心の属する場所
それ以来、ネロたちは毎晩、まさしく修道院内部を跳梁跋扈した。
いくつもの隠し扉と隠し通路をあばいた。
頻繁な人体解剖の痕跡、蓄えられた武器と火砲、火薬、大規模な最新の製薬施設さえ発見した。
巨大な錬金学装置群だ。
人狼の嗅覚・聴覚に加え、影に潜り込むことのできる夜魔の姫君をして、秘密を隠し通すことはあまりに難しい。
「これは……おそらく麻酔薬の類いだな」
薬剤をあらためながら、ネロが言った。
「麻酔薬?」
「外科的手術の際に、苦痛を和らげる手段さ。ただ、その原材料は……」
「?」
「麻薬の類い、とも言える」
「ッ! では、これが法王庁がおまえさまをここへ派遣した理由というわけか!」
逃亡兵たちを匿い、武器を大量に所持し、麻薬とも取れる薬剤を精製していた──これはもしや、国家転覆の準備ではないのか? そうメルロは言うのだ。
「いや、どうだろうか。この程度のことで……聖堂騎士を派遣するだろうか」
それも国境が危うい、この時期に。ネロは首を捻る。
「なんじゃと?」
「人体研究というのは、じつは各地の修道院でも盛んに行われていることなんだ。教会は、そして修道院は人体に関する膨大な量の知識を蓄積している。罪に問えるかどうかわからない。大量の武器は逃亡兵たちの手によって持ち込まれ、一時的に管理していた。逃亡兵たちに手当てをするのはリンネル派の信ずるところを行っただけ。薬剤調合も修道院に許されている特権だと言い張れないこともない。たしかにこれだけの量と施設だ。露見すれば、一悶着あるだろうが……」
現在、敗走中だという十字軍がシュクレーに到達すれば、必然的にここが対アラム戦争の最前線となる。
そのとき、この地における防衛線の要たるシュクレー修道院に戦力が整っていることは、これは法王庁にとっては利点なのではないか?
差し迫った大きな危機で、すべてをもみ消す方法もある。
それに法王庁からの依頼は「拝病騎士団との関係を探れ」というものだ。
もしかすると、法王庁はこれまでネロたちが調べ上げた情報など、とっくに得ているのではないか。
だとしたら……。
ネロはそこで別の、しかし、いまメルロと話し、推理を進めるなかで意識化されたことを口にした。
単純な事実だが、見落としていたこと。
それがこの修道院の秘密に繋がるような気がしたのだ。
「それよりも、気になることがあってさ。メルロの人払いの結界や、影へ潜る技、それにコレ」
被っていたフードを外し。自らの頭部に生えた狼の耳を摘み上げてネロは言った。
「ベルカのこの憑依能力……これって異能、だよな」
「もちろんじゃ。なんじゃいまさら」
「憑依って、わりと大技ぽくね?」
「あまり使いすぎると己を危うくするほどのな。戻れなくなる」
「! やっぱりそうか。……ベルカ」
「やめようとか、言うでないぞ。いまおまえさまの腕のなかで眠りこけているチビッコの《意志》なんじゃからな。おまえさまがわしらのために命を懸けてくれた。それに報いるのには命を懸けるしかない。その決意を無駄にするのは、許されんことだ」
「わかってる。だから、それは言わないよ。この任務にちゃんとケリをつけよう」
だけど、とネロは話を続けた。
「オレが変だと思うのは、そこじゃないんだ。異能が発動するってことは……ここって、それじゃ、フツーに《スピンドル》が回るってことだよな?」
この世界:ワールズエンデにおける異能の源泉である《スピンドル》は、いわゆる人類世界ではいまいち効率的に働かない性質を持っている。
異界や魔界じみた空間、すなわち人類の敵対者:オーバーロードの所領たる《閉鎖回廊》や、神の代理人たる法王聖下のおわします地:エクストラム法王庁とそこに隣接する都のような聖地以外では、うまく扱えないのだ。
特に大きな代償を求める強力な異能は発動時の事故が、取り返しのつかない惨事を引き起こすことさえある。
うまく軌道が描けない──聖堂騎士団の教本にはそうある。
「ん? そういえば……そうじゃな」
エクストラム法王庁近傍の廃虚を中心に生活してきたネロとメルロであったから、それは染みついた生活感であり、まさに盲点だった。
ぞっ、とネロの背筋に寒気が走ったのは、そのときだ。
異能による救済ではなく、薬理と医療によるそれを実践しようと理念を掲げる教派の本拠地で、異能の源泉たる《スピンドル》がトルクを、唸りを上げる理由は、なんだ?
