ほほえみの意味
気持ちの良い連中だ。
数刻ごとの礼拝と、傷病者たちの世話をこなす合間合間にマチルダを訪れてくれる修道士・修道女たちの姿を見て、ネロはそう思う。
「そう、エクストラム近隣で、ワイン農家を……法王庁にもワインを納めてらっしゃるのね」
カバーストーリーによって捏造されたネロの経歴を疑いもせず、修道院長:ドロッセルマイヤは頷いて見せた。
「はい、ドロッセルマイヤ修道院長」
「ドロシーでけっこうですよ、わたくしも、ネロと呼ばせていただきますから」
「では、ドロシー」
「はい、ネロ」
小柄だが恰幅のよいドロシーは、背筋をしゃっきりと伸ばして笑った。辺境とはいえこれだけの規模の教区と施設を任されるのだから、おそらく、それなりの年齢には達しているはずだ。
頭髪はすでに灰色になっていたし、顔にも手にも刻まれたしわが、それを物語る。事前情報として当然のようにその経歴を熟知しているネロだったが、相対した彼女はイメージのなかのそれより、かくしゃくとして、若く見えた。
きっとそれは姿勢のよさからも滲み出る意志の力による。
「ブラドベリ枢機卿に見出されて──正直どうなることかと気を揉んでいたのですが……よかった。あなたのような素晴らしい方と結ばれたのなら、ほんとうに」
イダレイア半島におけるリンネル派の最大拠点であるシュクレー修道院長として、これまで毅然とした雰囲気をまとっていた彼女が、娘の幸福を見届けた母親のような笑顔になり言うのを、ネロは感慨とともに見守った。
新たに法王領として編入されたイグナーシュ王国は、教区の長としてブラドベリ枢機卿を頂くこととなった。
辣腕家で知られる彼は、イグナーシュ再建の要として旧イグナーシュ領の住民たちのなかから見出された者たちを法王庁の職員に、あるいは従士隊に採用する施策を採ってきた。
人的資源以外のことごとくが枯渇状態にあったイグナーシュであるから、これは現実的な救済策と見られる一方、諸外国からは救済を口実とした事実上の戦力強化策ではないかとの指摘も数多く寄せられた。
オーバーロードの所領たる《閉鎖回廊》。そこからの生還者には、稀に《スピンドル》発現にいたる者が現われる。
それを知る法王庁とブラドベリ枢機卿による一種の青田買い。囲い込みではないか、という話だ。
売血奴、と彼を揶揄する声がエクストラムでさえあり、よくない噂もある。
そこへ見出されて行ったマチルダの一年を、ドロシーだけではなく多くの修道士たちが気に揉んでいたというのはもっともな話だ。
そこにマチルダは帰ってきた。伴侶を連れて。安堵のほどもわかろうというものだ。
だが、実際にマチルダは、ほんとうは《スピンドル能力者》として覚醒した聖堂騎士である。
それも、このシュクレー修道院を探るために派遣された。
ネロはドロシーの言葉に、どう答えてよいものか、一瞬、返答に詰まる。
その目尻に光るものを見つけてしまったからだ。
「素晴らしい、と言われると……恐縮するしかないんですが」
「手を見たらわかる。これは、働き者の手。毎日毎日、土をいじり、ブドウの世話をしてきた手」
ネロの手をとり、何度も潰れてもう硬くなってしまったマメをひとつずつ触りながら、ドロシーはネロを評価するのだ。
それは実際には半分は当たり、半分は外れなのだが、もちろん訂正するバカなマネをネロはしない。
ただ、実際に彼女ら修道士たちと正対するにつけ、己がこの任務に抜擢された理由をより深く理解した。
手にはヒトが出る。この時代では特に階級が、如実に。
どんなにカバーストーリーを捏造しても、肉体に現われた印はごまかせない。
知識と技術と経験は、混同しがちだが、まったく別のものだ。
ワイン農家だというネロの偽りの肩書きは虚構だが、ネロがワインに心血を注いできた時間はそれを裏切らない。
「ほんとうによかった」
そこから、ネロのひととなりを読み取ったのだろうドロシーがにこり、とまた笑い、ため息とともに言った。
「病弱だったあの娘が、あんなに元気になって、こんな立派な旦那さまのところに嫁げるなんて。還俗をお許しくだされた法王さまの御心に、感謝を」
「びょう……じゃく?」
祈りの言葉で締めくくられたドロシーのセリフに、ネロは思わず取りすがった。
いま「病弱だった」と彼女は言ったのか?
あの太陽のように明るく笑うマチルダが? ついさきほど、元修道女とは思えないお転婆ぶりで長椅子を飛び越え、ドロシーに叱られたマチルダが?
