 水夫たちも思わず操船の手を止め、突然のなりゆきに呆然とその様子を眺めていたが、ネロの目にはすべてが虚ろに見えた。

 

 下流の街で降り、街道を行く。

 ロバをあがない、荷を載せた。

 巡礼の服と印が役立った。

 なにしろ、こんなご時世だ。

 イダレイア半島になだれ込む人々と物資はあっても、その流れを逆行しようという者などそうはいない。

 

 未曾有の大軍、アラムの軍勢が迫っているのだ。

 慌ただしい軍備増強がここでも行われていた。


 だが、その混乱がネロにはありがたかった。

 エクストラム法王庁は、西方世界最強クラスの諜報能力を備えている。

 なにしろ、教会とその信徒、施しを受ける下層民や乞食たちがすべて、彼らの目と耳となる。

 欺くことは容易ではない。

 これに比肩しうるのは、ミュゼット商業都市同盟の盟主、ディードヤームの十一人委員会イマジナリ・イレブンだけだ。

 

 街門を出て行くとき、ひとのよい門番がネロに巡礼行は見送るよう声をかけたが、ネロは首を振って答えた。

「妻と、すべてを失った。行かせてくれ」と。


 その言葉と、ネロの瞳に宿る虚ろを前にして、こんどは首を振ったのは門番だった。

 引きとどめる言葉などない、という意味だ。

 子供のかわりに子犬を抱きかかえ、やつれた表情でもはや戦場になりつつある東方へと巡礼に向かう孤独な男を、止めることがだれにできただろう。

 

 かぽり、かぽり、とロバがゆく。

 かつて、歴史のページの向こうに消え去った統一王朝:アガンティリスの残した、もっとも巨大な遺跡というべき街道は、あちこちが傷んではいたが、それでも補修されながら今日でも使われている。

 巨大な動乱の予兆に、めっきり人気の絶えた街道を、男とロバと狼の子が遡る。


 ここはかつて、アガンティリスの偉大な皇帝が東征に赴き、幾度となく繰り返された十字軍がその軍靴で踏み固め、そしていま、東から異教徒の軍勢がなだれ込もうとしている道だ。

