告解(こっかい)
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「ここはね。我々が希求する超越的存在……キミたちが一般に病魔と呼び習わすもののなかでも、特別な一柱:〈イデオトラ・サヴァス〉を祀る伽藍なのだよ」
突如として訪れた展開——ドロッセルマイヤ修道院長の登場に言葉を、いや我さえ失ったネロとマチルダふたりをよそに、拝病騎士:フレアミューゼルは約束通り、すべてを開陳してゆく。
「〈イデオトラ・サヴァス〉を数多ある病魔たちのなかで特別足らしめているもの。それはなにか? わかるかね、うん? わからない? よろしい。これも講義してさしあげよう」
かつり、こつり、と計八本に増殖した義手義足の《フォーカス》:〈アラキュレ〉を繰りながら、立ち尽くすドロッセルマイヤのそばまで歩いてフレアが言った。
恐るべき異形・異相となった魔女に歩み寄られているというのに、シュクレー修道院長たるドロシーの表情には一切の緊張も動揺も感じられない。
白痴的ともいえる微笑とうつろな瞳。
親しい友人・知人という間柄だけが醸成することのできる空気感と距離感。
それはフレアとドロシー、つまり、拝病騎士団とリンネル派・白衣医師団との間にあるかもしれない後ろ暗い関係性よりも、もっと恐ろしい癒着・依存性をネロに想像させた。
そして、フレアはまさにネロの想像について言及する。
「この聖堂の主:〈イデオトラ・サヴァス〉の特異性。それはまさにある一点に集約できる。他の病魔と大きく一線を画する部分——それは、彼の存在が司るものが“心”である、ということだ」
心、という単語を発しながらフレアは奇怪な義手を伸ばして、ドロシーの頭部を後ろからそっと掴んだ。
命の危険を感じるべき状況。
「やめろッ」と反射的に叫んだのはネロだ。
目隠しされたまま状況を把握できないマチルダが身をよじる。
ネロッ、ネロッ!! と悲痛な声が上がるが両脇を固める拝病騎士たちにガッチリと取り押さえられ、抜けだせない。
だが、当のドロシーはなんの脅威も感じていない、いやそれどころか、親鳥に羽繕いされるひな鳥のようにうっとりと瞳を閉じて見せるではないか。
「貴様ッ!!——そうか、わかったぞ! その〈イデオトラ・サヴァス〉とかいう病魔の《ちから》でこの修道院の人々を操っているのかッ! そうやって拝病騎士団の隠れみのに利用してッ!!」
ドロシーの表情から、すべてを察したとでも言うようにネロが叫ぶ。
「くそう、そうか、そういうことかッ!! 院長先生! にげてッ、ドロシーッ!!」
一瞬でネロの言葉の意味を悟り、マチルダが同じる。
ああ、その誤解が真実でありさえすれば、どれほど救われたとだろう。
やれやれ、とフレアが苦笑し首を振る。
それから、抜き取った。
ドロシーから——その霊魂を。
そのようにしか、ネロには見えなかった。
かくり、と糸の切れたマリオネットのようにひざからドロシーがくずおれる。
あのうつろな笑みのまま。
かわりに、その肉体から抜き取られたものは半透明のおとぎ話に語られる幽霊を思わせるような存在。
ドロシーの仮面を貼り付けた、どこか優美ささえ感じさせる、それ。
ヒトを思わせながら、ヒトではない、ありないシルエット。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!」
迸り響き渡る咆哮が己の咽喉から発されていることにネロが気がつくのは、すこしあとのことだ。
見れば鎖に繋がれた手枷を限界まで引っ張り駆け出そうとしていた。
だが、縛鎖は太く頑丈でびくともしない。
石が手首に食い込み皮が擦れ、血が滲む。
ネロの捕縛に、このような自然石を使うのは加工されていない物質に近ければ近いほど《スピンドル伝導》の効率が落ちることを拝病騎士団が熟知している証拠だ。
