『倹約』
「白衣医師団・人狼病撲滅推進会――な」
ふうん、とうろんげにメルロは鼻を鳴らした。
ネロはその手に焚き火の燃えさしを握り、さっきまでしきりに振っていた。
帰路につくフレアを見送るためだ。
「送りましょう」
というネロの言葉は、最後まで発せられることはなかった。
背後でオウガのごとき立ち姿になったメルロが、「ふんっ」と大きく鼻息をついたからだ。
「まさか、わしを留守番に残して、その女の家まで送ってやろうとかいうのではあるまいな、うちのご主人様は」
そんな副音声がはっきりと聞こえた。
完全に思惑を見抜かれ、ぎこちない動きでネロは振り向き「まさか」とひきつった笑いを見せるのが、精一杯だった。
メルロの指摘がまったくの正論だったというのもある。
当然メルロひとりになどするつもりはなく、ふたりで送って――とは考えていた。
だが、たしかに留守の間に狼に蔵に入り込まれたら、と考えると震えがきた。
通路の暗がりから不意打ちを受け、自宅で殺されるなど考えたくもない。
おちおち眠ることもできなくなる。
「送っていきたいところなのですが……」
そういうわけで、男としては相当にふがいなくも、我が身と家内と我が家の安全を第一とする旨をネロはフレアに伝えた。
「とんでもない」
としきりに頭を下げるネロにフレアはかぶりを振った。
ネロが彼女をエスコートしようと考えてくれていたのを知り、逆に恐縮された。
「夜分に来訪も予告せず、お邪魔しただけでも失礼なのに、お食事とワインまでご馳走になり、恐縮するのはこちらのほうです」
育ちのよさをうかがわせる口ぶりで、フレアは言った。
それから、連絡先を記した木札をネロに渡した。
掌サイズの焼板に、焼きごてで判突きされたそれには小さな穴が開けてあり、ご丁寧に麻のヒモが通してあった。
「白衣医師団?」
なんだっけ、これ、とつぶやいたネロの手元からその札がひょいと抜かれた。
「どっかの宗教騎士団が経営母体を為しとる施療師のネットワークじゃったな」
よくご存知で、とフレアはメルロに微笑みかけた。
「医療体制の整わぬ寒村や辺境に出向いて、異能に依存しない動植物、鉱物などの自然物から造った薬で人々を病から救おう、という主旨の団体じゃったな」
近年、急速にその勢力を拡大してきたが、たしか、宗教改革に乗り出した現法王とは意見対立が起きていたのではないか?
メルロの見解に、フレアは感嘆の溜息をついた。
「そうなの……か?」
「ネロ、おぬし、もう少し社会情勢に耳を立てておけ」
「メルロ、オマエいつの間に」
「いっつも、おぬしの抱き枕を務めておると思うたら、大きな間違いぞ」
ふたりのやりとりにフレアが吹き出し、なにかありましたら、と挨拶して立ち去ったのは、その直後だった。
「しかし、あの女の言うことが本当なら、これはちと厄介じゃな」
焚き火の炎に焼板をながめすがめしながらメルロは言った。
「人狼病か。たしかに、まずい」
白衣医師団のフレアが告げていった内容を要約すれば以下のようになる。
人狼病――主にイヌ科の動物からの傷を媒介にして人類にも伝染するこの病は、その他の多くの獣への感染が確認されている。風邪とよく似た症状から、水を嚥下するときに強い痛みを感じるようになり――恐水病とはこのためについた別名だ――やがて、風や陽の光を恐れるようになって、極度に興奮、精神錯乱の果てに、犠牲者は全身マヒから昏睡に陥り、呼吸困難で長くとも三ヶ月以内で絶命する。
その致死率は、ほぼ一〇〇パーセント。決定的な治療法は、ない。
唯一、《スピンドル》能力者の行使する異能により病魔を実体化して撃退できれば、そのかぎりではない――という可能性は残されるが病状の進行が速く、また人狼の病魔は大変強力なため試みた《スピンドル》能力者が破れる場合も、ままある。
野生の狼は、この時代その感染源と見なされており、狩られる運命にあったのだ。
