舞い降りるもの
「うわわわッ!」
ネロの喉からほとばしり出るうわずった悲鳴を、そのとき、いったいだれが笑うことができただろうか。
両腕にはめられた手枷とそこに繋がる極太の鉄鎖が、ネロを有無を言わせぬ力でもって拘引していく。
その先には、あのおぞましい〈イデオトラ・サヴァス〉の器官が口を開けている。
すなわちヒトに“義識”を植え付け、書き換えるための装置が。
必死に、もはや抜け殻となってしまったマチルダの肉体を抱き寄せ腕に抱いたネロだが、できたことはそこまでで、もはや強力な牽引力に逆らうことはできない。
石材でも木材でもない不思議な光沢を放つ床面を、じわじわと、しかし確実に引きずられていく。
このままでは、あと数分とせぬうちに〈イデオトラ・サヴァス〉の器官に囚われてしまうだろうことは確実だった。
「うっく」
そして、床に這いうめくネロの頭上では信じがたい戦いが繰り広げられている。
ガキンッ、ゴッ、という鋼鉄のハンマーを岩塊に叩きつけたような音が連続して響きわたり、衝突エネルギーが火花に変換されて飛び散る。
拝病騎士にして魔女:フレアミューゼルの手足を成す異形の義手・義足:〈アラキュレ〉が、その四肢を武器として連続的に打ちつけたのだ。
病魔に直接触れることのできるというその装具が、熾天使を気取る聖女:レダマリアの張り巡らせた防壁に阻まれ、弾き返される。
いや、その一撃は確実に防壁を削り、光の破片へと還しているのだが、レダが新たな防壁を張り巡らせるスピードはその破壊と拮抗していた。
もちろん、この攻防のすべてが異能によるものであるということは、《フォーカス》による攻撃を防いでいること、また不可視の防壁を破壊していることから、いうまでもない。
不思議なことは、ふたつあった。
ひとつは、聖女:レダの振う異能の《ちから》だ。
文字通り焦点具である《フォーカス》を介さぬ異能の行使は、できなくはないが非常な消耗を使用者に強いる。
それは解体用の道具を使わずに狩りの獲物を捌くのにも似て、恐ろしく効率の悪い行為だ。
すこし想像力を働かせれば分かってもらえると思うが、ナイフを持たずに獲物の解体を行うのは人類には難易度が高すぎる。
一説には回復治療系の異能が高い代償を要求するのは、そのための《フォーカス》が極めて希少か巨大であり、運用法が確立していないせいだとも言われている。
けれどもいま、そのための道具を四肢とする魔女:フレアはともかく、聖女:レダは《フォーカス》の恩恵と援護を一切受けぬ状態で連続的に強力な防御スクリーンを展開しつづけている。
これはまさしく奇跡、神の恩寵に他ならぬことのように思えた。
「ほう、やるなフレアミューゼル。見事な技の冴え。さすがはイダレイア半島方面の支部を束ねる者。拝病騎士団幹部の名はお飾りではない、と褒めておこうか」
「恐悦至極にございます、聖下。しかし、レダマリアさまこそ、《フォーカス》を経由せぬままにこの攻撃をすべて防がれるとは──さすがでございます」
「すでに神と一心同体である余にとっては造作もないこと。だが、そのわたしを昔の名で呼ばわるとは、不敬なるぞ」
「これは失礼をば。恋と愛を語るお姿が、あまりにかつてのかわいらしい貴女さまのままでしたので──若き騎士さまに心寄せられていた、あのころのまま」
「黙れ、魔女。あまりの懐かしさに──思わず微笑んでしまうわ」
攻守が入れ替わり、レダの広げた羽根の内側から光の檻を思わせて無数の熱線がフレアへと浴びせかけられる。
とっさに身を守る蜘蛛を思わせて四肢を前方に壁のように並べて防ぐフレアの姿が、ふたたび薄闇に鮮やかに浮かび上がる。
熱風と衝撃波が頭上を掠めすぎると、しかし、そこにはいまだ無傷の魔女がたたずんでいる。
「さすが、と褒めたいところだが」
「手加減されている──わかります」
常人であればすでに百回は死んでいるあろうやり取りを経てなお、二匹の魔物の語らいは、ここが茶会の席上であるかのように、おだやかだ。
「余は、温情が過ぎるのが欠点なのだ」
「おっしゃるとおりでございます、とお返ししたいところでございますが、じつはその男にご執心なのでございましょう?」
交される言葉の間に放たれた光刃を同じく輝く刃が受け止める。
それは互いが互いを狙って放ったものではない。
はためく翼をさばく動作を装い、熱風と光線に隠しレダマリアは地を這うようにそれを撃ち出したのだ。
なんのためにか、はわからない。
しかし、なにを狙ってか、は明白だった。
縛鎖。
ネロを縛り捕らえる鉄鎖をそれは明らかに狙い放たれたものだ。
そして、それを読んでいたかのように受け止めた光刃は、フレアのもの。
そこでネロは、ようやくここで争われているものは、拝病騎士団の幹部と法王との戦いではなく、自分自身の命なのだということに気がついたのだ。
理由は──わからないにしても、だ。
