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狼と葡萄

 すっかり日の落ちてしまった秋の道を踏みしめてネロは行く。

 日中は暑く感じるくらいだが、陽が落ちると途端に冷えてくる。

 すこし張り切りすぎてしまったな、とかじかんだ手に息を吹きかけて。


 法都:エクストラムを見下ろすこの荒れ果てた丘、フォロ・エクストラーノを覆う野草の群れは踏みしだくと強く香る。天然のハーブ群生地。

 ネロの手に明かりはない。

 陽が落ちきる前に摘みきるはずだった葡萄の収穫に、思いのほか手間取ったせいだ。


 葡萄の収穫は、ネロが扱う品種の特性とこのあたりの気候を考慮すると、どんなに遅らせても九月の終わりまでに終わらせなければならない。

 完熟に向かう葡萄の実は、雨を嫌う。油断すると果実の間にあっというまに病気が広がり、急速に腐敗する。雨の日には収穫も行わない。葡萄が雨を吸い、果汁が薄まるからだ。


 そんなもの、どうせワインになるんだから同じじゃないのか――そう思うヒトたちにこそ、ネロは知ってもらいたいのだ。

 ぞんざいに扱われた葡萄で造ったワインは――誤解を恐れずに言う――まったくダメだ。

 性根の腐った味がする。正体を欠き、不潔な匂いがどこまでもつきまとう。

 最高のタイミングで収穫された完熟の健全な葡萄だけが、最高のワインとなる資格を持つ。

 そんなわけで収穫までの数日を、農民たちは祈るような気持ちで畑を日にいくども見回る。

 

 だから、いま、十月も半ばまで収穫を遅らせていたネロの行いは、事情を知るワイン農家の人々からすれば一種の狂気だ。

 しかし、勇気ある狂気だと、彼らは褒めてくれるだろう。

 なにしろ、葡萄を樹につけたまま腐らせるのだから。


 貴腐、という言葉を知っているだろうか?

 貴く腐るという字の通り、それは退廃的な行いを示す言葉だ。

 完熟し手に取れば落ちてしまいそうな最高の葡萄の実を、摘まずに、あえて樹に残す。

 そうして、腐らせる。

 ただの腐敗ではもちろんダメで、そして未熟な葡萄ではまったくだめで、熟しきった糖度の高い葡萄の実に繁殖する特別なカビだけが、その奇跡を起しうる。

 カビは葡萄から水分を奪い取り、その内側で糖度を限りなく高めていく。

 この過程で雨に祟られたなら、もうだめだ。葡萄は貴腐ではなく、青い腐敗=ただの腐敗へ向かう。

 すべての努力と忍耐は水泡に帰す。

 朝露はいい。霧も望ましい。そして陽光と、風。

 そのほとんど乾物になってしまった葡萄で醸されたワインだけが――黄金に輝く最高の甘口ワイン――貴腐ワインとなるのだ。

 セレクション・ドゥ・グラン・ノーブル――選良された高貴の実。貴腐ワインにつけられる称号だ。それも当然だとネロは思う。


 ネロもこのワインに挑戦できる日が来るとは思ってもみなかった。

 実家の農園では恐ろしすぎて試せなかったのだ。

 いま収穫すれば最高のワインになるであろうことが確実な葡萄の実を、あえて摘まずに、気まぐれな天気に祈りながらじりじりと幾日も待つ焦燥感を、おそらく都会の人間は想像できないだろう。

 それは今年の収入をふいにしかねない賭けなのだ。


 恐れもなく、それを試せたのはこの葡萄たちが自生で――もっとも、見出してからすでに六年近くネロは手をかけてきたのだが――あったからに他ならない。


 摘むべきか、摘ざるべきか――この数週間、本当に葛藤した。

 けれどもそのたびに、これで醸されたワインを口に含んだときのメルロの笑顔が脳裏をよぎり、じっと歯を食いしばって我慢したのだ。

 ようやく決心して、この夕方に摘みはじめた。

 高温は収穫した葡萄を急速に傷めるからだ。

 本当は気温のもっとも下がる明け方が最適なのだが、どうも天候があやしい。

 今日しかない、と見切った。


 葡萄は、手かご一杯に取れた。

 だが、たぶん、これぜんぶを使っても一瓶を満たせないだろう。

 よし、とネロは心を決めた。混醸だ。いま、醸している今年のワインと合わせよう。

 ワインに浸けてこのカラカラをもどして……そこからさらに醸す。

 糖度を継ぎ足されるカタチになるから、醸し上がりでは、アルコール度数はあがるはずだ。ねっとりとした喉ごしを得られるはずだ。

 そして、いつか、いつかは完全な貴腐ワインをメルロに――同じくワイン狂いの同志である愛しい夜魔の姫に――飲ませてやるのだ。

 ワインの神が、それをネロに赦したもうたなら。

 