「あの大狼は――そのキャリアーである可能性が非常に高い。近ごろ、この周辺で目撃例がありまして――密かに追っていたのです」
フレアはネロの肉体を丁寧に診察し、ケガのないことを確認して安堵の溜息をついた。
「よかった。もし、噛まれて、そのうえで適切な処置が受けられなかった場合、最悪の事態を想定しなければならないところでした」
フレアの言葉にほっとしたのも束の間、ネロは青くなった。
「や、ちょっとまって、じゃあ、この貴腐葡萄――さっき」
「ネロ。おぬし《スピンドル》能力者じゃろう。鑑識してみい」
メルロが言いながら無造作にその粒をひとつ、口に放り込み、それから声を漏らした。
「ああ、狂いそうじゃ――旨くて。甘くなるだけでなく、独特の薫りまで獲得するのじゃのう、貴腐葡萄というのは。ねっとりとした感触が、たまらん」
この葡萄、わしのために見守ってくれておったのだろう? 冷ややかな表情なのに、その頬が月明かりの下で桜色に染まっているのをネロは見てしまった。
「安心せい。たちの悪い病魔など憑いておらぬよ。この葡萄にも、おぬしにもな」
そうか、と安心し、ネロはへなへなとその場に座り込んでしまった。
「なさけないことよ」
「安心したら――腰が抜けた」
こつん、とその頭に軽く拳骨が落ちてきた。
「いつまでへたり込んでおる。今晩中に貴腐葡萄を酒に浸すのだろうがよ。はようせんと、明日は雨じゃぞ! 葡萄も、刻一刻と痛みおる!」
もはやどちらが親方かわからぬ気合いの入りようで、メルロがネロを急かした。
「あ、あい、マム」
「そうじゃ、そうじゃ、働けい! わしの旨酒のためじゃ!」
四つん這いで、それでもやるべきことを思い出し蔵に向かうネロを、メルロはたまらなく愛おしそうに見るのだ。フレアは苦笑するしかない。
傘をかぶった満月だけが、その様を見ていた。
※
翌日はネロの読みどおり、そして、メルロの言ったとおりの雨だった。
法都:エクストラムの位置する、このイダレイア半島では降雨は秋から冬に集中する。きっと長雨になるだろう。
「あぶなかった。あと一日遅らせてたら、完全にアウトだった」
「おぬしへの葡萄への愛、ひいてはわしへの愛の賜物じゃな」
「う……言い返せない」
蔵の内には、たまらない芳香が満ちている。
ネロお手製のまだ未成熟なワインに、昨夜の貴腐葡萄を一夜つけ込み、十分に水分を吸い込み戻ったのを確認してから、いま、再圧搾の最中なのだ。
まともなワイン農家から考えたら噴飯物のやり方かもだが、どうせネロはアウトローなのだ。
チャレンジする価値は、充分ある。
もちろん機材も近隣の農家から下取りした物にネロが手を加えた特別製だ。
なにより、その圧搾機の目玉は葡萄の粒を優しく潰す部分にある。
たぶん、こんな贅沢な道具でワインを造ることは他の男にはできまい、とネロは思う。
丈の短い貫頭衣一枚で、月の女神のように微笑み、はにかみながらその素足で葡萄を搾るのは他の誰あろう――メルロテルマ――夜魔の姫だ。
「どうした――ネロ、おぬし、ぼうっとして? 寝不足かや?」
「いや……すまん。その……ごめん。――見蕩れていた」
メルロが、あんまり、きれいで。いけないとわかっていても、輝くように白いその素足にネロの目は釘付けになる。それに、ことワインに関する事柄について、ネロは嘘も世辞も言えない気質なのだ。こんなことを言えばつけ上がるとわかっていても、メルロを称賛する言葉が自然に出てしまう。
「えっち」と裾を押さえ照れて見せながらも、メルロにも嫌がっている様子はない。
はにかんだ笑顔が返ってくるばかりだ。
葡萄を搾り終え、ワインと混合された果汁を樽へ戻し、ネロはその搾りかすをまた別の容器に移した。
「? そんなもの、どうするのじゃ?」
「これはこれで醸す。あとで蒸留して、グラッパ――粕取りブランデーにするんだ」
ぱあああああっ、とメルロの顔が輝いた。
どうやったものか、ネロは陶器製の蒸留器を知り合いの工房に持ちかけて作ってしまっていたのだ。もちろんそれは、従士時代に練金学を学んでいたおかげだ。