「やはり、恋をされたのではありませんか? 地上世界における神の代理人ともあろう御方が」
「ぬかせ。ただただ、死なせるには惜しい才能だと思うだけのこと。そなたこそ、なぜ、その男に執着する」
「愛ゆえに、と申せばお目こぼしいただけますか?」
「笑止。なるほど、喜劇のセンスは卓越しているな、そなた。だが、もうよいぞ」
「なれば、全力で仕留めにかかられるべきです。いかに強大な存在と繋がり、人智を超越した存在になられたとはいえ──万能ではない。同じく、その秘密を追い求めた先達としての忠告です。生半可な能力では、我々と〈イデオトラ・サヴァス〉の回路が生み出す《ちから》を上回ることはできませんぞ」
そして、ここはその〈イデオトラ・サヴァス〉の本尊が眠る場所。
「我々に垂れられた恩寵、なみなみのものではありませぬ」
それに、と魔女:フレアは続ける。
「中継器である《フォーカス》:〈メルキュレー〉の過負荷に、宿主であるマチルダの肉体がいつまで持つか。故事にもありましょう。二兎を追うものは、一兎をも得ず、と」
「見抜いておったか」
ふふふっ、となぜか楽しげに笑って聖女:レダが認めた。
「ただの“義識”に、物理面を攻撃できる手段は、ほとんどございません。“義識”の触れることのできる領域は、あくまで精神的なものに限られます。なぜならば、それは精神の病に属するものだからです」
ネロの抱いた疑問、まずそのひとつ目について的確に指摘しながら、魔女:フレアがレダとの間合いを詰めにかかる。
「しかるに、このように強大な熱線攻撃を生み出すには、当然、《フォーカス》の助けが必要。さらにいえば、反応速度やタイムラグ、そして〈イデオトラ・サヴァス〉の聖堂が持つ性質を考慮すれば──ここにおられるのは法王聖下ご本人の意識か、あるいは独立意志を持つ別体かのいずれかのはず」
この聖堂には探知・占術・遠隔知覚系の異能を反らす結界も機能しておりますので。すなわち、遠隔操作系の異能も例外ではございません。
つぎつぎと聖女:レダマリアの手のうちを暴き正体へと肉迫していくフレアミューゼルは、やはり、まごうことなき魔女なのだ。
「聡いものよ。その見識と経験、失うにはあまりに惜しいが、心に巣くう狂信までもは消せまいな。いかにも、その娘:マチルダの背に組みつく《フォーカス》:〈メルキュレー〉こそは中継器であり増幅器である」
こちらもあっさりと認めて、聖女:レダマリアは笑った。
「やはり、聖なる余の“心”を焼きつけるほかないか」
「そればかりは、いかに法王聖下のお願いとはいえ。ここで我々のすべてをお渡しするわけにはさすがに参りませぬ」
「我々、とな──まるで、すでに皆の総意をとりつけたかのような物言い」
「はい、聖下、じつは」
「そなた、ひとりではないな?」
「合議制とお呼び頂きたい」
「面妖な」
「恐れ入ります」
「やはり、滅ぼさねばならぬようだな」
「我々といたしましては、聖下にもぜひ加わっていただきたく」
頭上を飛び交う意味不明の会話の間にも、ネロの肉体は着実に破滅の淵へと引きずられていた。
そして、そのことに魔女と聖女は焦りを抱いたかのごとく、性急な動きを見せる。
ふたたび交される攻防。
生じる熱風にネロは咳き込みながら、もうひとつの疑問を意識化する。
つまり、精神体に過ぎないはずのレダが、どうして物理的攻撃であるフレアの攻撃を防壁によって防御するのか、という疑問とその答えについてだ。
解答はやはり、魔女の口からもたらされた。
「そして、やはり! 我々の攻撃、〈アラキュレ〉の手に触れられることを嫌われるということは、聖下のボディは我ら“義識”に基礎を成すもの!」
「〈メルキュレー〉と〈アラキュレ〉、中継器とその中身に触れることのできるもの。その名が酷似しているのは、これらふたつは姉妹のような関係にある《フォーカス》であったのかもしれぬな」
「なるほど、ご見識でございます! 聖下、我々はますます御身が欲しくなりました」
「させぬよ、魔女。それに、余は正確には本体ではないからな。よしんば、そなたらに取り込まれたところで、どうということはない」
「それでも、かまいませぬ。いま、この時点における法王聖下が手に入るのならば、かまいませぬ。それに、どうということはない、と申されましたが──これが、執着!」
魔女:フレアが指摘する──達人同士の一騎打ちにも似た言葉の応酬のさなかに、異物が混じったのはそのときだった。
「うわわっ」
引きずられたネロが、ついに〈イデオトラ・サヴァス〉の器官へと捕らえられそうになったのである。
そのとき起こったことを、ネロはよく憶えていない。
ただ、魔女:フレアとの攻防に意識を傾けていたはずのレダの瞳が、翼が動いて。
同時に、魔女:フレアの攻撃が、その間隙を縫うように届いて。
「ネロ!」
頭上から、突然、名を呼ばれて。
このどうしようもない狂気の劇場に、幕を引くものが降りてきた。




