たとえ過ちだとしても
けれども、けっきょくネロはマチルダに押し切られてしまう。
“かつて、修道院に養われた者として巡礼を名目に帰郷し、感謝を捧げるため、一週間の滞在と対価としての奉仕活動を申し出る。
元貴族の血筋ということでブラドベリ枢機卿に見出されるも、《スピンドル能力》の発現を見なかったマチルダは還俗を許され、ワイン農家の跡取りであるネロとつい先日、結婚した。
ネロは法王庁がミサに使うワインを納める農園の持ち主のひとりで、マチルダはとてもしあわせに暮らしている”
それが聖堂騎士団がシュクレー修道院潜入のために用意したカバーストーリーだった。
小高い丘にそびえ立つ城塞のごとき修道院に自力で潜入するのではなく、まず巡礼者として堂々と入り込み、そこから内部を探ろうというのは、たしかに現実的なプランだ。
修道院の院長はマチルダが修道女として暮らしていた時と替わっていなかったし、顔見知りの修道士・修道女たちが数多くいる、とマチルダは言った。
近況報告と思い出話にマチルダたちが花を咲かせている間に、ネロが密偵として秘密裏に内情を探る。
これまでのネロの経歴を考えれば悪くない分担だ。
詩才もあり、読み書きにも堪能、錬金学にも通じたネロならば見落としもないだろう。
マチルダが《スピンドル能力者》として発現しなかったという設定も、トレトの家がなぜ没落したのかという来歴を手繰れば非常にリアリティのある話だった。
「祖父が貴族としての務めを怠ったからだと言われています。街の娘と恋仲になった祖父は、慣例と貴族に課せられた義務を押し切って、愛を貫き通した。……でも、そのせいで、一族からは《スピンドル》の血統が絶えてしまったのです」
愚かな家系でしょう? と微笑むマチルダの瞳は、自嘲するように歪められた唇とはうらはらに、ひどく愛しいものを見つめるような、やさしい哀惜に満ちていた。
「だけど……かの降臨王:グランだって」
無能力者だった──ネロは己の血筋にまつわる逸話を語るマチルダに、そう声をかけた。
「仰るように、あの方はたしかに《スピンドル能力者》ではなかった。なかったそうです。でも、それは経緯が違う。相次いでご兄弟を亡くされ、望まぬ王位継承権が巡ってきたとき、次代の息子たちにその発現がなければ、他国からの養子をもらうとまで宣誓を行われたうえで、グラン様は玉座に着かれたのです」
無能力者でありながら、無能力者と謗られてきた過去を持ちながら、祖国のため王として立たれたあのお方と、わたしの祖父を並べることはできません。
「自分たちの色恋に、家督と血統、そして貴族の義務を見失ったんです」
マチルダは俯いて、ひどく恥じ入りながら言った。
「それは……愛のためだ。恥じるようなことじゃない」
ネロは、おもわずマチルダの祖父をかばう。
「いいえ。許されることではありません。貴族として、いっときの感情に流されて大事を見失うなど」
「でも、そのお祖父様のおかげで、オレはいま、マチルダといられる──出会えた」
そのお祖父様のおかげで、マチルダは生まれたんだから。ネロはそう言ったのだ。
修道院の見取り図を広げ最終的な確認を取っていたふたりは、ネロの言葉をきっかけに見つめあうカタチになってしまった。
ぱちりぱちり、と薪のはぜる音がした。ガタガタと窓が鳴る。どこかを通り過ぎるのだろうすきま風が、まるで狐狼の遠吠えのように啼く。
なぜか、ネロにはその沈黙が恐ろしく感じられた。見れば、マチルダもそうなのだろう。瞳は見開かれ、呼吸が浅く速くなっていることが、胸の上下からうかがえた。
どれぐらいそうしていただろうか。
動揺した様子でマチルダが見取り図を片づけはじめた。
だが、よほど慌てたのだろう。地図の四方を押さえていたゴブレットを取り落としてしまう。