 大きな歴史の流れの上に、ネロはいる。

 もちろん、そんなことなど意識もできない。


 胸に、ぽっかりと開いた巨大な穴にネロが気がついたのは、放棄された寒村で家屋に潜り込み、雨露をしのいでいたときだ。

 戦乱に脅えた村民たちが、家財道具をすべてかかえて、避難した成れの果てだ。

 雲が晴れ、月明かりが窓から漏れ落ちてきた。


「マチルダ」

 無意識にネロは名を呼んでしまった。

 とたんに、あの無防備でしあわせそうな笑顔が、ネロの脳裏いっぱいにリフレインした。肌の柔らかさとぬくもり、そして、匂いがまざまざとよみがえり、胸を締め上げた。


 もういない、いや、ほんとうは最初からいなかった娘。

 壊れてしまっていたマチルダとレダマリアの情報的合成体アマルガム


 それは《フォーカス》:〈メルキュレー〉という中継器を通し、ネロの知らない拝病騎士としてのマチルダというスクリーンに映し出した幻、質量を持った影だ。

 けれども、その幻がネロの心に植え付けた愛慕と、残した傷跡はほんものだ。


 ヒトに致命傷を負わす切っ先を突き立て、穿ち、打ちのめすのには、剣も、つちも、ましてや異能も必要ない。

 ただただ、《ねがい》を映し出す鏡、あるいは像を結ぶだけのキャンバス、シーツとしての対象があればよい。

 ヒトはかってにそこに己と、己の願いを投影して、泣いたり笑ったり、満たされたり絶望したりする。

 そんな理屈めいた冷めた感情が、胸に口を開けた見えざる穴を獣が鳴くような音を立てて、風のように吹き込んでくるのをネロは感じていた。

 ワラを敷き詰めたベッドで身を寄り添わせて眠るチビカミが、ちいさく身じろぎした。


「そういや、オレ、まだ背中に背負ってんだよな」

 絶望からくる自暴自棄というのは恐ろしいものだ。

 ネロはいまになってようやく、その背に入れ墨されたスパイラルベイン、すなわち、エクストラム法王庁の汚れ仕事を請け負う地下ギルドの刻印に、思い至ったのだ。

 逃亡したら、この刻印がオマエを噛み殺す、と脅されたものだ。


 ふ、ふふ、とネロの咽喉から乾いた笑いが出た。

 思い出したら途端に怖くなったのだ。

 獰悪どうあくな怪物の顎門にも、噛み合わされた歯車のようにも見えるそれが、呪術的な《ちから》でもってネロを食い殺すのではないか、という妄想に。

 マチルダへの想いに浸り、打ちひしがれ、絶望を装ったところでけっきょくいちばん案じているのは自分のことだと思い至って。

 我が身かわいさの矮小ぶりに、震える自嘲が漏れたのだ。

 

 なんて小さいんだ、オレは。

 言葉になりかけた卑下の声を、しかし、ネロは最後まで言えなかった。

 そっ、とその泣き顔を下腹に埋められてしまったからだ。

 あの夢のなかで見たワインの香りがした。

 夜魔の姫:メルロテルマがネロを抱きしめていた。

 それから、容赦ない指摘が降ってきた。


「おまえさま、やっぱりあのボリューム感が忘れられないのかえ? ああん? もぎたて果実的な? ウシチチ的なチチウシが?」

 んー? と猫なで声で問われて、ギクリ、とネロはなった。

「まー、ほんとにもう、ずいぶんと餅を焼くのがうまくなったよ。いや、麺麭パンだったか? 妬いた妬いた、ほんとうに放火してやろうかというくらいには妬いたわい」

 どこか、遠くへ向かって話しかけるようなメルロの声に、ネロは本気を感じた。

「なんじゃい、ポッ出のあんな小娘との恋愛ごっこが、おまえさまのお望みだったのかえ」 

 ねんごろになった男の夜離よがれをなじる遊女のようなことをメルロはいう。


「肉欲だけで成立するのが恋、それだけでは成り立たないのが愛、なんて言葉もあるがのう。なんじゃ、結局、あのけしからん級の肉がよかったのか! あんなもん、言っとくが脂肪じゃぞ!? エロ脂肪分百パーセントじゃ!」

 まー、どうせ、わしは平たい板族の娘じゃからして。あー、もうこのロリボディをやめて、成長してやろうか! 腹立たしい!

 言いながらネロを下腹へと押しつける指が、爪が、頭皮に食い込む。

「それでもオマエさまの将来のためと思って、陰で歯ぎしりしながらもこらえていた女を差し置いて、よくもまあ浸り込めたもんよな、美しき想い出とやらに!」


 いけない、とネロは思った。いくら、柔らかで魅惑の香りの下腹であろうとも、このままの勢いで押しつけ続けられたら、遠からず窒息する。

 タンマ、タンマ、タンマ、とネロはジェスチャーでタップを宣言する。

 メルロはそれを無視してたっぷりと十秒、下腹を嗅がせたあとで、やっとネロを解放した。


「死ぬっ、マジで、死ぬっ」

「死ねい、バカ者め! 巨乳の想い出に溺れて死ね!」

 咽喉をあえがせ感想を言い終えたネロは、そこでやっとメルロが泣いているのに気がついたのだ。

「メルロ?」

「バカめ! オマエさまと来たら、想い出にばっかり求めよって! ここにおまえさまを想って狂いそうな娘がおるのを忘れおって!」

 両手で握りこぶしをつくり、メルロが言った。


「浸るなら、生きてるわしにしろ! 溺れるなら、わしにしろ! ここにいるわしが、いちばん、だれよりおまえさまのものなんだと、わからせろ!」


 反論の余地のない糾弾に、ネロは先ほどまで胸の穴を吹き抜けていた冷たいものが、詰め物をされて封じられるのを感じた。

 やさしい手当て、というより開いた口に蒸し上がりたてアツアツの饅頭をムリクリ詰め込まれるような、傷口を焼灼しょうやくして流血を止める荒療治にそれは近かったが。

 ただ、そうやって無理やり穴に詰め込まれたものが、メルロの愛だと思うとやさしい慰めよりもむしろ、心が温まるのがわかった。


「それでっ、どうなのかっ! チチか、チチか、チチがええのんか!?」

 おそらくだが、夜魔の長い人生のなかでもこれほど激昂したことはないのではないか、メルロがネロのフェチズムについて問いただしてきた。

 口調がへんだ。ナンバカゲツ調、とでもいうのか。こういうのを。


「いや、あの、メルロさんなら、なんでもいいです」

 激しい愛の告白とフェチズムに対する追求にフラフラになりながら、ネロは答えた。涙は悲しみのものから、すでに笑い泣きに変わってしまっている。

「おまえさま、はっきり言わんとヒドイ目にあうぞ? あのな、夜魔というのは望んだ時に己の成長時間を止められる。だいたいはそりゃ、成人以降にするよう躾けられるがな?」

