拝病騎士
「今夜、傷病兵たちの病室を調べる」
それが、決定的な別離への言葉になるなど、思いもせずにいたのだと。
いまでもときどき、ネロは思い出す。
滞在最後の晩となる六日目の夜、この地方特産だというマスを使った夕食と夜の祈りを済ませたネロは、マチルダに告げた。
「今夜はわたしも、その部屋にいます。昼間、たどり着いた傷病兵たちの看護に協力します」
マチルダの決意を込めた瞳にネロは一瞬、言葉を失った。
昼間、十数名の小集団がシュクレーを訪れた。
兵には兵の情報網があるか、あるいは──戦場において、なにものかが彼らに囁くのか。
傷を負った彼らは徒党を組み、修道院を目指してきた。
明らかに、その途上で略奪によって得たであろう品を携えてもいた。
荒んだ目と心をした男たちである。
彼らの背中の向こうにあるだろう十字軍の状況が、鏡のように映し込まれた男たちである。
「助けてくれる、と聞いた」
いったい彼らがいかなる動機のもと、従軍し戦線に赴いたかはわからない。
傭兵がいたし、志願兵がいた。もしかしたら法王庁の従士も、いたかもしれない。
出自も、志もわからなかった。
ただただ、泥沼のような戦場を這い回り、敗れ、追い立てられて逃げ出した。
そして、路銀のために集落を襲い、奪った。
もしかしたら、殺し、犯した。
それが事実だろう。
その口から出た、
「助けてくれる、と聞いた」という言葉を、いったいどう受け止めるべきだったのか、ネロにはわからない。いまでもだ。
「それでも、わたしたちはあなたたちを受け入れましょう」
人垣を作った修道士たちをかき分けて現われたドロッセルマイヤが、発した言葉をネロもまた前庭で聞いた。
安堵したのか、負傷兵のひとりが気を失い倒れるのを見た。
マチルダはその男たちの看護に志願した。
彼らの全員が傷を負い、なかには手足を切断せねばならぬ者までいた。
これはこの時代、生死をかけた手術である。
放置すれば壊死と感染症で命そのものが危うくなるが、同時に手術の痛みや出血に耐えきれずショック死する例も珍しくなかった。
手術そのものは現役の修道士たちが担当するし、あの麻酔薬の精製施設を目の当たりにしたネロには、他の医療施設や修道院でのそれに比べて、はるかに成功率の高いものであることはわかっていた。
ただ、問題は、マチルダが彼らと接触することである。
不安があった。
「わたしなら、だいじょぶですよ」
「……できたら、今回のことは、自重してくれないか」
両手でちいさな力こぶを作って見せやる気をアピールするマチルダに、ネロは言った。
「これまでだって、問題なかったですし!」
「キミがいた一年前とは状況が違う! あいつらは……空気が変だ。ヤバイ感じがする」
「それは、それだけひどい戦いを……」
「いや、それだけじゃない。逃げる途中で、あいつらは絶対にヒトを殺しているし……女子供にも手を出したに違いない。そういう目だ。あれは」
「でも、だからと言って」
「マチルダ」
「わたしだって、役に立ちたいんです!」
普段柔らかな物腰のマチルダがときおり見せる芯の強さ、頑なさといってもよい主張の強さの原因が、自分が役に立てていないこと、聖堂騎士という立場に対する資格の至らなさ、わかりやすく言い換えれば罪悪感に根ざしているのだということを、ネロはこのときやっと、はっきりと理解した。
「ネロが探りを入れる場所にわたしが入れば、なにか連携できるかもしれないし!」
けれども、マチルダの主張をネロは退けようとした。
「ダメだ」
強くかき抱く。息もできないほどに抱擁して、その華奢な身体を束縛する。
「オレがやめてくれ、って言っているんだ」
やつらがキミに触れるところを想像するだけで、気が変になりそうなんだ。自らの所有権を主張するように、ネロは指をマチルダの髪にもぐりこませる。
ちいさくマチルダが声をあげる。それから、荒い息の下で言った。
「わかりました」と。
