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エフィメラ

         ※

         

 蜉蝣エフィメラの羽化を見たことがあるだろうか。

 夢をみるような色をしたあの美しい羽を。

 優美としか言いようのない長い尾を。

 乳白色のからだを。

 それらが、春の日の夕暮れに、水面からいっせいに飛び立つ様を。

 

 戒めされたまま前のめりに倒れ込んだマチルダの背から、まるでサナギを捨て成虫になる儀式のように、それは現われた。

 マチルダの背にばっくりと口を開けた顎門アギトから燐光が漏れ出し、乱舞して、その誕生を祝う。

 人類ではありえない、しかし絶冠ぜっかんの美としかたとえようのない輝く裸身が、そこにはあった。

 内側から光を発して。

 衣服を思わせてなびくのは、薄い被膜の連なり。

 その肉体を護るのは、ああなんということだろうか、エクストラム大聖堂の壁面に描かれた熾天使セラフィムとおなじ三対、六枚の輝ける翼。

 半透明の翼は、大型のストールのようになびき、華奢な少女の肉体を包み込む。

 そして、翼に護られた尊顔こそは。


「ああ、ああ、我らが父にして、やがて、母なるかた。ヴェルジネス法王聖下──レダマリアさま」


 答えは、魔女の口から告げられた。

 ネロは言葉を失い、ひざまずくことしかできない。

 感激に? 感動に? あるいは畏怖に?

 いいや、ちがう。

 絶望に。


「いままで、ずっとそこにお忍び・・・でいらしたのですね」

 途方に暮れるネロを尻目に、魔女:フレアは喜色もあらわに話しかける。

 歓喜にたえぬとその顔が言っている。


「いかにも」

 凛、と銀の鈴が鳴るような声で聖なる存在が答えた。

 声と同じく白銀プラチナの頭髪が揺れ、瞳が光をたたえている。

 

「わたくしどもの贈り物はいかがでございましたでしょうか?」

「悪くない。興味深い」

「お褒めにあずかり恐悦至極」

「その礼をすべく、ここまで参った」

「ありがたきしあわせ」

「だが、そのまえに」

「なんなりと」

「説明してやれ。ことの次第しだいを。さまなくば壊れてしまうぞ」

「おおせのままに」


 魔女と聖女のあいだで交わされるなりゆきが、うまくできないままでネロはいる。

 現実が認められないままでネロはいる。

 なぜだ。

 どうしてだ。

 どうして、マチルダの内側から、こんなものが出てくるんだ。

 ヴェルジネス法王聖下?

 かつてのレダマリア・クルス枢機卿?

 法王庁の頂点に座すべき存在が、どうして、どうやって、なぜ?

 なんのために。

 いいや、そんなことはどうだっていい。

 マチルダは、あの優しいマチルダは、ネロを愛してしまったと告白した少女は。

 どこへいったんだ?

 それなのに、眼前の魔女は現われた聖女にうながされるまま、なりゆきのすべてを話してしまうのだ。

 イヤでもネロは理解してしまう。

 絶望の理屈を。

 

「法王猊下にお話を持ちかけたのは、我らリンネル派からでした」

 つまり、この“義識ぎしき”の秘密を打ち明けたのは、わたしなのです。

 魔女であるフレアはかしこまって告げる。

「もちろん、異端である我々からこと・・を持ちかけるなど危険極まりない。しかし、我々は見過ごせなかった。なにを? もちろん、祖国と我が信教の危機を」

 見よ、我々を取り巻く世界を! 魔女はネロに訴えかける。真摯に。

「迫り来るアラムの軍勢! 鳴り響く軍靴の音、その高まりを聴け! エスペラルゴ皇帝:メルセナリオはすでに亡く、残された移動宮廷は烏合の衆に過ぎぬ! 支柱を失った十字軍は敗走を重ね、いまや敗残兵と脱走兵が近隣諸国を脅かす始末! もはや、アラムの悪魔どもと我々とを分けへ立てるものは、峰々の連なりのみ! しかし、それすらいつまで持つものか!」

 化け物じみた前腕を振り立てる魔女:フレアの言葉は、いつしか民衆を煽る演説の色を帯びている。

「まさに危急存亡のとき。祖国が脅かされ、我らの信教が貶められようとしているこのときにあって、もはや我が身大事と隠しごとを続けることは、我々にはできなかったのです!」

 ですから、とフレアは続ける。

「我々は、我々の知る秘密──すなわち“義識ぎしき”を、聖下のお役に立てていただきたく、その最新の被検体であるマチルダとともにお渡しいたしました。これこそが祖国と信教とを救いうる手だてだと、信じて」