 けれども、わしのように、あえて未熟なカンジに留めた味もあるわけだ。

「そ、それでも、おまえさまがどうしてもというのなら、が、がんばってみるではないか!」

 なにを、どうがんばってみるというのだろうか。自ら平らな板族を名乗った夜魔の姫が必死に言うのがおかしくて、ネロは腹筋がけいれん発作を起こすのを感じた。

「わかった、わかったよ、メルロ。ありがとう」

「なにがわかったっつーんじゃ、このおバカ! あ、笑ったな、笑いおったな! わしの成長性、その可能性を笑いおったな!」


 飛びかかってきたメルロとネロは干しワラをまき散らして、じゃれあう。

 安眠を邪魔されたベルカも加わって、無人の寒村に嬌声が響き渡った。


「しかし、ホント、どうするかな。ここから」

 ひとしきりはしゃぎおえ、転がって天井を見上げながら、ネロは言った。

「背中の刻印のことも、ある。いつ噛みついてくるか」

「それのことじゃがな、おまえさま」


 荒く息をしながら横たわるネロに、顔を近づけてメルロが言った。

 きっとこのじゃれあいも、ネロを気づかって、元気づけようとしてのことなのだと思うと、愛しさが募ってしかたがない。

 ひとり悲劇に浸り混んでいた自分が、無性に恥ずかしい。


「スパイラルベインの刻印」

「それは、探知型異能用の識別印じゃぞ。うん。噛みついたりはしない」

「え?」

 メルロの断言に、ぽかん、とネロは口を開けた。

「いや、だって、刻印が噛み殺すって」

「そんなドギツイ呪術系攻撃を下っ端ひとりひとりにかけて維持するのが、どんなに代償のかかることか、想像してみい。知らんかったのかえ?」

「だって、オレ……話したことあるよな? この刻印のこと」

「だから、足抜けしたら、居場所が特定されて、刺客がくるって……そういうことじゃろ? ちがうのか?」


 あ゛ー、とネロは唸り、それから全身の力を抜いた。いや、正確には思いきり脱力したのだ。


「オレのここ数年来の悩みはいったい……」

「なんじゃ? 刺客が怖くはないのかえ?」

「いや、そりゃ怖いけどサ」

 得体のしれない呪術でわからん死にするのに比べれば、それは刺客のほうがまだマシだ。

「まあ、それにしたって、この動乱の時代にどれほどの精度・確度で刺客が差し向けられるか、というのもあるわなあ」


 どこか余裕を含んだ笑顔で、メルロが付け加える。


「逃げ切れるかも、だ」

「その希望、確実なものにしたければ……あるぞ、刺客に脅えなくて済むやり方が」

 ネロの憂いを断つべくメルロが牙を剥いて見せた。

「我が同族——夜魔となれば、そのような刻印など簡単に引きはがせる」

 そして、同じ時間を望むだけいつまでも、過ごすことができる。

 メルロのいつもはエメラルド色の瞳が、暗がりの奥で赤い光をたたえるのを、ネロは見た。


「おまえさまが、望んでくれるなら、その秘蹟をわしは授けてもよい」

 メルロはいつもはこんなことを決して言わない娘だ。

 それなのに、今夜の彼女には、そして、その誘惑にはどこか必死さがあった。


 ああ、とネロは理解する。

 これはプロポーズだ。

 婚姻の。

 結婚してください、と言われているのだ。


「それもいいかもしれないな」


 つぶやいてしまってから、ネロは夜魔になった自分を夢想した。

 無限の寿命と完全な記憶。

 人類など相手にならぬ膂力と身体能力。

 ほとんどの害悪に対して強力な抵抗力を持ち、ただの鋼では殺すことはできない不死性。

 すでに《スピンドル能力者》として覚醒したネロであるのならば、これは中級以上の格付けは当然。

 いや、高位夜魔の直系、メルロによってそうされたなら——デイウォーカーとなることも夢ではない。

 スパイラルベインの刺客ごとき、赤子の手を捻るようなもの。

