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“聖痕”

 

「あれが、わたしが育った修道院です」

 鉛色の雲が垂れ込め、夕闇迫る世界のなかにまさしく城塞のごとくそびえ立つそれを指さして、マチルダは言った。

 

 シュクレー修道院の壁に切られた窓からオレンジ色の光がいくつも見える。

 マチルダとネロのふたりはすでに夕食をすませ、あとは眠るばかりと部屋にこもっていたが、厳格な会派が主導する修道院での日課は、日を跨ぐことも珍しくない。

 エクストラム法王庁における終課とは日没から約二刻後の務めを意味しているが、このような修道院における最後の務めとは文字通り真夜中、満月が中天にさしかかるころ、ようやく終わる。

 ネロたちが逗留する宿からは、峡谷の向こうにそびえる修道院に炯々と灯る明かりが、そこに住まう修道士と尼僧たちの信仰のカタチを如実に語っていた。

 

「本当に尼僧だったんだな」

「生まれは没落貴族ですけれど」

 それも戦に敗れた──ベルクート伯爵側の。「元貴族」などといらぬ付け加えをした自分の浅ましさを嗤うように、マチルダが言った。

 部屋はそれほど広くはないが、質が良く信用の置ける格付けの宿の上部屋にふたりはいる。

 必要のないリスクを事前に排除するという意味でも、ある程度以上のランクの宿を選ぶ意味は大いにある。

 従業員の信用度も格段に変わるからだ。

 

「敗残となったわたしたちが頼れるところなど、もはや修道院しかなかった。逃避行の末に辿り着いたシュクレー修道院はわたしたちを受け入れ、匿ってくれました。兄王派の追及も、あるにはあったけれど、続く革命戦争と天変地異がすべてをうやむやにしました。あれも降臨王:グランのお導きだったのでしょう」

「ご両親は……残念だったな」

「いいえ。ふたりは貴族としての最後の務めを立派に果たしたと思います」

 その後、娘と修道院に累の及ぶを危惧し兄王派に投降したマチルダの両親はけっきょく、のちに続いた革命戦争で民衆に捕らえられ断頭台に消えたのだという。 

「でも、わたしは両親から誇り・・とはなにかを学びました。そして、修道院の生活は、生き方を教えてくれたんです」


 シュクレー修道院の明かりが深夜まで煌々と灯るのは、祈りに費やされているからだけではない。

 夜を徹して治療が必要な患者たちのための奉仕が行われているのだ、とマチルダは言う。

 異能に頼らぬ治療法の確立を目指すリンネル派の尼僧、その見習いとして働きはじめたマチルダは、すぐにその仕事の素晴らしさ・尊さに気がついたのだと語った。


「《スピンドル能力》は、たしかに素晴らしい《ちから》です。適切な《フォーカス》と一組になれば、まさしく奇跡に等しい御業を為しえる。でも、それはごく限られた一握りの高位能力者だけのもの。そして、彼ら選ばれし《スピンドル能力者》たちにとってさえ、要求される代償はあまりに大きい」


 たとえば、病に倒れたヒトすべてを《フォーカス》と《スピンドル》で救うことはできない。マチルダは言う。

 法王猊下そのヒトであれば、あるいはわからない。けれども、市井に生きる名も無き民に、その恩恵は届かないのだ、と。

 

「ただの風邪でさえ、拗らせれば死に至る病に成長する。でも、その初期症状の段階で適切な治療、ううん、そもそも風邪の病魔を寄せ付けない予防療法があるのだと、シュクレー修道院での奉仕活動は教えてくれたんです」

 世界各地に点在する教会付属の施療院──たとえば、グレーテル派の最大拠点であるカテル病院騎士団付属病院では、やはり薬学と外科手術を中心とした異能に頼らぬ医療法を研究しているとは、さすがのネロも聞き及んでいる。