「おぬし、天才じゃのう!」
「農民は、どんなものでも無駄にしないものさ」
「では、これもそうしたほうがよかろうな」
ネロに抱きかかえられ背の高い椅子に腰かけ、メルロが脚をあげた。
ワインと貴腐葡萄の細片に染められ濡れて、その両脚が光っていた。
「あ、ああ、そう……だろうな」
「ご苦労じゃが……無駄にしないでくれるかの? ……エコじゃ?」
「わかった。だよな……無駄はよくないよ、な。エコ、エコ、エコ……スタッフが責任を持って美味しく頂かなくちゃ、だよな」
ネロは騎士のように跪いた。メルロが足先を、その口元へ近づける。
そっ、とその爪先にネロは口づける。
ぞくぞくぞくっ、という感覚にメルロは指を噛んで、背を反らせた。
「ん」と甘い声が漏れる。
ゆっくりと唇と舌だけでネロは「無駄」を取り去ってゆく。
「どう、かの。お、お味のほうは」
「あ、あたまが、痺れるくらい、おいしい」
ふたりは、そんな倒錯的な「倹約」にけっこうな時間、躍起になっていたせいで蔵に下りてきた来訪者に気づかなかった。
どさり、となにかが落ちる音がして、それでようやくふたりはその来訪者に気がついたのだ。
若い男がいた。
ふたりのあまりに濃密な「倹約」に目が釘付けにされてしまって。
「いや、ほんとうに、なんども声をかけたのですが」
照れまくり頭を掻きむしっている若い男、グレケットはネロの知人だった。
貴族連の使い走りをしてはいたが、あくまでそれは処世術であり、貴族連に肩入れしていたり意志を売り渡しているわけではない、と主張していた男だ。
コウモリ、などと庶子連サイドからは揶揄され、貴族連サイドにおけるネロのような――つまり庶子たちに睨まれるという損な役回りを演じることが多かった男である。
しかし、人当たりは抜群によく、あやういところで吊るし上げの対象からは外れるという世渡り上手でもあった。
ネロは貴族連の陰謀を、なんどもこのグレケット――グレコ、とよく考えたら葡萄品種と同じ愛称――からのタレコミで躱したものだ。見返りといってはなんだが、ネロがそのむかし、従士だったころ持っていたもうひとつのアルバイトの口は、クビになる際、このグレコに譲ったものだ。
ヒトのよさと食えなさが同居する来訪者に、メルロは恥じ入って奥から出てこない。
まあ、当然かとも思う。あんな場面を目撃されては。
「どっから、見ていたんだよ」
「いや、ボクが来たときにはもう、そのなんていうか、佳境?」
「……どうして、オマエがここを知ってんの?」
「いや、むかし、密造酒飲ませてくれたろ? もし、このエクストラム市中でそんなもの隠し通せるとしたら、フォロ・エクストラーノしかないって。それに、だいぶ前――そうか、あれは十字軍の第一陣出陣前だから、もう、半年はたっているんだなあ――に、貴族連がキミを探しに行くって言ってたし」
そうだった、とネロは額を押さえた。
相手の頭も帽子掛けではないのだから、推理くらいはする。
「行けばわかるか、と思ってウロウロし始めたら降りがひどくなって。ご覧の通り、ひどいありさまさ」
くしゅん、とグレコはくしゃみをした。
「んな濡れた服、着てるからだ。脱げよ。オレのを貸してやる」
「ありがたい」
もたもたとグレコが濡れた衣服を脱ぎはじめたが、どうもうまくいかない。
「なにしてんだ、おまえ」
「いや、こう、ヒモが固くてさ。やっちゃったよ。固結びになっちゃったんだ」
「子供かよ、かしてみろ!」
ネロが手に取ると結び目は簡単に解けた。
「どうした、手先の器用さで鳴らしたグレケットさまが、どうしたざまだ」
冗談のつもりで言ったネロに、グレコは真剣な目を向けた。
それでわかった。
グレコの左の手はぎこちなくしか動かせないのだ。
「グレコ、おまえ、それ」
「やられたんだ。十字軍だよ。敵の矢が抜けてきて、浅かったし手当ても早かったんだけど、腐敗毒が塗ってあってね。でも、ボクはまだ運の良いほうさ。手足はあるし、目玉も両方ある。なにより生きてる。
