暗がりで
「どうでしたか」
法王庁では終課となる夜の祈りを終え、ふたりに与えられた個室に戻ったときマチルダが隣に座って尋ねてきた。
「まだ一日目だし……どうとも、断言できないな」
ブドウ園での奉仕活動以来、胸のなかに生じたあの違和感を、どう言葉にすればいいのかわからず、ネロは言葉を濁した。
「わたしのほうは、昔のまま、いえ、一年前よりさらに医療技術には進歩があるように思えました。新しい処方箋がいくつか加わっていたし」
「オレも、じつは午後からすこし見学させてもらったんだ」
特に傷病兵たちを中心に治療している区画を。ネロはその様子を思い出して言った。
「おどろいたよ」
「あら、わたしもそちらにいたんですよ」
「こっそり、見てた。マチルダの看護服姿を、こう、ばっちり。大きな看護帽が、かわいいな、あれ」
ネロの混ぜっ返しに、マチルダはたちまち両頬を染め両手で覆う。手の平で熱くなってしまったそこを冷やすように。
「働くマチルダは美しいなって、思った」
「こ、困ります、ネロ」
ネロから送られた賛辞をうれしく思いながらも、衝動のまま身を寄せることをためらってマチルダは困っていたのだ。
ここが宿坊であることをお忘れなく──個室に案内されたとき、案内役の修道士からネロとマチルダはやんわり釘を刺された。
『おふたりは夫婦であるから同衾を禁ずるほど野暮ではないが、それ以上はご遠慮ください』
とまあ、注意に含まれていた意味をひらたく訳せばそうなるのだろう。
マチルダが困る、というのはうれしさと愛しさが募り高まりすぎて、自分でもどうなってしまうかわからないという意味だ、とネロは了解した。
たしかに、それはいろいろまずい。
この部屋は個室ではあったし、鍵はかかるのだが……扉には大きく窓が切られている。
格子もなければ視界を遮るためのフタもない。
やましいところがないのなら、隠す必要はない。そういう精神のもと、シュクレー修道院の扉の多くはこのように大きい窓を備えている。
見回り、というような監視的発想は修道士たちにはないようだが、大部屋のような場所で複数の巡礼者が一緒になると、それでもときおり諍いが起こる。
そのような事態が起こっていないか、予兆はないか、見守るというようなことは、これはありえた。
若い男女が個室に、となれば、それはまた別の修道院的な風紀の問題もあろう。
それでも、まあ、ことに及ぶ衝動的青さというのは、きっとあっただろうけれど。
実際、ネロもこれが潜入任務でなく、マチルダとの関係がまっすぐな意味での夫婦であるのなら、わからなかった。
燃えてしまうかもしれない。
一瞬、脳裏を駆け巡った不埒なセクシャル・ファンタジーを押しのけ、ネロは思考を潜入捜査官側に呼び戻す。
オレが溺れてどうする。
ネロがマチルダに送った「美しい」という賛辞は心からのものであったが、同時に話の矛先を逸らすためのものであったのだ。
すなわち、ネロはこの時点ですでに、シュクレー修道院に満ちる違和感をなかば確信的なものとして捕らえていたということだ。
なにかある、と。ここにはなにか、公にはできない秘密がある、と。
ただ、それをマチルダに告げることがうまくネロにはできなかった。
確たる言葉として、なにを指摘すればいいのか、まだネロにもわからない。
問題はそれだけではない。
この地に赴くとき、マチルダはたしかに言った。
「シュクレー修道院、リンネル派の無実を証明したい」と。
だが、ネロの勘は真逆だと告げているのだ。
一度、心に生じてしまってから、どうしても振り払うことのできない疑念。
そう──ほほえみの意味。
外れてくれ、とネロは思う。実際、取り越し苦労であってくれ、と思う。
けれども、無実を願うことと、無実を確認することはまるで別のことだ。
確かめるまでは、そして、決定的な事実を掴むまでは、憶測でマチルダの心を乱したくない。
それもまた都合の良い《ねがい》のカタチだとネロは知っている。
知っているが──マチルダの笑顔を乱したくない。
さいわいにもマチルダは、ネロの感じた違和感には気がついていないらしい。
昔と変わらない、とさえ言っていた。
