美しきもの
聖女と魔女。
ぶつかり合う強大なふたつの《ちから》。
その間隙をついて、舞い降りてきたものこそ、ネロ自身の永劫の伴侶・夜魔の姫:メルロであった。
夜会服を思わせるスカートがレースをなびかせて翻る。
忘れようもない愛しい美姫が、自ら主人と認めた男を救うべく舞い降りてくる。
その瞬間、ネロはメルロの体臭──すなわち完成され、時満ちた赤ワインそっくりの薫りを幻覚する。
胸元に縛りつけたポーチからは、恐怖に耐えるように牙を剥きだし瞳を見開いたオオカミの子供=ベルカが顔をのぞかせている。
「メルロ!」
「「させるか!」」
ネロが愛しい姫の名を呼ぶのと、ネロを争うふたりの人外が叫んだのは同時だった。
そして、聖女と魔女、双方から放たれたエネルギーが夜魔の姫を穿つべく放たれるとの、メルロの姿が影のようにかき消えるのも。
夜魔特有の短距離次元跳躍技:《影渡り》。
メルロが異能によって攻撃を回避したことで空を切るかに見えた二本の光条は、しかし、その背後に隠されていたものを貫き、爆散させた。
頑丈な樫材の樽鏡を一瞬でぶち抜き、内容物を沸騰・蒸発させ、鉄のタガを弾き飛ばす。
飛散する部材と爆発的な水蒸気が周囲を打ちのめし、ワインの薫りが立ちこめる。
これこそは、ネロがシュクレー修道院への寄進として献じたあのワイン、そのものだった。
そして、この瞬間を、恐れながらも待っていた男がいた。
ほかにだれあろう。
このワインの醸し手であり、その材料たるブドウの生産者。
人目を逃れるよう隠者のようにエクストラムの遺跡の丘で、転落した人生を歩んできた男。
ネロ・ダーヴォラが祈りを捧げる騎士のように片膝をついて。
その手を縛していたはずの枷と鉄鎖はすでに真っ二つに切りさばかれ、床に転がっている。
異能:《影渡り》でネロを庇うように飛び込むやいなや、抜き放ったショートソードでメルロが切り分けたのだ。
伝達された《スピンドルエネルギー》によって輝く光刃が、朝霧を思わせる霞んだ世界のなかできらめきながら飛散する。伝導されたエネルギーに耐え切れず、剣は砕ける。
けれども、その献身が男を解き放った。
いや、実際、ネロは祈りを捧げていたのかも知れない。
三分の一は病気と害虫に。
三分の一は神様に。
最後の三分の一だけがワインになれる。
大地から授かった貴重な糧をデカダンスと知りながら酒とし、あまつさえそれを武器として振う所業を。
「ゆるしたまえ」
短くそれだけを言葉にすると、ネロは両手をかざした。
この呪われた聖堂。その大気に満ちるワインの粒子に、注ぐ。
己のなかに息づく《意志のちから》、すなわち《スピンドルエネルギー》を。
それこそは、ネロがメルロやベルカ、もしかしたらマチルダを思って醸した理想が、現実となって、この世に結実した《夢》そのものかもしれなかった。
一瞬、世界が金色に輝き、抗うことを許さぬ芳香が世界を満たし──ネロはそこに本当にはいないはずの幻獣の姿を見る。
気高きそれは一角獣の姿。
ブドウの葉とツタと成果を身にまとうもの。
そして、その瞳がネロを射貫いて。
ネロは己の生み出したものの姿を知り、涙する。
感激と感動に。
神獣が放つ神気に気圧されるように、周囲を取り巻いていた拝病騎士団、リンネル派の修道士たちの肉体が、二重にブレる。
それは彼らに憑依し操ってきた“義識”の姿にほかならない。
強まる神気は、強い風のようにそれを人々の意識から引き剥がし、滅していく。
気がつけば、すべてが変わってしまっていた。
その不可思議な現象が過ぎ去ったあと、呪われた聖堂にあって、正気を保っていられたのはネロただひとりだった。
あらゆるものが倒れ伏し、あるいは建築物や互いにしなだれかかり、黙していた。
「メルロ! メルロ!」
ネロはぐったりと力なくしなだれかかるメルロを抱き留めると、その名を呼んだ。
うんん、と可愛らしい唸りがあって、メルロはすぐにまぶたを開いた。