同じ石を素材としていても、彫像より城塞が、城塞より岩石が《スピンドル伝導》による崩壊に抵抗するのはこの理由だ。
丹精込めて作られ使い込まれた道具のほうが《スピンドル》は通りやすい。それはすでにして道具が、ヒトの《意志》によってカタチを与えられたものだからだろう。
ネロは無意識にもありったけの《ちから》を込めて《スピンドル》を励起させるが、わざと自然石のままほとんど手を加えられていない手枷の表面でそれは拡散してしまう。
「静かにしたまえよ、キミたち。きちんと、真実を我々は教える、と言っているじゃないか。約束は違えないよ。神に誓っただろう?」
心底困った、という様子でフレアが振り向いた。
見ればマチルダも床に押さえつけられて取り押さえられている。
ネロと同じ方法で脱出を試みたのだろう。
だが、相手はさすがに拝病騎士だ。カウンタースピンによって《スピンドル》を押さえ込まれたのだ。
今日が初任務・初陣というヒヨッコのマチルダと彼らでは、同じく《スピンドル能力者》であってもその運用に天地の開きがある。
資質だけではどうにもならないのが現実だ。
「返せッ!! ドロシーをッ!! その魂を、彼女に——戻せッ!!」
ネロの叫びに、なぜかフレアは驚いた顔をした。それから訊いた。
「キミには、これが、ドロシーの魂に見えるのかい? これが? ヒトのカタチに見えると?」
おどろきだ、と笑みを広げるフレアは、心底、嬉しそうに見えた。
ぶるりっ、とネロの背中を悪寒にも似た震えが這い登った。
フレアの問いかけは、まさにネロの恐れの中央を射貫いていたからだ。
ヒトの霊魂など、とうぜんだがこれまでネロは見たことなど、ない。
けれども、どこかでそれはとうぜんのように、ヒトの姿をしているものだ、と疑いもせず信じてきた。
宗教絵画に描かれるもののように。
だが、眼前で展開する光景はどこか神々しくはあっても、やはり、異貌・異形・異相のものであり、ヒトのカタチでないことは間違いなかった。
「じゃあ、なんだって、いうんだ」
震える声でやっとそれだけ訊けた。
その問いかけに、いい質問だ、とフレアは脚を差し向けて示し、口を開いた。
「この〈アラキュレ〉は、病魔に触れることのできる《フォーカス》なんだよ」
ようやく話を聞く態度になった生徒に満足した教師のように余裕の笑みを浮かべて、フレアは話しはじめた。
「掴んで捕まえることもできるし、潜んでいるそれを引きずり出すこともできる。発動できる異能を駆使すれば二種類の病魔を混ぜ合わせることもできるし、他者にそれを移すことなども容易だ」
驚嘆すべき告白を聞きながら、ネロはがくがくと肉体を震わせる恐れに、冷たい汗が噴き出すのを感じた。
そのネロの様子に、キミは聡明だ、とフレアは笑う。
「もちろんだが、ヒトの霊魂などには触れられない。その心にも、ね?」
しかし、と例外を付け加える。
「しかし、心の病——心の病魔にであれば……わかるかい?」
ああ、あああ、ああああああああああああ。
ネロは叫ぶ。
いったい幾度目だろうか。
しかし、こんどは完全に絶望して。
意識が失踪して上滑りしていくのがわかる。
肉体が絶望に対する生理的反応でもって、自動的に声を上げる。
楽器としての。
いやだ、とネロは思った。
わかりたくない、と願った。
わからせないでくれ、と思った。
「いやだ」と声が出た。
冷や汗でぐっしょりと濡れた声だ。
「いいや、キミには理解してもらう。愛のために」
いつのまにか這いつくばってしまっていたネロのそばに、フレアが歩み寄って、そのおとがいを上げさせた。
右脚には抜き取られたドロシーの病魔が、ある。
「まずは、誤解を解いていこう」
なかば壊れてしまったように涎をたらし目線を泳がせるネロに、しかしこれ以上ないほど優しく微笑んで、フレアは言う。