つまり、この違和感は外部の人間であるネロにしか感じられない種類の奇妙さなのだ。
だからこそ、いま不確かなままの違和感を口にすることは、捜査の切先を鈍らせることに繋がるかもしれない。
マチルダのなかにある「シュクレー修道院の無実を信じたい心」をネロは恐れたのだ。
「いままでどおりのシュクレー修道院の空気だ」とマチルダは言った。
その「いままでどおりの日常」に、自分だけが違和感を感じられることの意味を、ネロは無意識的にも了解していたのである。
そして、ネロの違和感を感じる心は、正解を引き当ててしまう。
すでに五日目の晩だった。
ネロは毎夜のように、修道院の灯の絶えた施設を探索した。
柱の影、彫像の影、あらゆる影を我がものとして疾駆した。
燭台を、灯を、ネロは必要としない。
なぜなら闇と月の側の眷族の加護が、ネロにはあるからだ。
ひとりは、もはや説明の必要もないであろう──夜魔の姫:メルロテルマ。
もうひとり、いや一匹は、人狼の娘:ベルカ。
ネロはそのベルカの《ちから》を憑依させることで、狼の目と嗅覚を借り受けることができる。
そのかわりにネロに《ちから》を憑依させたベルカは深い眠りに落ちてしまうのだが。
これはかつて、月下騎士:バルベラとの戦いでネロを救ってくれた異能の、その応用である。
こんこんと眠り続けるベルカを、赤子を抱くのに使う帯のなかに入れて、ネロは同伴した。
半人狼とでも呼べる状態に、いまのネロはある。
「これっきりにしたいもんだけど」
夜陰に乗じて修道院の秘密を探るネロに、協力を申し出たのはメルロとベルカの方からであった。
「わ、わしらのために戦ってくれておるわけだしっ」
と、そう言って。
初日の晩、探索行に赴こうとしたネロは暗がりで袖を引かれた。
「むぐわっ」
不覚ッ?! 思わず上げかけた無様な悲鳴を柔らかな掌に塞がれた。
「メッ、メルロなのか?!」
「ほかにだれがあると思うのか、おまえさま」
スズの燭台が奪い去られ、ロウソクの灯が消えた。
「み、見えない」
「わしにはよく見えておるよ。それにこんな暗闇でロウソクを灯しておるなど、見つけてくれといわんばかりじゃないかえ」
暗闇のなか、愛しいものを求めるようにメルロの指が蠢くのが肌に感じられた。
「ちょっ、ひ、ヒトが来ちゃうっ。見つかっちゃう」
と、うわずってウブな乙女みたいな声をあげてしまうのはネロの方である。
「あーんしーんせーい。人払いの結界じゃ。よほどの大物か、鈍感でないかぎり見つからんよ」
「声がっ、声が出ちゃうっ」
「それも遮断する。よいのだぞ、鳴いても」
なんだろうか、今晩のメルロにはちょっとサディスティックな魅力があった。
自分のなかにイケナイ感じの資質みたいなものを見出してしまって、ネロは動揺してしまう。
「あ、あのっ、メルロっ、ご、ごめん」
ネロはメルロが不実を責めているのだと判断して、反射的に謝ってしまう。
不実とは他でもないマチルダとの関係だ。
「んー、なんのことかなー」
壁際に追いつめられたネロの首筋を、膝によじ登ったメルロの唇がいくども吸う。夜魔ならではの芸当だ。なかば肉体を影の側に置くことで、ネロにかかる負担・自重を軽減しているのだ。
「しっ、知ってるくせにっ」
「あー、見ておったし、聞いておったよ。ぜんぶなああああ」
ひいっ、とのけ反らした喉からネロが漏らした悲鳴は、戦慄と甘美とに彩られていた。
「ご、ごめんなさいっ」
「よいさ。かわりに、いまからここで、もっと可愛がってもらうから」
「えっ、いやっ、それはっ、任務がっ」
「ここでの半刻あまりなど、おつりがくるくらい、わしが協力してやると言うておる」
「あっ、あっ、ああああああ〜〜〜〜〜」
というかんじで、場面は一度暗転……するまでもなく、真っ暗闇であった。
なるほど配慮の行き届いた場面である。
想像等がたくましくなってしまうかもしれない。もうしわけない。
「こっ、これっ、あ、跡になってないよなっ」
「しらんわい」
なにやら、当面の不満を解消したらしくツヤツヤの肌でメルロがそっぽを向いた。
「マ、マチルダにバレちゃう」
逢引がバレては困る良家の娘さんのようなことをネロは言う。
「そーんなにあの小娘が大事か」