反射的にそれを掴もうとしたネロの手が、マチルダの指をとらえた。
スズのゴブレットは床に落ち、敷き詰められていた麦わらの上を転がって乾いた音を立てた。
粟立っている、とネロはマチルダの肌を感じた。
同じだったから、よくわかったのだ。
それが嫌悪感からのものでないということも。
マチルダは握られた手を振りほどこうとはしなかった。
かわりに怯えるような瞳がネロを見返した。
その瞳に写り込んだ暖炉の火は、マチルダの心そのものだった。
抱き寄せたのか、抱きしめられに飛び込んできたのか、わからない。
もしかしたら、両方だったかもしれなかった。
告白された。
血の出るような声で。
「ごめんなさい! ごめんなさい──あなたを、愛してしまいました」と。
不実、とそのあとのネロの行いは、ひとことでなじることはできただろう。
けれども、ネロにはマチルダの告白を無下にすることができなかった。
あの暗い取調室で、夜更け、ひどく憔悴しながらも、なにかを護ろうとするかのように毅然と振る舞うあなたを見た瞬間に、恋に落ちてしまったのです──罪を告白するように、泣きながらネロの衣服をつかんで訴えかけるマチルダを突き放すことは、ついにネロにはできなかったのだ。
それを、死と隣り合わせの任務へ赴く彼女が抱いた恐怖心だと、同時に眼前に現われた頼るべき相手=ネロへのアマルガム、つまり錯覚だと看破・喝破することは、たぶん簡単だっただろう。
けれでも、ネロにはマチルダの心の動きが痛いほどわかった。
戦場に赴く前夜、騎士たちのほとんどが伴侶か、恋人と互いを求めあう。
従士隊の多くが、花街へ繰り出し、女をあるいは男を求め、抱く。
前者を愛と呼び、後者を姦淫と呼ぶことは、マチルダの告白を看破するのと同様に簡単だ。
だが、そうではない、とネロは思う。知っているからだ。
いまだ人外の者どもが跳梁跋扈するこの時代、ヒトの命はあまりに安く、軽い。
そんな戦場に向かうたくさんの兵士たちが、その前夜にヒトの肌のぬくもりを求めてしまうことの意味を──ネロは否定できない。
愛か罪か、などとキレイに割り切れるような場所では、戦場はない。
そこは狂気の支配する場所──修羅の踊る庭だ。
あまりに無慈悲に、簡単に、命は失われる。
ましてや、相手がおぞましき人外の者どもであったのなら、それはなおのこと。
ヒト対ヒトであっても泥沼の乱戦・消耗戦を体験すれば、そこを地獄と多くの者が呼ぶはずだ。
だが、人外とのそれは──魔物や、ヒトでありながら魔に通じ、人倫の外をおのがテリトリーとする者どもとのそれは──文字通り「おぞましい」。
ネロだって、そうだった。二度の従軍経験、そして、スパイラルベインとなって初めての依頼をこなした日だけのことではない。
女たちの肌に、メルロにどれだけ救われただろう。
その温もりと甘さが、かろうじてネロの正気を保ってくれていた。
「わたし、まだ……ヒトを斬ったことがありません」
あのイゴの村の霊泉で震えながらマチルダがした告白に、ネロは言い知れぬ怒りを覚えた。
マチルダに対して、ではない。エクストラム法王庁に、聖堂騎士団に対して、だ。
なぜ、そんな練度の娘を、このような危険な任務につかせたのか、と。
それほどまでに法王庁には人材が不足しているのか、と。
強力な異能の持ち主であることと、熟練の兵士であることは似ているようでまったく別のことだ。
ネロだって戦場で、三人は殺している。傷を負わせたとなれば、おそらく十名は下るまい。
その程度の戦歴がなければ聖堂騎士になど、到底、受からない。
天才騎士:アシュレダウなどは、十三の時が初陣だったというから──その戦歴は推して知るべしだ。
ネロは己が実戦に赴いた二十歳の、その前日の晩のことを思い出す。
