“義識”
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うそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだうそだ──。
おんおん、と反射する残響が虚しい。
目隠しされ、地に這わされながら必死に否定するマチルダの姿を見つめて、ネロはほとんど放心してしまっている。
魔女:フレアミューゼルの言葉が信じられなかったから、ではない。
逆だ。
ネロのなかで、これまでのあらゆることが、感じてきたすこしずつの違和感が、まるで最初から仕組まれたパズルのように、ぴたり、と吻合したからだ。
そんなはずがない。
信じたくないという心が、必死になってそのパズルを叩き壊すのだが、そのたびに理性と勘とが「これが正解だ」と、ふたたび瞬く間に組み上げてしまう。
それで、ネロは放心してしまう。
だが、まだ、まだ希望はある。
あると信じたかった。
それは。
「では、なぜ、その半病魔・半人間たる我が妹:マチルダがここへ、刺客として送り返されたのか。法王庁から──」
そう考えているのですね? ネロ・ダーヴォラ。
そして、ネロの思考を、考えられうる唯一の矛盾にしてすがるべき希望について、先回りをしたフレアが言った。
ネロは、人形のようにぎごちない動きで首を動かし、フレアを見た。
慈悲の心をたたえた澄んだ瞳が、ネロを見返す。
異形・異相の魔女の。
「仕立て直された、と表現するのが正しいでしょう。これは推測ですが、しかし、いわゆる無根拠な当て推量ではありません。つまり、心の病魔を望み通りに書き換えるシステムを、法王庁が、ヴェルジネス法王聖下が、すでにして手中にされているというこれは証左」
「書き、換える?」
「詳しくお話しましょう」
衝撃から立ち直れないネロを、心からいたわるようにフレアは優しく言う。
「この心の病魔──あなたがたの言葉に合わせましょう──を、わたくしたちは〈グリフ〉と呼んでいます」
「〈グリフ〉?」
「物語、あるいは象形。こころに投影される」
「物語? 象形? こころに、投影?」
「心が砕けたとき、寄り添って、どこへいけばいいのか、なにを目指せばよいのか示して、自分を取り戻させてくれるもの」
「自分を、取り戻す? 行き先を──指し示す?」
「見なさい」
フレアは己の四肢を示す。
「これはわたしが目指した場所のため、そこへ行き着く代償として差し出された四肢。しかし、それでもヒトが自立して生きていくためには、必要なもの。とくに、こんな厳しい世界と相対するには」
そのために、杖や、あるいはこうした義手・義足は限りない助けとなる。
フレアはますます優しくネロを見つめて言う。
「では、砕かれた心のためには、なにができるでしょう? なにが、寄り添ってあげれるでしょう?」
「だれか、ということ、か」
「いいえ、ネロ。わたしは言いましたね? そこに寄り添うことは、とてつもない負荷をヒトにかけるのです。組織的で充実した、あるいは差異を認められるほど成熟した社会の相互扶助が成立すれば、その限りではないかもしれませんが」
でも、この世界はそうではない。限りなく、限りなく、厳しい。
「もしかしたら、過ぎ去ってしまった文明でも、そうだったのかもしれません。いまと変わらず」
そうやって、心砕かれてしまった人々が大勢いた。
「その砕けた心を救うために〈グリフ〉は造られた」
「造られた?」
「人造の。特別に培養された。ヒトの心のための」
「病魔?」
しぃ、とネロの唇にフレアの義肢が添えられた。
「だから、病魔と呼ぶことは正しくない。これは義手、これは義足、精神の──こころの」
あえて呼ぶとしたら、そう──“義識”というのが正しい。
引きずり出したドロシーの病魔:〈グリフ〉を掲げ、証拠を示してフレアは言う。
「“義識”……なんだ、それ。なんだよ、それ。なんなんだよ」
「ヒトに頭蓋に潜り込んで、つらい現実を変わって受け止め、前向きに生きることを可能にする存在。それをどう呼ぶかは、あなた方にまかせましょう」
けれども、これが真実。
耐えきれず涙を流すネロの頬を、フレアが拭う。
金属なのか、あるいは陶器なのか分からぬそれは、予想に反してあたたかい。
泣かないで、ネロ。
愛し子をあやす母親のようにフレアが言う。
「かつて、この世界には、わたくしたちと同じように、砕けてしまったヒトを救い、導こうとした者たちがいたのです」
あれがその証拠──この聖堂の本尊:〈イデオトラ・サヴァス〉を指して、フレアが言った。
我々は、そこから、この秘儀を受け継いだ。
ネロはようやく薄闇に馴れた瞳が、この聖堂の天井に祭られた存在の姿を映すのを呆然と受け入れるしかない。
「すこし、昔話をしましょう。わたしたちの。マチルダの」
だから、あなたも聞きなさい、妹よ。フレアは呼びかけ、語りはじめる。