第一期で従軍した従士隊は約五〇〇。そのうち、帰ってこれたのは半分だ。キミを目の敵にしてた貴族連のガーミッシュいたろ。ニキビ面の。あの取り巻き連は、ごっそり戦死さ」
だから、ネロ、キミは良いときに辞めたのさ。
グレコは屈託なく言った。
「じゃあ、おまえ……いまは」
「従士は退役。うまいこと指導教官の口があってさ――まだ見習いだけど――新たな従士のみなさまの風紀を取り締まったり、寮の守衛をしてみたり、ときどきは読み書き教えたり、実戦のありようをお伝えしたり? まあ、うまいことやってますよ」
こういうとき、ネロはどういう顔をして、どう声をかければいいのか、わからない。
ただ、ひとつだけ、たとえその境遇がどうであれ、古い友が訪ねてきたときは、酒を酌み交わさなければならないということだけはわかっていた。
それが古なじみへの礼儀というものだと、心得てだけはいた。
「しっかし、びびった。アレはナニ? まさか、おまえの――奥さん? すっげー美人、すっげー美人。おまけにこんな穴蔵に囲って、チョーエロい! チョーエロい! あんなの商売女でもさせてくれねーぞ!」
「おまっ、結局、かなり最初から見てたんじゃねーか!」
「いやー白状する、白状する、最初、最初っから見てた。物陰で。考えやがったなー、あんな美人に葡萄絞らせるかー。ラベルは彼女の脚で決定だろ!
それにしたって、あれはもう、ないわ。絶対、夢に見るっ。『えっち』とかチョー可愛い、チョー可愛い!!! オレもあんな奥さんが欲しー!!!!」
「おまえ、声がでけーよ。……でも、可愛かったろ?」
「あー、こいつのろけやがった。だけどっ、わかるっ、あの可愛らしさは異常!」
「あのっ、これ、頂き物ですけど……」
きっちりとした身なりに着替えたメルロがテーブルに酒の肴を持ってきた。
サラミとチーズ。それにドライフルーツを加えた黒パンだ。
つけあわせに、その辺に生えてる草――セルバティカを粗塩とオリーブオイル、ごく少量のレモン汁でドレス(注・ドレッシングをかけ回すのではなく、少量の調味料で手を使い丁寧にまぶす調理法)しただけのもの。だが、この草は、この食べ方が、いちばん旨い。
「いやっ、奥さんっ、こんなにっ、こんなにしてもらっちゃあ」
「サラミもチーズも、おまえの持参だろうが」
「あれっ、あれえ、いや、こんなにきれいに切って盛りつけてあるとわからんもんだね。じゃ遠慮なくっ。うーん、これはワインに合う!」
世辞もみえみえだが、グレコの巧妙なところはメルロを「新妻」と最初から断定してかかっているところだ。本当に妻ならあれほど褒められればうれしくないはずがなく、妻でないなら「妻になりたい」という願望をうまく刺激できている。そして、ネロ自身の口から「可愛かったろ」との評価を引きずり出しているのだ。
心の耳が倍ぐらいのデカさになっているメルロには、効果てきめんの一撃だったはずだ。
「さささ、奥さまも、どうぞどうぞって、こりゃあネロの酒か」
「では、せっかくですから甘えてしまいますね」
「あ、いける口ですね? ネロの奥さんだもんな」
「グレコさん、おふたりは……どういうご関係? わたしにも教えてくださいな」
ネコをかぶった口調でメルロが問い、ネロとグレコは一瞬、顔を見合わせた。
「ハグレモノ連合?」
「転がる詩人の会:会長と副会長?」
なにがおかしいのか、酔った男たちは、どっと笑った。
注・このエピソード中でネロの用いた醸造法、完全なフィクションです。本当に噴飯物。これを元になにか語ろうものなら、一〇〇倍返しは確実です。もう、シーンを構築するためだけに組み上げられた、完全な空想の産物。過渡期にはあったかもしれませんが、少なくとも物証ないし、第一級資料たるサムシングをトビスケは持ちません。
ほんとは、こういうことお話の直後に書くのはダメなんですが、食べ物関係、無茶する方いらっしゃると、胸が痛いので。