 そのとき、決意したネロの足元を照らすように、満月がゆっくりと丘を登ってきた。

 欠けたところのない満月の、あまりの大きさ、見事さに、ネロは足を止め、見入った。

 だから、いつのまにそれが現われたものか、ネロには知覚できなかった。

 気がつけば五メテルの至近にそれがいた。

 

 巨大な――それこそ人間と同等の体躯を持つ――白銀の狼がそこには居座っていた。

 

「死んだ」とネロは思った。

 人間は犬には勝てない。狼ならなおさらで、こいつはサイズの面ではるかにその上を行く。大きく鋭い牙の生え揃ったあの顎門に捕らえられたら、ネロの首の骨など一撃でへし折れる。

 実家にいたころ、知り合いの酪農家が狼にひどい目に遭わされた。

 大きな古狼が一頭、その群れを率いていた。

 毒殺も、罠も効かない。番犬たちは巧みに誘い出されて、行方しれずになった。

 結局、領主と騎士団のお出ましとなり大規模な巻き狩りが行われ、数ヶ月に渡る掃討作戦のすえ、メスを捕らえて罠をはり、完全武装の騎士数騎がかりで槍で仕留めた。

 だが、その後も死んだはずの古狼の遠吠えが秋になれば聞こえるのだ。

 森の魔物だ、と農民たちは囁きあったものだ。


 その再来のような巨大な狼がいま、ネロの眼前にいた。

 唸り声もあげず、内側に雪の結晶を住まわせたような瞳を、じっとネロに据えたまま。


『いや、だめだ』

 と自分のどこからそんな感情が湧いて出たものかわからず戸惑いながら、ネロは身構えていた。

『こいつに殺されるのは簡単だが、そのあとこいつはどうする? オレを殺したら、次の獲物はメルロに決まっている』

 そんなこと、させるか!

 かっと腹の底が熱くなり、恐怖を激情が上回った。ふらふらと焦点の定まらない生き方を不本意ながら続けてきたネロだったが、ことメルロのことだけは別だった。

 冷静になれば、夜魔の姫であるメルロが、魔物級のサイズとはいえ狼に遅れをとるかどうか、はなはだ怪しいところではあったのだが、惚れた女のために命を張ってしまうくらいには、ネロのなかの男のコは、一途だったのだ。

「オレのワインを飲みたいって――言った!」

 胸のうちでメルロの声を反芻し、相打ちを覚悟なら、せめて人類を襲うのをあきらめるくらいの手傷を負わせられるのではないか、という気にネロはなった。

 収穫に使ったナイフが腰に手挟んである。

 それにネロは落第とはいえ、異能者だった。異能の始動キーである《スピンドル》を通せば、その後一撃で砕け散るとはいえ、こんなちっぽけなナイフでも、岩を突き通すほどのエネルギーを集められる。

 いや、とネロは思い返した。

 葡萄は――貴腐葡萄ならどうだ?