「マチルダの心が砕けてしまったのは、彼女が五歳のときでした。そう、あのイグナーシュ革命戦争末期。王侯貴族に対して反旗を翻した民衆と革命軍が王城を攻め落としたあと。いくつもの派閥の寄り合い所帯だった革命軍が分裂し、互いに抗争をはじめたあと。密告と粛正。そのなかで、彼女の両親はギロチンによって処刑されたのです」
物語の一節を朗読するように、フレアが言う。
まるでその場面を見たかのように。
「残酷な仕打ちだった。それまでいったいどれほどの拷問と私刑を加えられたのでしょう。血塗れでカタチの変わってしまった両親でした。幾人かの貴族とともに修道院の対岸に据えられたギロチンで、次々と首を落とされました。最後まで、マチルダの名前を、ふたりともが叫んでいました。転がったふたりの首は崖下へと落ちていきました。その様子を、修道院に切られた細い窓から──マチルダは見てしまったのです。そして、壊れてしまった」
砕けてしまった。
「その様子をわたしも、見ていました。ああ、人間は、正気でありながら、ただ徒党を組んだだけで、ただただ大勢になったというだけで、これほどのことができるのだ、と」
それは見せしめだったのです。いっときとはいえ、貴族たちを匿った修道院への。逆らえば、次はこうなるぞ、という。
「おろかなことです。もはやそんなことをしても、なんにもなりはしないのに。それでも、彼らはやめなかった。まるで祭りの日でもあるかのように歓声をあげ、酒を呑みかわし、街を略奪した。修道院にも、押し寄せた」
そのとき、わたしは確信したのです。
ヒトを一刻もはやく、導かねばならないと。
より高き場所へ。
そして、もうひとつ、決めたのです。
「マチルダを、助けようと。壊れてしまったこの娘の心を、救おうと」
手始めに、まず、その愚かな革命軍を名乗る強盗どもを鏖殺しました。我々は、我々こそは、拝病との誹りを甘んじて受けてなお、真理を知り、世界のくびきに挑むもの。たかだか数十騎の軽騎兵、なにをや恐れるものやある。
「そうでしょう?」
寒気を感じるほど熱狂的な口調で勲を語ったフレアが、また穏やかな尼僧の口調に戻ったことで、ネロはようやくこの女が、狂人なのだと再確認できた。
だが、話は終わらない。
「すでに、そのとき修道院の主要な構成員たちはみな、この“義識”に頼らざるを得ないほど砕かれてしまっていました。長い戦乱が、いったいどれほどの悲劇を産み落としたか。その傷口を塞がんと、夜を日に継いで働き続けた彼らこそ、救われるべき存在だったのです」
その砕けた心に、我々は植えたのです。
「この“義識”を。〈グリフ〉を。ちょうど、病に負けない種をあなたたちが選んで、接ぎ木するように。根と枝とを、つなぐように」
ブドウの樹を例にあげて、フレアが続ける。
もちろん、こんなに幼い子供にこれを投じることは、わたしたちだってはじめてでした。けれども、放置することなどできなかった。
「わかるでしょう?」
ふたたび問いかける魔女の笑みに、答えるべき言葉をネロは持たない。
「もちろん、最良の“義識”を、最高のスタッフで、細心の注意を払って──植え付けたのです。術式を終えたあと、最初は虚ろだったマチルダの瞳にすこしずつ光が戻りはじめたときのよろこびを、ネロ、わたしはあなたに伝えたい! ああ、天におわします聖イクスよ! 感謝を! そして、そこへといたるための階を示してくださる存在たちにも!」
感激に涙さえ流して見せる魔女の姿に、ネロはただ、子供のように首を振って見せるしかない。
「どれほど術式の成功をわたしたちが喜び、言祝ぎ、感謝したか。修復されたマチルダの心と身体が“義識”とともに育っていく姿を──どんな思いで見守ったことか」
その奇跡に、どんなに救われたか。
希望はまだあるのだと、この世界には、まだ光があるのだと。
ネロは一瞬、傷病者の血肉に塗れた病棟で一心に祈りを捧げる聖女の姿をすら、フレアに見てしまう。
その熱心と狂信に。
「どうです、すばらしいと思いませんか?」
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな──みたび唱えられる聖句とおなじく、みたび問いかける魔女は、しかし、表情を一変させ、マチルダへと近づいていく。
ネロにはいったい事態がどこへ向かおうとしているのか、まったく理解でない。
「それなのに──ああ、それなのに。聖下、聖なる御座におわします法王聖下。あなたは、あなたはこのわたくしたちの真心と、贈り物を拒絶なさるというのですね?」
ビィイイイイイイイッ、という木綿を裂く音とともにマチルダの身に着けていた僧服が引き裂かれるのを、ネロは見た。
こぼれ落ちる胸乳と悲鳴と、それから、その背に刻まれた忌まわしき刻印──《フォーカス》:〈メルキュレー〉。
「見よ、これこそが、書き換えられ仕立て直されたものの証──“義識”を変容させ、因果を逆廻しにした証拠。〈グリフ〉によって聖なるものへと、強いて引き上げられし者の姿!」
まるでフレアの叫びに呼応するように、がばり、ばくり、とマチルダの背に埋められた〈メルキュレー〉が閉じられていた顎門を開き、内側に潜んでいたものを明らかにする。
それは、それは──。