「ええ、ええ。むかしはよく、熱を出して、わたしがつきっきりで看病したものです」
「初耳です」
「もしかしたら、わたくしは、余計なことを申しましたか?」
花嫁の過去を軽々しく話したことを、ドロシーが心配した。健康である、ということは農家の妻にとってなによりも重要な要素だったからだ。
「とんでもない。逆で。ますます、大切にしなければならないと感じました」
ネロの言葉は心からのものだ。
その嘘偽りのない言葉と表情に、ドロシーは安心したという顔をする。目尻に寄ったしわが相応の老いと、マチルダへの想いを表している。
ネロは食堂の長机の向こう側の端で、昔なじみと談笑するマチルダに視線を移す。
ドロシーも自然と、それにならう。
愛を得たしあわせに内側から光を放つように、昔話といまの自分たちについての話題に花を咲かせるマチルダには、もはや幼いとき彼女を苦しめたという病魔の影はどこにもない。
だから、ネロはこの話題を深く考えもせず流してしまったのだ。
よく考えるべきだったのである。
ここが、どこで、なんのために自分たちは赴いたのか。
聖務と、エクストラム法王庁が、ふたりを差し向けたほんとうの意味を。
修道院への滞在許可を得るため試問も兼ねていたドロシーとの会談を終えると、荷物を宿坊に納めたふたりはさっそく修道院の仕事を手伝うことにした。
奉仕活動である。
「それじゃ、ネロ。昼食までのお別れです」
かつての仲間たちに混じり、施療院の手伝いをするというマチルダとネロは別行動をすることになった。
ブドウ畑での仕事である。
冬のブドウ畑になんの用事があるのかといぶかしむ向きもあるかもしれないが、これがあるのである。
剪定。つまり枝落としだ。
冬のあいだに余分な枝をばっさり落とすことで、来期のブドウの質が向上する。
ふしぎかも知れないが、これが事実だ。
伸び放題にされた枝と、こうして毎年、剪定されたそれとでは愕然とするほど出来がちがう。
もちろん重要な部分は残さなければならないから、切ればいいというものでもない。
見極めには熟練が必要だ。
人間と同じで、ブドウもしっかりと手をかけることが大切だ。
もちろん、甘やかすのと、手をかけるのは、似ているようでまったくちがう。
最良のワインを生み出すことは、だから難しい。
こうして剪定された枝も無駄にはならない。
細いものは乾燥させてカゴの材料に。
太いものは、やはり同じく乾かしてから薪に使う。
これで焼かれたソーセージや肉塊は素晴らしくよい香りで、貴族たちのなかにはこぞって買い求めるものもいるという。
無駄などない、ということだ。
「さすがだ。教えることなんてない、というか、オレたちがならわなくちゃ、だな」
同じ列で仕事をしていた修道士のひとりがネロの隣にやってきて手際を褒めた。
「そんなことはない。これほど手入れされ、長年愛されてきたブドウ畑なんて……法王領のなかでも、そうそう並ぶものがないんじゃないか?」
修道院の南側の急斜面は段々畑になっていて、そのすべてがブドウ畑だ。
水はけがよく、日照時間の長い、風の吹く土地が理想のブドウ園の立地として、ここは最高だ。
人間が働く環境としては過酷だが、なるほど北限に近い品種がここでなら育つというのもわかる。
「樹齢でどれくらいなんだ」
「ここらの樹はもう四半世紀は確実だよ。三十年とか、下手すると五十年選手もいる」
「脱帽するしかない」
同じワインとブドウ畑を愛する者同士、打ち解けるのは早い。
「ずっと受け継がれてきたんだな」
己の年齢より年上の木々たちに、文字通り脱帽して敬意を示したネロに、同い歳だという修道士が思うところあり気な微笑みを浮かべて、その根元を指さした。
そうでもない、と。
どういうことだ? ネロは足下を見る。
そこにはブドウの根があり、幹が伸びて……。そこでネロは気がついた。
「あれっ? これ、接ぎ木か? もしかして」
ブドウの樹について知らなければ見落としていただろう古い接ぎ木のあとが、そこにはあった。
いくつかの植物と同じで、別の個体の根に別の枝を継ぐことで──つまり傷口と傷口を合わせるカタチでブドウは再生する。
「これ……」
「グラン王の時代のことさ。たちの悪いブドウの伝染病が流行った。感染した樹や根を焼却したりして拡大を防ごうと農民たちは努力したが、ブドウを枯らすその病はとどまることを知らなかった」
王国内のブドウ畑が全滅、いや、それどころか国外にさえそれが広がるかもしれない危機があったのだ、と若き修道士は教えてくれた。
「根瘤病か……」
うん、と頷いた修道士は続ける。