胸中に黒雲のように湧いた疑念を、その夜、ネロはマチルダの待つ部屋へと持ち帰った。
「ネロ!」
鍵を使い部屋へと帰還したネロに、暗闇でマチルダが抱きついてきた。
部屋に明かりなどない。
ロウソクが支給されていたが、この時代、高級品であったそれを深夜まで灯し続ければ、消費量から生じる疑いがある。
いったいなんのために、深夜までロウソクを灯し続けたのか。
ちびて、消費されたロウソクの本数は誤魔化せない。
それは明確な物証だ。
じつはネロの、それに気づいたのはメルロに指摘されたからなのだが、初日以降、ネロたちは怪しまれない程度にしかロウソクに頼らないことにした。
ネロの帰還とともに、冬の雲に隠れていた月が顔を出した。
ほとんど満ちた月が雲間から光を投げ掛ける。
中天を少し過ぎたそれに、どこからか響く夜半の祈りが寄り添う。
さすがは修道院の施設ということだろう。
小さなガラス板を幾枚か格子にはめこんで作られた窓から、青ざめた光が差した。
「ご無事で」
任務の達成よりも、まずネロの身を案じてくれるマチルダに愛しさを感じながら、ネロも彼女を抱き返した。
「どうでしたか?」
胸に埋めていた顔を上げ問いかけるマチルダの瞳が月光に濡れている。
「ああ。たしかにいくつか、問題だと指摘できるところはある……あるんだが……こんなことを調べろとは言われているわけではない気がする」
ネロは簡潔に、これまでの調査結果を報告した。
夫婦の語らいを装うため、ふたりは抱擁したまま話を続ける。
マチルダは真剣にそれを聞き取り、言った。
「現在の状況を考えれば、すべてご理解いただける範疇のものだと思います」
ヴェルジネス一世法王猊下には、と。
「あと手を入れてないのは……傷病兵たちのいる病室と修道院長の私室くらいか」
「院長先生の部屋は、わたし、頻繁に出入りしていましたけれど?」
マチルダがネロを見上げて言った。
「頻繁、というのは? どれくらい?」
「むかし、熱を出して寝込む度に、ずっと院長先生のお部屋で看病してもらっていたんです」
ネロは思わず驚きを表情に出してしまった。
ドロシーから聞いたマチルダの過去には、意識して触れずに来たからだ。
「隠し通路の類いが、もしあるのならどこかで気がついたと思います。だって、ほとんど住んでいたようなものですし。えへへ……わたし、探検好きなんです」
ネロの驚きの意味をマチルダは別のものと理解したのだろう。見解を述べた。
「お転婆娘だったってこと?」
「んもー、だから、それはちいさいときのおはなしで!」
「まあ、図面と照らし合わせるとこの場所に、あとから隠し通路を増設するのはムリがあるしな」
マチルダの幼少期の記憶とその後の時間の流れのなかで、増改築された可能性を検討していたネロは図面を月光にさらしながら言った。
「今日もお邪魔しましたけれど、昔のままでした」
「なるほど」
ネロは頷いて見せる。
隠密行動を担当するネロは、これまでマチルダには余計な情報を渡さなかった。
もちろん緊急度・危険度の高いものは別だが、それにはマチルダの持つ「修道院の好意」を最大限活用してもらおうという思惑があったのだ。
ヒトにはどこかで自分たちに否定的な存在を察知する《ちから》があると、ネロは経験から知っている。
どんなに装っても、それはどこかに徴となって表れる。
だが、逆に自らに本当に好意的な存在には、ヒトは胸襟を開き、秘密を共有しようとしてくる。
それが人間の性質であるのか、“秘密”自体が持つ特質であるのかまでは、さすがにネロにもわからない。
わからないながらも、経験則として知ればこそ、ネロはマチルダをあえて純真無垢なままに留めたのだ。
実際、そんなマチルダに修道士たちはこの一年での変化を、自ら進んで教えてくれる。
マチルダが馴れぬ捜査官の真似事をするよりも、にこにこと微笑んでいるだけで得られる情報のほうがよほど価値があった。
後ろ暗いところを調べよう、探り出そう──というのは“疑い”に属しており、共有しよう、互いの空白を埋めあおう──というのは“親愛”に属している、ということなのだろう。
そして、この夜、ネロはマチルダに告げなかった。
あるいは告げ損なった。
決定的な事実:《スピンドル》のことを。それがこのシュクレー修道院でなんら支障なく働く、ということを。
明日にしようと、思ったのだ。
もうすこしだけ、と思ったのだ。
そのとき、ネロの心は、いったいどこに属していたのだろうか。
いまだに、わからないのだ。