恐くて震えが止まらず、強い酒を浴びるように飲んで騒いだ。エクストラムの花街で、そういう兵士相手を当て込んだ公認の娼館で、近くの村出身だという娘に抱かれるようにして眠った。
まだあどけなさの残る娘に「必ず帰ってきてね」と送り出された朝を、ネロは忘れない。
そのことをして──人間の暗部だと指さすヤツは出てこい、とネロは思う。
きれいごとでは済まされない場所を生きてきたからこそ、わかるのだ。
いま、マチルダの胸を押しつぶしそうになっている絶対的な恐れ、不安と焦り。
それらが、捏造された理想の騎士と結びついて生まれた偽装された恋心を、ネロは否定しきれない。
なぜなら、それは、いまネロのなかにもあって、肉体を狂おしく駆り立てているからだ。
マチルダをかわいいと想う心に間違いはない。
魅力的だと想う心に偽りなどない。
ただ、愛しているのか、と問われたら即答できなかった。
だから、ネロはこれが嘘だとわかっていた。欺瞞だと知りながら止める術を思いつけなかった。
そのどうしようもない欺瞞の対価に望まれたことは、たったひとつ。
「嘘でもいい──愛してる、と。ネロ、お願いです」
嘘を吐いてください、と懇願された。
どうしたら、断れた?
そうして、ふたりは嘘からはじまってしまった関係を取り繕うように、求めてしまう。
いつ眠りについて、目覚めたのかわからない。
ネロが目覚めると、マチルダはすでに身支度を整えていた。
今日は修道院に付属する聖堂での礼拝がある。
シュクレーの住民たちも参列する。
そこに同席しようというのだ。
「マチルダ」
身支度を整えたネロは、富農の若奥様という設定のマチルダに、自分の服装をチェックしてもらおうと振り向いて息を呑んだ。
華美な装いではない。無地・黒色のドレスはあくまで抑え目で、そのぶん大きめの袖と襟に目が行く。
しかし、よく見ればあしらわれたレースは手のかかった物だ。
すべて手仕事だったこの時代、レースや手の込んだ刺繍には貴石に等しい価値があった。
既婚者であることを示す結い上げられた頭髪に、のぞく首筋の肌が目に痛いほどだ。
「旅装束は、古着で済ませましたから、これくらいは」
ネロの目の前でくるん、と回って見せるマチルダに、ネロは釘付けになってしまった。
昨日まで肩に留まっていた不吉な影が、いまのマチルダからはまるで感じられない。
それまでだって笑顔の魅力的な娘だとは思っていたが、いまのそれを見たネロには、すでに記憶のなかのマチルダがくすんだ帳のむこうにいたかのように思えてならない。
愛を得た女というのは、こうも変わるものなのか、とネロは思う。
たしかに、メルロもそうだった。
ネロが、月下騎士:バルベラを退け、ともに生きると約束したとき。
ずきり、とネロは胸に痛みを覚えた。罪悪感に、だ。
と、とたんに調子に乗りすぎて目を回したのか、マチルダがネロの目の前でつまずいた。
ネロは慌ててその身体を抱きかかえる。
「あ、ありがとうございます」
「気をつけて」
「なんだか、まだ、自分のカラダじゃないみたいで……」
無意識にだろう。下腹を押さえて言うマチルダに、ネロは反応しそうになってしまって慌ててカラダを離そうとする。
けれでも、それはしがみついてきたマチルダによって阻まれた。
この華奢な身体のどこに、と思うような必死な力でマチルダはネロを繋ぎ止めた。
それから、胸に額を押し当てて、ちいさく、しかし、精いっぱい勇気を振り絞ったというのが、まるわかりの口調で告げたのだ。
「ネ、ネロはッ、こ、今回の旅が終わるまでは、わ、わたっ、わたしの、旦那さまなんですからねッ!!」
まるで、一瞬、胸中によぎったメルロの笑顔のことを見透かされたようで、ネロは息を呑んだ。
十六歳とは言えども、女なのだな、と感慨にも恐れにも官能にも似た感情が背筋を走った。