「救う……手だてだと?」

 それまでにも似たフレアの演説、昂ぶりを呆然と聞き流していたネロが、反射的に訊いた。

 それはフレアによって弄ばれる「救い」という言葉に対する生理的な反発だった。

 ネロという男、イクス教世界の底辺を歩んできた男だからこその問いだった。

 フレアはうなずき、言葉を噛み砕く。


「同志:ネロよ、人間の敗北はいったいどこから来ると思う?」

「敗北……の来る場所?」

「そうだ。負けてしまう、とはどこから来るのだと思う?」


 ネロは噛み砕かれた言葉の唐突さに戸惑う。意味がわからない、という顔をする。

 それなのに、フレアは続けるのだ。


「腕を失うことだろうか。脚を失うことだろうか。胸に矢を受けること? あるいは外傷でなくとも、病に、さらには貧困と困窮に押しつぶされてしまうことからだろうか?」

 どう思う? 逆に問いかけてくる。

「いや……ちがう、ちがうと思う」

「すばらしい」

 キミは、ネロ、すばらしい。

 確実にいま、すばらしい。

 熱に浮かされたように瞳をうるませて、フレアは言う。

 では、どこだろう? どこから来るのだろう? と詰め寄る。

 

「それは……心が」

最高にすばらしいブラヴィッシマ!]


 ほとんど感涙の涙を流しながらフレアが叫ぶ。

 よくぞ我が意を汲んでくれた。

 考えることを放棄せずにいてくれた。

 そう言わんばかりに。


「そのとおり。そのとおりなのだ、ネロ。こころ、ココロ、心。そのとおりなのだ!」

 敗北は、こころから来るのだ! 個人の敗北も、国家の滅亡も、信教の破滅も、すべて、すべて! ひときわ大きく叫ぶ。

「こころが、砕けてしまうことから、ヒトの敗北は来る! たとえば、十字軍の敗走はまさにその例! その事実を、我々はヴェルジネス聖下にお伝えした。そして、決して砕けぬこころの重要性を、恐れ多くも説いたのだ」


 もちろん、決して砕けぬこころなど、ない。

 人類は神でもなく、聖人でもない。

 しかし、

「しかし、砕けてしまったこころを“義識ぎしき”で支えるならば、決して砕けぬ心であるならば、これはすなわち負けを知らぬ軍勢の誕生に他ならない!」

 信じるもののため一心不乱に、けっして臆することなく、逃げ出すことも退くこともない軍勢であるのならば! すなわち聖なる者たち! すなわち神に祝福された軍団であるのならば! 

 義肢を振り上げるフレアの声は、狂信にますます熱い。

 

「敗北せぬほんとうの軍団を、差し上げたいと我々は聖下に申し上げたのです」

「しかし、そのマチルダは、謁見の際、わたしに襲いかかったが」


 熱くたぎるフレアの声に冷水をかけるがごとく、冷淡な声でレダマリアが口を挟んだ。

 けれども、その声にすら、フレアは乱される様子もなく受け答えする。


「それは見解の相違です。マチルダは聖下を救おうとしたのです。そのお心にのしかかる重責をすこしでも軽くしてさしあげようと」

「ちょうどいま、わたしがしているように、か? 肉体を捨て、憑依を試みて?」

「この最新鋭の“義識ぎしき”は自動的に、こころを砕かれつつある、あるいはすでに砕けてしまった存在を感知し、その支えになろうとするのです」

「そして、支配下に収める──わたしをそうしようとしたな?」

「とんでもないこと」

「方便ならたいがいにするがよい。貴様らの魂胆、見えているぞ」

「もういちど申し上げますが、砕けつつある者、あるいは砕かれてしまった者以外にはけっして、マチルダの“義識ぎしき”は作動いたしません」

「あるいは同類を確認する以外には?」

「聖下のご見識には、このフレアミューゼル、感服するばかり」


 蚊帳の外に弾き出され、眼前で進行するやりとりについていけないネロは、知らない。

 イグナーシュ領の生き残りとして、少女法王:ヴェルジネスに謁見したマチルダが拝病騎士団の刺客として引き起こした事件のことを。

 そして、同席した聖騎士を圧倒したマチルダの“義識ぎしき”を取り押さえたのが、他ならぬヴェルジネス一世=レダマリア本人だったということを。


「まさか、すでに聖下が“義識ぎしき”について、ご存知だったとは──いえ、それどころかすでにそれを己がモノとされていたとは」


 フレアの言葉が、がらんどうになってしまったネロの胸に残響した。





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