「いやっ、あのその」
いいわけを口に使用とした瞬間、首筋を噛まれた。わりと、強く。
「乗り換えようとか、そういうのか?」
「ちっちがっ、絶対、ない!」
唐突に切り出された質問に、ネロはまた反射的に答える。いまのは結界が効いていなければ修道院中に響きわたるような大声だ。
数秒。メルロの吹き出し笑いが、緊張に固まったネロの頭上から降ってきた。
「わかっておるよ、おまえさまが、わし気にかけてくれていたことは」
マチルダの目を盗むように、戸棚の奥やベッドの下を覗き込んでいたネロを、メルロはやはり見ていたのだ。
「ほんとに、ほんとーに、ごめんっ」
マチルダの告白を断れなかったことをネロは正直に謝罪した。
「まー、正直言うと、妬けた。もうどうしようもないくらい、狂うのではないか、と思うほど妬けた。目の前で心底惚れた男と別の女の情事を見るというのが、どんなにクるか、よーくとわかった。初体験じゃ」
「ご、ごめんなさい」
「ただ、の」
ネロにはまだ輪郭くらいしか見通せない暗闇の帳のむこうで、メルロが広げた笑みはどこか諦めたような寂しさをまとわせていた。
「ただ?」
「もし、昨日の晩、おまえさまがあの娘の告白を拒むような男であったなら、逆にわしは愛想を尽かしておったかもしらん」
「え?」
「あれはほとんど悲鳴じゃ。たすけてください、という。ベルカもそうじゃったろ。わしも、そうじゃ。おまえさまに、たすけて欲しくてすがってしまった。わしにはマチルダの心がわかりすぎるほど、わかる。わかってしまったから──憎めん」
だから、おまえさまにもっと愛してもらうという復讐しか、わしには思いつけなんだ。
笑みを広げてメルロが言う。
伯爵家での冷えきった結婚生活に耐えきれず出奔した夜魔の姫君。
下級貴族の娘として生まれ家に縛られ、恋を夢見て人狼に成り果てた娘。
修道女として暮らしてきた敗残の没落貴族であり、己の双肩には重すぎ危険すぎる聖務を負わされた聖堂騎士。
それぞれの境遇と種族は違っても、ネロという男に居場所を求めてしまった娘たちの想いはどこか相似なのだ、とメルロは言ったのだ。
「おまえさまに面倒を押し付けているのは、わしらのほうなんじゃぞ? それをおまえさまは、いつも受け止めてくれる。ほんとうは、この探索行も──強請られたのではないのかえ?」
マチルダは切り出さなかったが、ネロを強請るというカードをきっと法王庁は用意していただろうと予測はつけていた。
そんなネロの心中をメルロは見抜いていた。
「そんな……面倒だなんて……オレは一度も思ったこと、ない。受け止めるとか……そういうんじゃない。いっしょにいたいって思ったら、こうするしかなかったってだけだ。」
「しっとーっる! そんなだから、おまえさまはいつも貧乏くじを引くんじゃ。もっとズル賢く立ち回ればよいのに!」
でも、だから、ネロ──それから先をメルロは言わなかったし、ネロには言葉を発する権利さえなかった。
塞がれたのだ。唇で。唇を。
「おまえさまは、わしと妹:バルベラ、そしてベルカと人狼の騎士:カダシュをを守るために、あの日、スパイラルベイン本営にたったひとりで出頭した。その意味がわからんほど、わしはアホウではない」
だから、こんどは、ひとりでは行かせない。メルロのその言葉に、ネロはまた泣いてしまいそうになる。
「ありがとう」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
甘やかされている、とマチルダは己を恥じたが、その理屈だとオレは自分で穴を掘って丸まらないといけないレベルだ。
ネロはそう思う。
「半人前同士とはいえ、夜魔の姫に仮免許の聖堂騎士、そこに人狼のチビッ娘プラスじゃ」
月下騎士ひとりくらいなら、五分に渡りあえる戦力じゃぞ、これは。請け負ったメルロをネロはかき抱く。
ふふんっ、とメルロは満足げに鼻を鳴らし、けれども指摘した。
「おまえさま。たいへんうれしいんじゃが、そろそろいこうか。ここでもう一戦でも、わしはかまわぬが、それではあの娘に言い訳がたつまい?」
そのひとことでネロはいろいろと仕舞い込みながら、任務に戻ったのだ。