 メルロと出会ったころ、ネロは初めてこの丘でゴブリンと遭遇した。

 それはネロの属していた従士隊が、ジャグリルズ――残留思念に汚染された土地――の影響を受けて、変異したものだった。

 彼らを救うため、ネロは自作のワインに《スピンドル》を通し、土地そのものまでも浄化した。

 まさかワインが――《スピンドル》の導体となるなど――賭けもいいところだ。


「それは、おぬしの酒に込められた《夢》の美しさのせいじゃ」

 とメルロは断言した。

 気恥ずかしいセリフだったが、正直、涙が出るほどうれしかった。

 人生の坂道を転落しきった先で、救われたような気がしたのだ。


「問題は……この、加工前の葡萄で効果があるか――だけど」

 決意にまなじりを固めた瞬間だった。


 息のかかるほど近くにそいつがいた。

 どん、と押し倒された。

 回想しているような時間は実戦には存在しない。

 わあ、と情けない悲鳴をあげてネロは組み伏せられた。

 なぜか狼からはラベンダーの花の薫りがした。

 やられるっ、とネロは目をつぶり、本能的に両手で顔をかばった。

 くんっ、と嗅がれた。獣の吐息を首筋に感じた。

 そして、最後の瞬間が――いつまでたってもこなかった。


 がさり、と狼がネロの手かごに首を突っ込んでいた。はくっ、と一房だけ、そいつが貴腐葡萄を取り出した。

 ネロはその光景を呆然と見守った。

 まだ、まだ、オレはなにもしてねえ、と。


 風切り音とかごが突き破られる破砕音は、同時だった。


 重金属で造られたロッドのごときものが飛来し、狼の鼻面を打ち据えようとしたのだ。

 メルロか、と一瞬ネロは思った。

 だが、続けて駆けつけた足音はメルロのものにしては重すぎた。

 甲冑の擦れ合うような音。

 狼は跳び退り、踵を返すとあっというまに闇に紛れた。

「逃したか」

 駆けつけた人影が発した声は女の物だった。


「だいじょうぶかい、キミ?」

 狼を追いかけ、無駄と見るや、女はすぐに駆け戻ってきた。

「あ、ああっ」

 女の掲げたカンテラの明かりに、地面に転がった貴腐葡萄が映し出された。

 ネロは地べたに這いつくばり、それを必死にかき集めていた。

「ケガ……は、ないようだね?」

 女の安堵したような、あきれたような笑いも気にならなかった。


「送ろう」と言われ、ネロはすでに周囲が闇に没していたことに気がついた。

 だが、フォロ・エクストラーノの丘の上――満月の晩はことさら明るい。冗談抜きで本が読めてしまうくらい、明るい。

 歩いて帰るだけならネロはその申し出を丁寧に辞退しただろう。

 けれども、先ほどのようなバケモノがこのあたりをウロウロしているのなら、話はまったく別だ。

 それに、満月に照らし出された女の美貌も、その申し出を受けるのに一役買った。

 

 ぞくり、と背筋に恐怖とは別種の震えが走った。

 メルロがまだ固いバラの蕾なら、その女は開ききり糜爛した大輪の百合を思わせた。

 熟し切ったメロンのように酔っぱらうほど香りが強く、めしべに花粉を一杯につけた。

 それをわざとキツイ衣装で縛り上げ、束縛して、保っている。

 そんな――倒錯。

 

 実際、ネロは立ち上がった瞬間によろけ、女に抱き止められた。

 マントの奥、レースとシルクに包まれた柔らかな物体に顔を突っ込んだ。

 魅惑の完熟フルーツにネロは溺れそうになった。


「キミっ、大丈夫か? 頭を打ったのではないか?」

「これっ、これっ、これはっ!」

「いけない。安静にしなくては」

 女はネロのハラスメント行為や我が身の貞操などまったく眼中にない様子で、ひたすらネロの身を案じた。おかげでネロは脱しかけた完熟果実の大海にまた呑まれそうになる。

「いや、あのっ、いけませんっ!」

 とまるで生娘のように女を突き放したのはネロのほうだ。


 その瞬間、がさりっ、と草原が鳴った。


 むっ、と女が右手に鉄仗を掴み、左手にカンテラを突き出してかざし、ネロは跳び退り女からも距離を取った。

 少女がその明かりに照らし出された。

 その手には鞭が握られている。


「ネロ」

 と震えながら少女は言った。怒っているのか、それとも恐怖のためか、その身体は硬く強ばり、うつむいていた。かさり、と鞭の尖端が枯れ草に鳴った。

 ネロの身体は、だが、反射的に動いていた。

 メルロが無事だった。

 そのことだけでネロの頭は一杯になってしまったのだ。


「失礼した。わたしは西ガレリア地区で医師を努めております、フレアミューゼルと申します」

「こちらこそ……とんでもないところを、お見せして――レディ・フレアミューゼル」

「どうか、フレアと」

「では、フレア。なにもないところですが――ワインなどいかがですか」

 ネロはラベルに手書きで年数と本数しか書き込まれていない自作のそれを、フレア持参のゴブレットに注いで寄越した。

「願ってもない――いただきます」

 言いながら焚き火の対岸でフレアは微笑んで見せた。


 たぶん二十代後半から……三十の前半くらいのはずだ、とネロはあたりをつけた。

 だが、とんでもない美人のせいで年齢がよくわからない。

 一本一本が太い質の黒髪を引っ詰めにし、探索用のきっちりとした衣装、さらに眼鏡をかけているせいで年齢が上がって見えるが、髪を下ろしてフェミニンな衣装を着たら、たぶん十代の娘で通ってしまう。そんな不思議な印象の女性だった。