 けれども会派の理念として、その探求と普及を掲げてる団体は、これはリンネル派以外にはあるまい。

 なぜなら、それら医療の技術はいわば「神の御業」にメスを入れる行為であり、禁書と並んでエクストラム法王庁が管理すべきものだという見解が一般的だった時代である。

 これはそれら秘事を「法王庁の許可を得ずに開示する」と取られてもしかたがない思想であった。


 降臨王:グランのような強力な後ろ盾、あるいは、前法王:マジェスト六世のような進歩的考えにも一定の理解を示す穏健な支配者のもとでならば容認されたかもしれない。

 しかし、現在の法王であるヴェルジネス一世はこれまでの緩和政策からは一転、聖職者の風紀を正すとの宣言のもと、これらの会派に対し厳しい見解を突きつけている。

 法王直下の機関である異端審問課も、その様相を変化させ、先鋭化しつつあるとも聞く。

 端的に言えば魔女狩り。失地回復運動という御旗を掲げ東進を進めてきたエスペラルゴ帝国からの思想の逆輸入である。


「それじゃあ、今回の任務ってのは……」

 拝病騎士団とリンネル派の繋がりを探る、という任務は。ネロは窓際のマチルダを見る。

 マチルダは窓を閉めながら答えた。

 

「たしかに、生まれ育った修道院を売るようなマネに見えるかも、です。でも、わたしは逆だと考えています。潔白を証明すればよいだけのこと。異端審問官たちに、あの場所を踏み荒らさせたりはしない。そのような不浄な繋がりなどない、と明かせばよいだけのことです」

 ネロを見据え、マチルダは断言した。

「わたしは貴族の血筋であったことから、イグナーシュが法王領に再編される際、ブラドベリ枢機卿によって見出され、修道院からエクストラムに移されました。《スピンドル能力者》の可能性ありとして。そして、その見立ては正しかった」