「そのとき、原因を突き止め、恐ろしいブドウの疫病の拡大を阻止したのがこのシュクレー修道院なんだ。予防法に加えて、グラン王が夢のお告げによって持ち帰った古き神話のブドウの根に、それまで育てていたブドウを接ぎ木する方法を見出したのが、オレたち、リンネル派の修道院なんだ」
ブドウの根を汚染し、まさしく根こそぎダメにしてしまう根瘤病は、ブドウ農家にとってまさしく最悪の病気だ。
感染したブドウを根こそぎ焼却することで感染拡大は防げるが、発見が遅れれば大惨事になる。
さいわいにも、ネロはこの病気に遭遇したことはなかったが、錬金学の過程で学んで知っていた。
「ここで感染拡大を食い止めてくれてなかったら、イダレイア半島のブドウは全滅だったかもな」
はるか南に広がるという暗黒大陸から伝播したという噂さえある病だ。
ネロは修道士の語りに、深い感慨を抱いた。
「ま、オレが成し遂げたわけじゃないけどね」
「謙遜の徳」
「うるさいやい」
気の良い修道士に軽い冗談で返したネロは、同じ調子ですこし話の矛先を変えてみた。
「ところで……ずいぶんと、傷病兵が流れ込んでるみたいだが……」
「ああ。気になるかい」
「そりゃ、まあ、その……」
「いくら本人たっての願い、一週間の期限付きとはいえ……帰還兵の施療助手を新妻がする、というのは夫的には気が気じゃないか、やっぱり」
ネロの心中をずばり、と言い当てて修道士は言った。
もちろん、任務のことがある。情報は引き出せるだけ引き出したい。
だが、それ以上にネロは、マチルダを案じていた。
「正直言うと、そうだ」
「わかるよ」
よくわかる、と頷いて修道士は続ける。
「オレも最初は、反対だったんだ。いくら民衆のために奇跡に頼らぬ医療を確立・伝導しようというのがリンネル派の理念だといっても……」
逃亡兵相手の施療はなあ。ぽつり、とつぶやいた修道士の言葉をネロは聞き逃さなかった。
「やっぱり、そうなのか」
「黙っていてくれよ。逃亡兵を匿っている、ということが露見するだけでも危険なのに……根も葉もない噂だってあるんだ」
「……修道院が逃亡兵たちを取り込んで戦力を増強しつつある、とかそういうやつか?」
「しー」
指を立てて沈黙をうながす修道士に、わかったと頷きネロは口を閉じた。
なるほど、と別の意味で心中でもう一度、頷く。
いまの問いかけはネロのあて推量、いわばカマをかけたに等しいものだったのだが、どうもこちらも核心を突いたらしい。
逃亡兵は、動乱のたびに問題になる戦争の後遺症のようなものだった。
敵前逃亡や、敗戦によって逃げ出した兵が、帰隊することも故郷に戻ることもできず、食い詰めて野盗化する。それがしばしば騎士崩れなどど合流して、徒党を組み近隣の村々を襲う。
だいたいにおいて、この時代の戦争の主流であった傭兵たちは故郷での生活より戦争を選んだ者どもだ。どういう理由で芝を投げたかわからないが、帰る場所を持たぬ者が多かった(※注・芝を投げる、とはこの時代の傭兵契約の遠回しな詩的表現)。
戦争は、殺しは、ヒトの心を間違いなく荒ませる。
王や騎士たちが大義・正義の御旗を欲するのは、名誉の前に、もしかしたら殺人のための免罪符をあらかじめ得たいがためなのかもしれない、と思うことがネロにはあるほどだ。
しかも、逃亡兵たちはいわば負け犬なのだ。
戦列を放棄して逃げ出したという負い目と戦場での体験、そして身体に残る傷と後遺症が複雑に絡み合って、心をねじ曲げる。
ネロは悪友であり、十字軍から負傷兵として帰還したグレコのことを思い出す。
昔からコウモリなどと呼ばれて調子のよい日和見戦術で世間を渡ってきた男だが、やはり、戦争の傷跡は確実にグレコの身体と心に影を落としていた。
そんな男たちのなかに、マチルダが混じったとき、どんなことが起こるのか。
本当の意味ではまだ自分の伴侶ではないにも関わらず、言い知れぬ焦りが腹の底に湧いてくるのをネロは止められない。
「だが、安心してくれ、ネロ」
そんなネロの気持ちをなだめるように、修道士が請け負った。
「おまえが心配するように、やってきたばかりの逃亡兵たちは身体と心にどうしようもない傷を負って、病んでいる」
けれども、と続ける。
「けれども、ウチの施療院で治療を受けると、一週間も経たずに明るく心を開いてくれるんだ。どういうわけかな!」
にこり、と微笑みかける笑顔に、ネロはこのときはじめて違和感を覚えた。
なにか、この話にはおかしなところがある。
それから、もうひとつ。
この微笑みには、憶えがある。
どこかで。
けれどもネロがこの違和感を意識化し、はっきりと指摘できるようになるのは、もっとずっと先のこと──すべてが佳境に入ってからのことだ。