 

「ロクなものはないが――そのワインだけは保証する」

 と、どこかぶっきらぼうにメルロが言った。

 あぐらをかいたネロのヒザを離れようとはせず、眼前の貴腐葡萄の枝や茎を丁寧に外しながらフレアを見ようともせず言った。

「いや、これは――うまい。ほう……変わった品種だ。地場のものですか?」

 フレアの質問に思わずネロは反応してしまう。

 醸造家の自尊心をくすぐられたのだ。

「あ、はい。葡萄品種を特定するのは限りなく難しくて――たぶんサンジョベーゼ種、モンテ・プルチャーノ、それからすこしだけ……カンノナウ……、あとちょっとだけ、赤ワインなんですけど……じつは白ワインの品種も……混ぜて……いや、混ざってます!」

「白葡萄――この香り――グレコ・ビアンコ?」

「すごいっ、ああっ、そうか、これはグレコ・ビアンコか!」

 ネロの素直すぎる反応に、フレアは目を丸くした。

「醸造家が教えられて目を剥いておっては、もてなされる側が恐縮してしまうわ」

 ぽつり、と不機嫌にメルロが言い、ひきっ、とネロの笑顔がひきつった。

 だが、そのセリフがフレアにもたらした化学変化は劇的だった。

「醸造家! まさか、このワインは――それじゃ、キミが――《スピンドル》をワインに伝導して使ったという!」

 ああ、一度お会いしてお話したかったのです、とフレアは笑みを広げた。

 なんだか、自分は予期せぬ方向で有名になりつつあるのだな、とネロは思った。

「そうとも、こやつが未来の天才醸造家にして、世にも珍しい“葡萄酒使い(タストヴァン)”のネロよ」

 ツンッ、とした雰囲気で目の前の貴腐葡萄を素早く選りながらメルロが言った。

 わし自慢の夫を知らなんだのかっ、と言わんばかりに。

 

「失礼しました。例のジャグリルズ浄化法のくだりから、立て続けに事件解決をこなしてきた歴戦の兵とは知らず、よけいな真似をしました。なんだ……そうと知っておれば、もうすこし……」

「盛装し、籠絡の手だてを調えてきたのに?」

「はい。じつは」

 メルロの棘のある合いの手をものともせず、フレアは笑った。

 横座りになったスカートの端から、太股までを覆う革製のロングブーツが見えた。

「無駄じゃぞ。こやつは重度の“ろりこん”でな。おぬしのように、熟れきった女では欲情せん」

 だから、毎晩、犯罪すれすれのこやつの毒牙を、わしひとりで受け止めておる。

「才能ある人間が、すこしくらい奇矯な行動を取るのはしかたないこと。天才にとって凡才の規定する常識的な世界は狭すぎるでしょうから」

「とても口にできないような行為を毎晩のように迫られても?」

「それは――じつに興味深い体験です。けれどもわたしは許容しますよ。夫になら」

「鞭はどうじゃ」

「するのですか? されるのですか? でも、愛したヒトになら従います」

「嗅がれるのは? それはもう、しつっこく、くんくんと」

「かわいい。すごく母性をそそられますね」

 にこにこと受け流すフレアの笑顔と、獰猛な笑いを広げたメルロの間でネロは乾いた笑いを発した。


 天才は持ち上げすぎで、変態あつかいは底なしにひどくなっている――たぶん、それがいまのネロの裏社会的評価だ。

 冗談にしたって、なにかスゴイ、マズイ方向へ急角度で進んで行っている気がする。

 

「それで、あの狼ですが」

 なんとか話題を変えたくて、ネロは言った。ぐびり、と去年仕込こんだワインを飲む。

 味が――しない。緊張で。


 だが、その単語には絶大な効果があった。

 すっと、フレアが居住まいを正し、ことの次第を説明しはじめた。






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