 これから向かう逃避行の地にあったとて、捕捉される危険性はまずなく、たとえ刃を交えるようなこととなっても、そうそう遅れを取りはしない。

 いや、むしろ脅えなければならないのは、ネロに敵対する勢力のほうだ。

 そして、なにより、愛しいメルロと永劫の時間のなかで、愛し愛され生きるのだ。


 ……いいことずくめに思えた。

 なにひとつ、現状から失うものなどなく、むしろ得るものばかりのように思えた。その好条件のまえには、幼い頃から刷り込まれた夜魔という存在への忌避感など、取るに足らぬ障害に思えた。

 それなのに。

 ああ、なぜ、なぜなのか。


 ネロは思い出してしまったのだ。

 あのシュクレー修道院の底で見た《夢》を。

 己の《スピンドル》と醸した酒が融合して生み出した、美しきもののことを。

 一角獣の姿をした、それ。

 恐ろしく澄んだ瞳に映る、己の顔を。


 気がつけば、つう、とひとすじの涙が頬を伝っていた。

 それから、「ごめん」とそれだけが、返事として唇から転がり落ちた。


「オレ、やっぱり、夜魔にはなれない」

 永劫の安寧のなかに身を置いてしまったら、はかなく、はかないからこそ貴重で美しい輝きを、オレの手はすくいとれなくなってしまう。

「そうしたら、もう、メルロにワインを造ってやれなくなってしまう。だから」

 だから、オレは夜魔にはなれない。


 その言葉を聞いたメルロは大きく長くため息をつき、まぶたを閉じた。

 そして、ふたたび目を開いたとき、あの赤い光はすっかり消え去り、ただ青い月の光を映すだけになっていた。


「振られてしまったのだな、わしは」

「あっ、いやっ、そういうわけじゃなくて!」

「いいや、そうじゃ。おまえさま、いま、じぶんの創り出したいものと、わしを天秤にかけたじゃろ」

 メルロの指摘は直裁ちょくさいで、シンプルで、だからこそ鋭い。

 うっ、とネロは返答に詰まる。


「はー、このダメ男」

 なーんで、こんなのに惚れてしもうたのか、わしは。メルロが大げさに嘆いた。芝居がかった道化のようなしぐさ。けれどもネロはその陰に、流された涙を見てしまう。

「あ、あのっ、あのなメルロっ!」

「バカッ、大好き、大好きじゃ!」

 言い訳しようと慌てふためくネロの首筋に、メルロは飛びつきかじりついた。

「あれっ? なんで? どうして?」

「おまえさまの、そういうダメなところ——けっきょく、創ることにしか生きれない——そういうところに、わしは惚れたのじゃ!」


 自分の人生に対し、突然、太鼓判のお許しをもらってしまったネロは混乱の極みに達する。

 

「あれっ?! おれは、オレは、じゃあどうしたらいいんだ?!」

「バカめ、というのはおまえさまのことじゃ! 逃げろ! 逃げて逃げて——その先で創りおおせろ! おまえさまの《夢》に見たワインを!」

 いや、だって、それじゃオレは、メルロに不実を——言いかけたネロの唇をメルロは奪って、それから艶然と笑った。

「結婚に至らぬなら、わしとおまえさまは永遠の恋人、というわけじゃ! ずーっとドキドキして、ハラハラして、イチャイチャできる。覚悟せいよ? おまえさま? 恋は肉欲だけでも成立するんじゃからな?!」


 あまりの宣言に、目を白黒させるネロの袖を、すごい勢いでベルカが噛っていた。

 たぶん、参戦の意思表示だろう。


 マリアージュとはほど遠いかもしれないが、この奇妙な組み合わせが、いったいどんな味わいを生み出すものか。


 とにかく、創ってみようか。

 ネロは困り果てた頭で、思う。

 旅は続くのだ。








第五話:「マリアージュ」完結です。

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