美しいエメラルドの瞳がネロを映している。
とろん、と気持ちよく酔っぱらったような、あるいはネロに恋してしまったような目をメルロはする。いや、恋はしているのだが、つまり、そういう目だ。
「おまえさま」
ベッドでのなかのように、首筋に甘えてくるメルロをネロは必死で揺さぶり、覚醒をうながした。
「うにゃう?」
「起きろ! 起きてくれ!」
「にゃにゃ、これはどうしたことにゃ」
呂律の回らない口調ながらも、状況を理解しはじめたのか慌てた様子でメルロが言う。
ネロはひとまず、ほっと息をついた。
「オレにもよくわからないんだが──すごい効果があったみたいだ」
周囲を見渡し、すこし冷静になったのか、メルロがいつもの口調を取り戻して言った。
「高位夜魔であるわしが、こんなにメロメロになるくらいだからの。半端な病魔ごときは抵抗のしようもあるまいよ。強烈な官能に受用領域が溢れて、自壊したのだろうさ」
つまり、簡単に言えば感じすぎて昇天した、ということサ。ふらつく足取りのままネロにすがりつきながらだったが。
「昇天した?」
「天にも昇るような気持ちで、天の國に」
天井を指し示しながらメルロがツヤっぽい笑いかたをした。
「なるほど、この“義識”とやら、世の苦痛や理不尽には充分な配慮があったようじゃが、おまえさまのワインと《スピンドル》が生み出す“よろこび”には、まったくもって耐性がなかった、というわけじゃの」
「“よろこび”?」
「“ほんとうのしあわせ”とでも言ったらよいか?」
「でも……オレが、オレの異能が視せるのは《夢》に過ぎなんだ。ワインが、酒が、《夢》でしかないように──まぼろしでしか」
「そのまぼろしで、ひとはこころを揺さぶられて、恋をして、涙する。そこで転がっている哀れな娘に取り憑いていた悪霊が言っておったではないか」
文字通り憑き物が落ちたかのように座り込み、額を床にすりつけるマチルダの裸身へと視線を注ぎながらメルロが解説した。
「おそらくじゃが、その“義識”たちが埋め合わせていた部分を、ネロ、おまえさまの見せた美しい《夢》が“よろこび”で満たしてしまったために、連中は留まる場所を失って、崩壊したのだよ」
メルロの説明を聞いても、ネロはなんのことだがさっぱりわからない。
ただただ、あのときは必死に、そして一途に思い込んで──身体が勝手に動いたのだ。
思うよりも強い《ちから》、考えるよりも強い《ちから》が、まるで肉体と合一したかのように。
思うことと、行うべきことが寸分も違うことなく、ひとつとなったかのように。
ああ、それこそは“魂紡ぐもの”へといたるひとつの解であり、きざはしなのだが──いまはまだ語るべきときではない。
ただただ、この呪われた聖堂に詰め込まれた、砕かれし心たちに美しいものを見せようとした。
それが、このような結果を生んだ。
メルロが言う、悪霊──聖女と魔女と、それらを成していた“義識”を払拭したのだ。
もしかすると、これこそ、ネロのこの才能こそ、拝病騎士:フレアミューゼルが、法王:レダマリアが執心した《ちから》なのかもしれなかった。
だからこそ、ぶつかり合うふたつの人外は、ネロという取るに足らぬはずの存在を気にかけたのかもしれなかった。
しかしもう、その問いかけに答えるものはいない。
答えをネロが得ることもない。
なぜなら。
「オレ……もう……どこにも戻れないな」
そう、ネロはこの瞬間、拝病騎士団とも、帰属していたはずの法王庁聖堂騎士団とも敵対・決別したことになるのだから。
がくがく、と震えが来た。
いずれかの勢力に組みすれば約束されたであろう地位や特権を失ったことに、ではない。
どちらかといえば、それは、これまで約束されていたみすぼらしく、世間に顔向けできぬ、世界の裏側でのこととはいえ、それなりに安定した暮らしに戻れない、ということだった。
メルロがいて、ベルカがいて、もしかしたら、マチルダがいた。