必死すぎる想いが、衝動的な行動に繋がってしまったがネロには後悔はなかった。ほんとうに心からそう思ったからだ。
けれども、続くマチルダの言葉は、肯定であり、同時に否定だった。
「望んでくださるなら、マチルダは、一生、あなたのものになります。でも、」
でも、今夜だけはいけません。きっぱりと言った。
「わたしはまだ、聖堂騎士なのです」
※
「俺はこの女がいい」
荒んだ男の声と、転げ落ちた器具が床をたたく音、同時にあがった悲鳴にネロは振り向いてしまった。
暗い病室、いくつものベッドが並ぶそこに幾人もの男女の姿が影絵になって踊った。
燭台とランプから漏れる明かりだけでは、圧倒的な夜のちから:暗闇を退けることはできない。
ついに傷痍軍人たちを収容した病室で、立ち並ぶ天使像の裏側に隠し扉を発見したネロは、その直後に起こった騒動を見てしまった。
昼間、シュクレー修道院に辿り着いた男たちのうちの数名が、マチルダの肉体に手をかけていた。
背後から手をまわし、胸乳に指をかけ、首筋に鼻先を埋めて匂いを嗅ぐのを見てしまった。
ネロは上げかけた怒号を、奥歯で噛み殺さなければならない。
引き抜きかけた腰のナイフを、影から伸びた手が押しとどめた。
いかん、と囁かれた。
影に潜むメルロがちいさく首を振る。
だけどッ、と声になりかけたネロの反論を、こんどは眼前の光景が制止した。
「わたしがご所望なら、そうしましょう。けれども、まず、あなたには治療が必要です」
男の指と手に、己をそれを重ねて乳房に強く押し付けながら、マチルダが言ったのだ。
抵抗を期待しただろう男が、一瞬、呆気に取られる。
その様子がネロにはっきり見て取れたのは、マチルダと視線が合ったからだ。
いったい、いかなる奇跡だったのか。
名画の一場面を見るように、頼りなげに乱舞するロウソクとランプの明かりが、その一瞬だけマチルダに収束し、その姿を聖母のように暗闇に浮かび上がらせた。
欲望に塗れた男の手に触れられながら、なお侵しがたい聖性に護られた存在のように。
「行ってください」
マチルダの唇がそう動いたように見えたのは、交錯する光が見せた幻か。
次の瞬間、ネロは口を開けた隠し扉へと、身を踊らせていた。
※
「なんだ……ここは……」
隠し扉の奥に繋がっていた石造りの階段が、その材質を一変させたあたりから感じていた違和感が言葉になったのは、その光景を目の当たりにした時だった。
馬蹄形の劇場を思わせるその施設は、石ともレンガとも違う継ぎ目のない奇怪な素材で作られた場所だった。
そこに幾本ものガラス製だろう円柱が床から突き出している。
柱廊、といえばよかったのかもしれないが、その円柱たちはいずれも、高さ三メテルほどしかない。
それなのに、ネロの眼下に広がる光景は、大聖堂の天井から床ほどまでもあるのだ。
構造的にこれは、シュクレー修道院の地下を穿って作られた空間に相違なかった。
まさか、これほどまでに圧倒的な空間が、隠し通されてきたとは。
ネロが言葉を失うのもしかたのないことではあった。
「エクストラムの闘技場や劇場の舞台地下……奈落のようだな」
眼下に姿を現した奇怪な大空洞に、ネロはそんな感慨を抱いた。
どうやらいまネロが降りてきた隠し階段は、その奈落のフチに沿って用意された観客席のような場所に繋がっていたようだ。
U字を描く奈落の壁面に用意された上流階級用の観劇席。
そこへの直通路をネロは下ってきたのである。
「しかし、こりゃあ……薬剤の研究・調合施設なんて、メじゃないぞ」
ぐるりと観客席のフチに沿って並べられた柱は、すべてが彫像で、そのモチーフのすべてがネロがこれまで見たこともないような怪物たちだった。
拝病騎士団の本拠地──そのおぞましくもどこか官能的な媚態を感じさせる怪物たちを見た瞬間、ネロの脳裏に、その言葉が甦った。
これは、まさか、ほんとうに──そうなのか。
意識せぬ戦慄きが、ネロの背筋を走り抜け、肌を粟立たせた。
「マラキーア、フラゴウル、テュバキュロ……どうも、これらはすべて病魔のようじゃな」