だいじょうぶ、キミは壊れてなんかいないよ、とささやく声と表情に、どこかマチルダと同じ匂いがある、とネロが気がついたのは、このときだ。
「キミたちは、我々があとからやってきて、この修道院を占拠したかのように考えているようだが、まずそこに問題がある。ここはね、ネロ? 最初から、我々の持ち物だったんだ。つまり、リンネル派・白衣医師団の母体は、我々、拝病騎士団なのだよ」
これまで語られたことの衝撃に打ちのめされて、もはや抵抗することすらできないネロと、無力感と屈辱に涙を流すマチルダとにゆっくりと言葉の浸透するのを確かめるように視線を流しながら、フレアは続ける。
「なぜなら、ここには最初から〈イデオトラ・サヴァス〉の本尊が眠っていたのだ。おお、偉大なる“心”を司る存在よ! その《ちから》を持って、ヒトをさらなる高みへと導きたまえ!」
ネロの背後にある柱へと祈りを捧げたフレアの言葉には、ますます揺らぎがない。
「キミたちは我々、拝病騎士団を無差別に疫病をまき散らし人類を破滅に導こうとする結社かなにかだと考えているようだが、それはモノの一面だけを捉えた非常に短絡的な観点だ」
滔々と謳って聞かせるように、フレアは言葉を紡ぐ。
「我々は人々を高みへと、より高次へと導くという聖なる努めを課せられているのだ。そして、それはキミたちが病魔と呼び蔑んで恐れる存在によってなされる」
みじんの疑いもなく己の正しさについて語る魔女の瞳は、震えがくるほどに澄んでいる。
「疑うのならば見るがよい。我々は、決していたずらに病を広めているのではない。人命を奪うために成しているのではない。これは試練なのだ。人類が高みへと至るための通過儀礼」
言葉なくフレアを凝視するネロと視線を合わせ、フレアは説く。
道に迷う子羊を善導する教祖の顔で。
「神は言われた。心の砕かれた者こそさいわいである、と。なぜならば、その心にこそ、いと高き者は宿るからです」
聖母の笑みと言葉。
もし、本物の手があったなら、優しくネロの髪をかいぐったであろう微笑みで、フレアは続ける。
「ここ、シュクレー修道院は、そうやって心を砕かれた者たちの家なのです」
いつのまにか、修道女のような言葉遣いになったフレアがほのめかすところを、ネロはまだはっきりとは理解できずにいた。
「戦で荒んだ心。傷ついて将来に絶望した心。先立たれ、取り残された心。捨てられた孤独な心。その果てに砕けた心。そして、それらと向き合ううちに、やはり砕かれた心」
それはつまり、この修道院全体が、そこに収容された傷病者と同じように医療・治療に携わる多くの修道士・修道女たちが——砕けた心なのです、とフレアは言うのだ。
「その砕かれた心は、しかし、さいわいです。なぜなら、宿すことができるから」
「宿すこと?」
「そうです、ネロ。こう言い換えてもいいかもしれない。人類の心は砕かれることで、更なる高みへと導いてくれる存在を受け入れる準備が整うのだ、と」
くらり、とネロはめまいをおぼえた。
おまえがなにをいっているのかわからない。
理性はそういうのに、カラダが、拒絶を否定している。
圧倒的な狂気に正気が打ち負かされ、それを肉体が体現してしまっている。
「ここに暮らす者の多くは、それを受け入れ、すでに階を昇りつつある。そう。高次元へのシフトの時です!」
「なにを……いってるんだ……おまえは……」
「あなた自身が認めたではありませんか、ネロ。愛したと。恋したと。そして、関係した、と。彼女はもう人間と同等。いいえ、それ以上——マチルダ。ああ、マチルダ。愛しい妹よ!」
あれもまた、病魔——心の。
奉じるべき存在。
高き座あって我らを導きたもう〈イデオトラ・サヴァス〉の眷族。
「あれこそ、病魔と人類の融合体——ハイブリッド」