故郷
谷にかかる大きな石橋を渡って民衆はシュクレー修道院へと向かう。
古代文明であるアガンティリス期の水道橋なのだというそれは、驚いたことにいまだ現役で、街の対岸の丘にそびえる修道院へと、水とヒトとを運ぶ役目を果たしていた。
「凄いもんだな」
考古学にはあまり興味のないネロだが、数千年も昔に歴史の側に過ぎ去った文明の遺物が、いまだにこうして現役であることには畏敬の念を抱かずにはいられない。
「それどころか、わたしたちがいままで通ってきた街道も、遺跡であるといえばそうなんですよ」
隣の座席に座るマチルダが教えてくれる。
「そうか。そういえばそうだったな」
街中を掘り返すと必ず遺跡に打ち当たるエクストラムに暮らしていると、どこか麻痺してくる部分もあるのだろう。指摘されてネロは、なるほどそういえば、と感心した。
「ウチもそうか」
密造蔵も遺跡群のなかにあるのだから、よけいかもしれない。
ふふふ、とちいさく笑ってマチルダが身を寄せてくる。
その笑顔には、昨日までの聖堂騎士とその従僕としてのスパイラルベインという線引き、頑なさはもうない。
恋することを許された女、それも初恋を成就させた娘の瞳をマチルダはネロへ向けてくる。
そのあまりにまっすぐな恋心に、ネロは年上なのにドキドキしてしまう。
そんなだったから、ふたりの様子は、どこからどうみても相思相愛の新婚夫婦にしか見えなかっただろう。
「だんな、朝からあんまり見せつけられると、困りまさぁあ」
ネロたちが乗る荷馬車の横を歩いていた男のひとりがそんなふたりを冷やかした。
けれどもそれは、冷笑的なものではなく、むしろ仲むつまじい新婚の様子を祝福するような温かさがあった。
見れば帽子をかぶり、赤味のさした頬にわし鼻の先端も同じく染めた気の良い農夫丸出しの男だった。
「どちらからあ?」
「エクストラムです」
答えるネロに、男は目を見開いて大仰なしぐさで返した。
「あれまあ、この季節に! よりによって、こんな大変な時期に」
前半は厳冬期に旅をする酔狂具合に、後半はまだ遠く響く軍靴の音ではあってもすでに肌に感じられる大戦乱の予兆を言っているのだろう。
「女房が、ここの修道院に縁がありまして」
「あー、あー、リンネル派の。そういえば、法王様の庇護にはいったとき、いくにんか、教会のほうへ。そっから戻られたんか」
男の言う教会とは、法王庁のことだろう。そして、戻る、とは帰郷するという意味と還俗──すなわち、僧職から俗界へ戻ることを意味しているのだろう、とネロは情報を補正しながら話を聞いた。
「よかったねえ」
のんびりと話す男の横では、同じく初老の女がしわの寄った顔に人懐っこい笑顔を浮かべている。
「それにしたって……大荷物じゃないかあ」
農夫がネロの操る荷馬車の荷台に積まれた樽を指しながら言った。
「寄進かね? 向こうからだと、オリーブ油かね?」
「いいえ。こいつはワインです」
「ほ! エクストラムのワイン!」
ネロたちがさっさと修道院に入らず宿で数日を過ごしていたのは、作戦行動前の調整のためだけではなかった。
イダレイア半島をぐるりと回り、河をさかのぼる水運によって届けられた贈り物としてのこれを待っていたのだ。
陸路でも届けられないことはなかったが、石畳の上をがたごとと揺すられ長旅をしたワインは味が大きく変わってしまう。落ちつかせるのに二ヶ月もかかることがあるほどだ。
樽のなかでもそれほど大きくないこれひとつで、ワインとの合計重量が三〇〇ギロスを優に超えるのだから、新婚旅行のお供というにはすこしばかり大物すぎる。
「ミサ用かねっ?」
隠しきれない好奇心と都会からの珍しい味覚をご相伴にあずかれるかもしれないという期待感を隠そうともせず、農夫が訊いてくる。
あっはっはっ、と横で笑う妻君のあけっぴろげな態度にも、ネロは好感しか抱けない。
「少しでも寄進の足しにと」
「じつは、わたしもワイン農家でね。もっとも、地ワイン専門だが」
長く続いたイグナーシュ動乱の時代も、シュクレー修道院による統治が続けられていたこの地方では古くからのワイン農園が残っていたのだ。
ワインの原材料であるブドウは、芽が出てから三年ほどで実を結びはじめる。だが、そういう若い樹の実は、ワインになるにはまだ実力不足だ。
しっかりと根を張り、現役となるのにそこから数年、ほんとうの実力を発揮しはじめるのは二十年かそれ以上。
人間が大人になるのに等しい時間をかけて、ようやくブドウはワインとなるに足る資格を獲得する。
基本的にはワインが貴族の飲み物であったこの時代に、民衆たちが気楽に地ワインを口にできたのは、この古くから伝わる畑が失われていなかったことに加えて、降臨王:グランが行った改革にあった。
すなわち、身分差による酒の区分の廃止である。
もっとも、そののち王位についたガシュインはこれを撤廃、掌を返すのだが……ここシュクレーは様々な要因が重なって、グラン時代のゆるやかな法がいまだに生きていた。
旧イグナーシュ王国の民衆にいまだグランが支持され、その方針を守り続けたシュクレー修道院が親しまれている理由のひとつである。
「どうです、一杯」
同じワイン農家──いや、ネロは密造者だが……として感じるものがあったのだろう。同好の士特有の気安さで持ちかけたネロに、農夫は相好を崩した。
「おっ、いやあ、こりゃあどうもどうも。まずいなあ、礼拝前に」
と、いちおうは世間体に気を使いながらも、差し出された素焼きの杯に口をつけた男は専門家らしく唇をすぼめて、空気を含ませた。