それまで影に身を潜めていたメルロが姿を取り戻しながら、核心を突いた。
「わかるのか」
「人類の生き血を糧としてきた我ら夜魔と、病魔王:プレイグルフトをその頂点とする病魔の氏族は、じつは敵対的な関係にあっての。戦ううち詳しくもなる、ということじゃ。それもあって、わしはいっしょに来たのだ」
大事な食料である人類の間に病が蔓延ると困る、というわけでな。人類を食料と表現することに抵抗を覚えるのだろう、メルロのためらいがちの説明に、ネロは感心よりも暗転を感じて像に手をついた。
「それじゃ……確定か」
なるほど、夜魔と病魔の因縁については未知の概念ではあったが、あらためて言われてみれば、たしかに納得のいく話ではある。
しかし、ネロはメルロの口からもたらされた知られざる人類以外の種族間関係よりも、シュクレー修道院と拝病騎士団とが密接な関係にあるという事実に打ちのめされていた。
「ネロ?」
「ん、ああ」
「任務達成じゃ。帰還しようぞ」
メルロに言われてネロは、ようやく己に課せられた任務を思い出した。
「シュクレー修道院と拝病騎士団の関係性を探れ」との命令を、たしかにネロは達成したのだ。
修道院地下にこのような施設がある以上、無関係と言い張ることなどできはしまい。
「し、しかし」
「しかし、なんじゃ?」
一瞬、ネロの脳裏をマチルダの笑顔が、ほほえみがよぎった。
「ま、まだ、証拠が……物証がない」
「それは、今夜か、明日にでも出直してここへ、件の聖堂騎士殿をお連れすれば済むことではないか?」
ネロの未練がましい言葉を、怪訝そうに眉根を寄せてメルロは一蹴した。
それは悪意からなどではなく、ネロ自身を案じたものであり、また単に事実を指摘しただけのことであったのだが、それだけに深くネロの欺瞞を抉った。
ネロはマチルダに事実を知らせることをためらったのである。
シュクレーで育ち、修道院と仲間たちを愛し、信じたマチルダを悲しませたくなかった。
いや、とネロは気がついてしまう。己の本心に。
もはや避けようもなく悲しませることになるのなら──もっと決定的な証拠をオレの手で見出し、真実を暴かなければならない。
マチルダに「仲間を売った」という罪の意識を負わせてはならない、と。
だから、言った。
「メルロ──すまない。武器を出してくれ」
絞り出すように言うネロに、はー、とメルロが大きくため息をついた。
「言い逃れのできん証拠を探すのか」
「そうだ」
「あの娘のためか」
「う、うん」
「おひとよし」
観客席の影にひざまづくカタチで控えていたネロの首筋に、メルロが抱きついてきた。
「どうしようもない馬鹿者じゃ、おまえさまは」
辛辣な評価とは裏腹に、甘く首筋を噛まれた。
「メルロ」
「わかっておる」
言うが早いか、メルロは異能を振い、影の領域に仕舞われていた専用の衣装棚を呼び出した。《シャドウ・クローク》と呼び習わされる夜魔特有の異能のひとつである。いかなる場所・場合においても礼装と正装と盛装を好む夜魔という種族の精神性がよく現われている。
メルロはそこからスモールソードとパリィング・ダガーを取り出してくれた。
スモールソードとは刃渡りが一メテル以上もあって携帯するのにはかさばってしょうがないレイピアのダウンサイジング版だと言えば伝わるだろうか。鍔元に向かうほど幅広の刃を持ち、戦い方としては刺突を主に用いるが、切断武器としても充分に威力を発揮する。
「対病魔用の呪いで括ってある。が、《フォーカス》ではないから《スピンドル》伝導を行えば効率は良くても一撃で砕け散るのは、普通の道具と同じじゃぞ?」
さすがは、病魔を敵対視する夜魔の一族である。対抗用の武具は揃えがある。
いっぽうでネロはといえば、このふたつの武器は宮殿内警護の教練でイヤというほど叩き込まれた技術のおかげで、人並み以上には使える。
武器を受け取り、ネロはメルロに己の胸で眠るチビカミ:ベルカを託した。