 わたしは、その後すぐに《スピンドル》に開花したのです。マチルダは自分がなぜ、聖堂騎士になれたのか、その理由を明かした。どうやって見出されたのか、も。


「これまでのことで──わかっていただけたと思いますけれど」

「うん。マチルダ、キミは、騎士としてはほとんど素人だ」

 旅に出る前、棒切れを剣に見立てネロはマチルダと戦技訓練をした。互いの実力を知っておきたかったからだ。その結果からの評価を率直に述べる。

「スジは悪くない。だけど、百回やってオレから一本も取れないというのは……問題だ」


 ネロだって戦技は得意なほうではない。素養はもちろん必要だが戦技は技術であって、だいたいの場合、長年の積み重ねが大きくモノを言う。

 せいぜい一年やそこらしか訓練を受けていないマチルダは、雑兵としてはともかく、戦闘の専門家である騎士とはとても言えない。


「握力も弱いし……その手首じゃあ、剣を振うのも一苦労だろう?」

 当然だが、剣は刃筋を立てなければ切れない。ただ振えばいいというものではないのだ。ネロのいう「振る」とはそういう意味だ。

 それ以前にマチルダの握力と腕力では、甲冑相手に剣がぶつかると衝撃負けして剣の方が吹き飛ぶか、手首を痛めてしまうだろう。


「どうして、わたしが甘やかされている、と言ったかわかってもらえましたか」

 深く恥じ入る様子のマチルダに、ネロは切り返した。

「キミの異能を知らなきゃな」


 ネロがそれを見たのは、シュクレーまでの道程、墓守たちの隠し湯というふれこみの村に宿泊したときだ。

 旧イグナーシュ王国の復興の速さを実感することになったイゴ村での一夜、ネロはマチルダの裸身を初めて見た。

 正しくは「知ってください、わたしを」と懇願されたのだ。


 もちろん、聖務という意味で、だ。


 マチルダはその背に、円十字を背負っていた。脊髄と肩甲骨に沿うように、純白の異形の器官が走っているのをネロは見たのだ。

 真冬の真夜中、人気の絶えた霊泉に立ち、マチルダはネロに触れてほしいと言った。

 その異形の器官はまるで波に洗われた骨のように白く、硬く、すべやかだった。


「これは……」

「これが、わたしの能力のカタチ……《スピンドル》を《フォーカス》のように伝導する器官。“聖痕ステイグマ”と猊下は仰いました。聖なるしるしだと」 

「“聖痕ステイグマ”」

「わたしが、この聖務に選ばれたのは、だから、です。この《ちから》のため、です」


 自らの肩を抱いて、震えながらマチルダは告白した。


「あらゆる魔を圧倒する《ちから》です。彼らを退け、滅する《ちから》──〈メルキュレー〉」

「〈メルキュレー〉……人体と……合一した……《フォーカス》?」


 あまりの光景に圧倒され、ネロは絶句した。


 その名──《フォーカス》とは《スピンドル能力》を増幅し、強大な、ほとんど奇跡とも呼べる結果を引き出すための神器の名だ。

 異能の使い手たる《スピンドル能力者》は、そこに《ちから》の源である《スピンドル》を伝導し、凄まじい権能を振う。


 けれども、ネロ自身《スピンドル能力者》であるにも関わらず、《フォーカス》を目の当たりにしたことはない。


 それはほとんどの場合あらゆる国家にあって秘中の秘、秘宝中の秘宝であって、よほどのことがない限り、高位《スピンドル能力者》以外には、触れるどころか目にする機会すらないのが実情だ。

 ネロがそれでも《フォーカス》にある程度通じているのは、従士隊時代に選択した錬金学の教授のおかげだ。

 だいたいは聖堂騎士時代に図録の写しで概要を知る。

 それ以外にあって語られる《フォーカス》は、子供のためのお伽噺、そのなかに描かれる竜退治の聖なる槍や、夜魔を退ける聖剣としてだ。


 だが、その程度の知識しか持ち合わせないネロから見ても、マチルダの背に息づくこの《フォーカス》:〈メルキュレー〉はあきらかに異質だった。


 なにか別種の生き物の骨、あるいは……噛み合わされた牙の連なりにも……見える。

 ぞっ、と誤魔化しようのない悪寒のようなものが、ネロの背筋を走り抜けた。

 それは、たった一年間の間に、いくつもの修羅場を潜り抜け、人外のものと相対してきたネロに備わった勘だった。


「醜い──ですか?」

 ネロの沈黙の意味を理解したのだろう。マチルダが背を向けたまま、首だけを捻って訊いた。

 いや、たぶんそれは、マチルダ自身が抱え続けてきた「恐れのカタチ」だった。

 

 いかに、聖なるしるし:“聖痕ステイグマ”と言われようと、こんな異物が、やっと成人を迎えた娘の背に埋め込まれていたとしたら……マチルダの心はどんなに苛まれてきたことだろう。

 

 あの純真すぎるほど純真で体当たりな行動の裏側にあった理由を、ネロはようやく理解した気がした。

 だから、正直に答えた。

 

「恐い──な。これは。はっきり言って」

 ネロの言葉に、マチルダが目を見開いて固まった。

 だけど、とこんどはネロが立ち上がり、己の背中を見せた。

「けどまあ、似たようなのが、オレにもある」


 だからオレたちは似た者同士だ、とネロは笑った。世間に顔向けできない、という意味ではネロの背中を彩るスパイラルベインの刻印もまた同じだったからだ。

 

 マチルダからの返答はなかった。

 言葉では。

 ただ、強く抱擁された。

 なんども名前を呼ばれた。

「わたし、あなたとでよかった」と。

 

 そのあとのことを思い出すたび、ネロは己の精神力を褒めたり、甲斐性のなさを嘆いたりする。

  

「大事なことだから、こういう流れでは、ダメなんだ!」

 という、悲鳴にも似た叫びにマチルダが納得してくれたのは、たぶん、どんなにネロが頑張って己の衝動を押さえつけていたのかを目撃したからだと思う。

 

 物理的に。


 


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