「ん、ほー。かわっちゃいるが、こいつはいい醸しだね。んー、うちのと比べるとちょいと薄いか?」
「まだまだ勉強中です」
妻君に残りを渡しながら男は何度も頷いてみせた。もしかしたらここ数日、ネロたちが口にしていたあの濃い赤ワインはこの農夫の醸しだったのかもしれない。
「だけんど、この酒にはちゃーんと“心”がある。わかるよ、わしにはわかる」
そう言う男の後ろで、同じく杯を受け取った妻君が、同じように頷くのが見えた。
男の言葉を世辞と取ることもできた。
遠く、エクストラムからわざわざこの辺境に出向いてきた酔狂な新婚夫婦への。
ただ、郷土に──土地と畑への愛着を強く持つ農民たちが、他の土地・畑で育てられ醸されたワインを手放しに褒めるのはとても珍しい。
ネロはこれまで、このシュクレーで営々とワインを造り続けてきたであろう一族の、その現在の主から告げられた評価を素直に受け取ることにした。
ワイン談義に花が咲き、気がつけばあっというまに修道院の門に辿り着いてしまう。
巨大な格子戸を備えた門構えは、まさに城塞というのがふさわしい。
入るときよりも、出るときのほうが大変かもしれないな、とネロは観察していて思う。
地域住民はすでに顔見知りばかりだから修道院側の対応も、ほとんど顔パス状態だ。
「さきにいっとるよ」という農夫夫妻と別れ、ネロたちは巡礼者としての記帳と寄進としてのワインを受け渡す手続きをしてから、巨大な門を潜る。
修道院側との手続きは問題なく済んだのだが、別のところでそれは生じた。
荷馬車から降りる際、ネロは座席の足下から、チビカミ:ベルカを引きずり出さねばならなかったのである。
腹ばいになり、半目になったベルカは明らかに拗ねていた。
間違いなく、マチルダとネロの関係に嫉妬の炎を燃やしていたのである。
それはネロにはそれまで唸ったことさえなかったベルカが、はじめてネロに「ぐぐぐっ」と抗議したのである。
ネロは振り向き、マチルダを見た。
マチルダも驚いていたが、女同士、意味は理解したのだろう。すこし気まずい空気が醸成されたのは、しかたがない。
とにかくなんとか引きずり出すことには成功したネロだったが、そのさらに奥の暗がりで、メルロの衣装の端が影に飲み込まれるのを見て、胃が縮む思いをした。
昨夜から、一度も顔を合わせていないメルロが、いったいマチルダとの関係にどのような思いを抱いているのか……考えるだけでも恐ろしい。
とにかく、この現状にあって修羅場を現出させないでいてくれる配慮に感謝の祈りを捧げながら、ネロは礼拝のための聖堂に向かう。
「うお」
眼前に開けた光景に、ネロはおもわず唸らずにはいられなかった。
ひとことで表すならば荘厳、となるのだろう。
エクストラム法王庁を埋め尽くし飾り立てる壮麗な彫像群が、この地に天の國を降ろそうという試みからのものであるとしたならば、こちらはどちらかといえば、学究の徒のために必要の美を極めようとした──そういう印象を与える広大なファサードをシュクレー修道院は備えていた。
機能美、とでもいうのだろうか。
決して冷たい感じではないのだが、エクストラム法王庁のそれが、神の栄光を賛美し褒め称えるかのようなものであるのに対し、こちらのそれはどちらかというと高揚より、鎮静に向かう、思索のための場所なのだという印象をネロに与えた。
驚くべきは、辺境の修道院にこれほどの施設を与えることができたかつてのイグナーシュ王国の豊かさと、降臨王:グランの偉大さだった。
文化人としても知られたグランは己の宮廷にだけでなく、王国全土にそれを播種しようと考えていたのかもしれない。
オレなんかとは、考え方のスケールが違いすぎる……ネロは同じ男として呆然とするしかない。
「ネロ、こっちです!」
足を止めて偉容に見入っていたせいで、ネロは聖堂に向かう人々の波からはぐれてしまっていた。
手を振り呼びかけるマチルダに、足早に歩み寄る。
「どうしたんですか?」
「いや、すげえな、と思ってさ」
グランて男は、ほんとうにすごい傑物だったんだな、って。ネロの心からの称賛に、マチルダが微笑んだ。
「わたしは旦那さまのなかにも、その片鱗を見ているんですよ?」
え、オレ? 唐突すぎる切り返しに、ネロはアホ面を晒して己を指さす。
ふふふ、とマチルダはまた笑ってその腕を取った。
礼拝はつつがなく終わった。
振り香炉を持った僧たちの入場に、賛美歌、パンとワインが配られ、説教を聴いて礼拝は終わる。
あまり無駄なセレモニーを差し挟まないそれは、この地に暮らすリンネル派の修道士・修道女たちの祈りのカタチの現われだっただろう。
民衆が聖堂から去っても、ネロとマチルダはその場に佇んでいた。
繰り返しになるがこの季節、こんな時季に巡礼に訪れる人間などそうはいない。
後片づけを終えた修道女のひとりが、マチルダを認め、声をかけてきたのが始まりだった。
あっというまに、ネロたちはたくさんの修道士たちに取り囲まれた。
なるほど、マチルダのその後を気にかけてくれていた者たちがこんなにもいたのだ。
それはマチルダの人徳、修道院における人気を表していた。
「院長先生!」
そして、その様子を遠巻きに見守っていた年配の女性を見つけるや、マチルダはネロが驚くような身軽さで、その胸に飛び込んでいったのである。
「これ、マチルダッ──このお転婆娘めッ!!」
という院長の言葉にさえ、うれしそうに笑って。