「憑依を解いてくれ、ベルカ。メルロ、コイツをたのむ」
「な、なんじゃと?」
これまでネロの無茶な行いを、なんのかんのと言いながら許してきたメルロだが、この発言だけは看過できなかったのか、噛みついてきた。
「どーゆー意味じゃ?」
「いや、だから、もしものとき、ベルカを抱きかかえたままだと危ないだろ」
「憑依を解いたら、おまえさまはただの人間なんじゃぞ!」
「聖堂騎士候補。《スピンドル能力者》」
血相を変えて言い募るメルロの唇を指先でふさぎ、ネロはほほえんで見せた。
「だ、だからといって! ひとりでは!」
「そうじゃなくて──ふたりには取ってきて欲しいんだよ、アレを」
「アレ? アレがいるのか?」
「うん。そんな予感がするんだ。大きな技を振るわなければならない、そんな予感が、する」
決然と言うネロの顔に、メルロはなぜかときめいてしまう。
ずるいぞ、と声には出せない言葉が胸中でぐるぐると駆け巡る。
惚れているのだ。鼓動が速くなってしまう。
「しょ、しょうのないやつじゃ、おまえさまは」
わかったから、ここでまっておるのだぞ。単独行動は許さんからな。と、そう言い残し、憑依を解いてむにゃむにゃと眠たげなチビカミ:ベルカとともに、メルロはこれも夜魔特有の短距離転移能力:《影渡り》で姿を消した。
「さて、と……待っている間に……もう少し調べようか」
ネロはひとりごちると、行動を開始した。
腰にはスモールソードにパリィイング・ダガーを佩き、もうひとつの秘密兵器:遠眼鏡は腰のポーチにしまってある。
これもメルロからの借り物で、遠くのものをまるで目の前にあるかのように見ることができるという優れものだ。
ネロも虫眼鏡なら錬金学の講義で扱ったことがあるが、似たような原理らしい。
呪いでも《フォーカス》でもなく純然たる道具だ。
ネロは不気味な彫像が縁取る観客席を身を低くしながら、U字の突き当たりを目指して進んだ。
進みながら遠眼鏡を使い、眼下に立ち並ぶ巨大なガラス製の円柱を観察する。
「ぐっ。こりゃあ」
そこで目の当たりにしたものを詳細には記述できない。
ひとことで言えば、疫病による無残な死、あるいは変異の証が、その円柱のなかには薬液保存されていたのである。
あまりに残酷で、異質な……それを記録保存し続けてきた連中の正気を疑うような光景だった。
「病こそはヒトを革新の戸口へと導く、きざはし……たしか、そんなことを言ってたな」
拝病騎士団が掲げる狂った理念を、ネロはあらためて思い出した。
「こんなもの、マチルダに見せられるか」
ネロは出所のわからない怒りに突き動かされ、あるいはおぞましくも驚愕すべき核心の持つ魔に魅入られるようにして、その光景を己の脳裏に刻みつけていった。
そして、それはネロが劇場左翼の端に辿り着いたとき、起こった。
見慣れぬ甲冑で武装した一団が、眼下に張り出したステージ──いや、実験場というべきなのか──に突如として乗り込んできたのだ。
その光景に、ネロは息を呑んだ。
驚愕と恐怖に。
数名の男女が、その真っ白で奇怪な兜を頂く集団に捕らえられて連行されているのを見てしまったからだ。
それでも、そこに彼女を見出さなければ、ネロは任務をやり遂げただろう。
マチルダが、いた。
同じく、目隠しされ、荒々しく縛されて。
そして、マチルダッ、とかろうじて声を出すのだけは押しとどめたネロの傍らに、それは現われた。
いや、正確には最初からそこに、たたずんでいたのだ。
異形の甲冑は、異形の彫像のなかに紛れていたのだ。
「やあ。やはり、キミが来たな」
親しげな口調で、くぐもった声が兜の下から響いた。
シュ。がぱり。と気密が解かれるような音を立て、デスマスクを思わせるフェイスガードが押し上げられる。
あらわになった瞳に、どこか淫蕩な光をたたえた女は、待ちかねたという風にネロを呼ぶ。
「わたしは、キミをまっていたんだ。ネロ・ダーヴォラ」
拝病騎士:フレアミューゼルが、そう言った。