そういう場所にはもう戻れないのだと、ネロはわかってしまったのだ。
いや……軽蔑を買うことを覚悟して、あえて本音をさらす。
手塩にかけたブドウ畑の美しい紅葉と、収穫を待つ深い紫の実りが、ネロの脳裏をどうしようもなく残酷に過っていった。
それはネロという男の本質を、ネロ自身に突きつけるまぼろしだった。
だからわかった。全部をなくしてしまったのだと。
ものを生み出す基盤を失ったのだと。
なくしてしまったんだ。
ネロは思い知る。
「イ、イヒィ、くひいい」
だが、ネロのそんな感傷を打ち破ったのは、狂気に彩られ、唾液にまみれた声だった。
視線を向ければ、そこには《フォーカス》:〈アラキュレ〉の励起状態がおさまり、人型を取り戻した拝病騎士、魔女:フレアミューゼルが壁に背を預け、やっとという様子で立っていた。
「フレア!」
ネロが叫び、メルロが身構える。
「くひっ、なんてことを……なんてバカなマネを。おおおお、ネロ・ダーヴォラ。愚かな男。でも、なんて素晴らしい才能。オマエは自分のしでかしたことが、わかっていない」
おおおお。明らかに常軌を逸した口調で、フレアは語った。
「最高だ。いや、最低だ。こんなに、こんなに“義識”に効くなんて。この、いひ、才能! 能力! 異能! バカめ! ここにいる連中にこんなことをしたら、どうなるかわからないのか!」
じりじりと階段のほうへと肉体を運びながら、顔面を右手で押さえて壊れた魔女が言う。
「正気に戻ってしまうじゃないか! 我々が必死に砕けた心に似せて作りだし、植え付けた“義識”が消し飛んだということは! ここからは、彼ら自身の砕かれた心! い、ひ、しょ、正気の時間! ショウ・タイムだ!」
そして、なんということだろうか。常軌を逸した様子で、しかしそれでも己は逃走すべく階段へと向かうフレアとネロたちの間を、幽鬼のように立ち上がりはじめた人々が塞いでいくではないか。
「ああ、わたしはもうしらないぞ、ネロ・ダーヴォラ。おまえだ。この凄まじき現実、逃れがたき正気を現出させたのはおまえ自身だ。なぜわからん。素晴らしい美は、すばらしすぎる美は、天上の國に属しているのだと。その輝きは、美しいがゆえに残酷なのだと」
すなわち、とあえぐように魔女は言いながら階段へと消える。
「すなわち、すばらしすぎる美は、自覚させるのだ。惨めさを、おのれのみすぼらしさを。自らが置かれた境遇のひどさを。それが、希望の、光の罪なのだと、なぜわからん!」
おおおお、とまだ聞こえる残響をネロは追うことはできなかった。
始まったからだ。
眼前で。
自他の区別ない殺戮が。
砕かれた心とそこに植え付けられていた人造の安寧=“義識”。
その調和が崩れ、それまで“義識”側が溜め込み制御していた負の感情が、土石流のごとき勢いで堰を打ち壊し、現実へとあふれ出た結果だった。
ゆらり、と眼前で、かつてマチルダだったものが立ち上がった。
その手には、どうしたことか短剣が握られている。
どうすべきか、瞬間、ネロにはわからなかった。
だが、すべてをうしなったように思えても、ネロにはまだ、手を引いて導いてくれる存在がいた。
それは、まぼろしではない。
それこそは、ネロが自らの手で獲得し、あるいは救い、おのれの《夢》で養い続けてきた──精華。
夜魔の姫:メルロテルマと、人狼の娘:ルシルベルカ。
言葉はなかった。
だが、ネロには行くべき場所がまだあるように思えた。
それがたとえ、月も星もない夜の道行きだとしても。
ぎゅっと、ネロの左手を引くメルロの手に力が込められた。
どこまでいけるか、わからない。
なんのあても、オレにはない。
途中で、志なかばで倒れてしまうかもしれない。
未練や、残念など、たらたらだ。
けれども、繋いだ手が生んだ関係の《ちから》を、ネロは信じてみようと思った。
まだ──終わってはいないのだから。




