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手放したくないもの

 

「おいしい」

 そうやって差し出されたワインを、ひと口飲んで驚きの表情。ふた口目はゆっくり口に含んで、じわじわじわーと、しあわせを噛みしめるように口元に笑みを広げたマチルダを、ネロは思い出している。


「どうかしましたか?」

 気がつけば、ここはシュクレーの旅籠で、眼前にはマチルダがいてあの日と同じように微笑んでいる。

「あ、いや、なかなかうまい造りだな、と思って。このワイン」

「そうですね。この土地の味わいテロワールがしっかりと出ている。お料理とも良く合っているし。でも……わたしはネロのワインのほうが好きです」

 反射的に口をついたネロの感想に、返ってきた感想は真情に溢れたものだった。

 

 マチルダがはじめて、ネロのワインを飲んだあの日。

 あのあと起こった騒動は、はっきりいって想像を絶するものがあった。

 食事を片づけ、ワイン片手に切り出された本題、つまり、今回の任務において旅をするネロとマチルダの設定はなんと新婚夫婦・・・・というものだった。


 裕福な巡礼者が荒事に馴れた護衛を雇うことはままある。大都市には、ほぼ必ず国家が胴元を引き受ける商人や巡礼者のための護衛斡旋ギルドが存在する。

 比較的以上に安全な街道の旅とはいえ、過去の事例から導き出される統計学上、騎士崩れの野盗や山賊による略奪、最悪の場合、怪物の襲撃を受けての陰惨な事件が、年に数件はそれでも起こる。


 ましてや、ネロたちが赴こうというシュクレーが属する旧イグナーシュ領は、つい一年前まで瘴気渦巻く魔境のごときありさまだったのだ。

 それを法王庁の若き聖騎士:アシュレダウが、おそるべき魔の支配者:オーバーロードを退け人類世界に取り戻したのである。


 急派された法王庁の救世軍により国土は急速な回復を見せているというが、やはりまだ混乱は続いており、そしてそういう国家の治安体制が確立していない場所は、犯罪者の格好の温床になる。

 かつて、国家転覆を計った群狼士団なる連中の残党がいまだに暗躍しているとも聞く。

 そこへ、いかに聖堂騎士とはいえ女ひとりが巡礼に出向くというのは、これは危険すぎるとともに不自然すぎた。


 もちろん、ネロが護衛役を買って出る設定でも、それならよかったはずだ。

 だが、ネロのその提案はマチルダによって、やんわりとだが断固として却下されてしまった。


「護衛と雇い主が同じ馬車のキャビンにいたり、同室するのは不自然です」

 たしかに、この時代、男女が密室にふたりきりになるということは、すなわち肉体関係にあると暗に認めるも同然だったのである。

 ちなみに旅籠によっては大部屋での男女同室も珍しくなかったが、道徳的を逸するという意味でも、こちらも珍しくなかったということだけは余談として差し挟んでおく。

 そのような部屋での寝泊まりは、なかば同意の上であるという意味だと考えられていたのだ。


「ど、どうしつ、するんですか?」

「夫婦ならば不自然ではありません。むしろ自然です」

 それに秘密を共有するわけですから、そうでなければ困ります。真顔でそう言われると、ネロはぐうの音も出ない。

 このときのネロは、すでにマチルダが酔っぱらっていることを知らなかった。


 そして、知ることになる。

 マチルダは飲酒量が限界点を越えると眠ってしまうこと、さらには、寝ている間に苦しくなるのか胸元をしきりに緩める癖があることを、だ。


 聖堂騎士団には、当直として従事している間の外出には、行き先の届け出の義務がある。

 ましてやマチルダは、やはり騎士団では珍しい女性、それも将来を期待された俊英であり、かつ可憐な美少女である。

 完全に正体を失って、ネロの寝床であられもない寝姿をさらしているマチルダを背中に、ネロは冷や汗をかいたものだ。

 オレの人生は、もしかしなくても終わったんじゃないのか、と。

 こんなことが露見したなら、それはなんというか、未来の可能性がどうこうというより別の意味での終わりがきてしまうのではないか。


「いや、あのですね、マチルダさん?」

 あまりに圧倒的な社会的死に対する想像から、肉欲や劣情もしなびた感じで声をかけて肩を揺さぶったネロの首に、マチルダの両腕がまわされた。

 え? と思う間もなく抱きしめられた。

「かわいそうなネロ……わたし……どうやったら、慰めてあげられますか?」


 え? というようなことをささやかれて硬直した。

 触れ合った頬が濡れていた。マチルダは泣いていたのだ。ネロのために。


「いや、あの、マチルダ」

「ネロ……あったかい」 


 それが寝言で、マチルダが夢を見ているだけなのだと気がつくまで、ネロは背筋をいまだに凍えさせる恐怖と、眼前に突如として差し出された禁断のボーナスステージの狭間で、暴走寸前となった理性の手綱をひっぱるのに渾身の力を振り絞らねばならなかった。


 歩く鋼鉄の処女アイアンメイデン──ネロにとってのマチルダはまさにそれだった。

 いや、彼女がただの町娘であるなら、ネロもこれほど躊躇しなかっただろう。


 十六歳の女のコとはいえ相手は聖堂騎士である。

 エクストラム法王庁は戦士階級である聖堂騎士とその上位者たる聖騎士に限り、聖職者の婚姻を認めている。

 それはもちろん《スピンドル能力》の発現が血統に依存しているからであるのだが、婚姻を認めるということと姦淫を認めることは違う。

 いやむしろ、結婚を認めているからこそ、不純な異性交遊には大変厳しい。

 社会的な規範としての部分と、やはり《スピンドル能力》の発現に関わる両面からである。

 間違っても、いや、たとえ本人が許してくれても、けっして触れてはならぬ聖域の花──それがマチルダであった。


 けれども、ろくに火を焚くこともできない密造蔵の粗末なベッドでマチルダの体が冷えているのを実感したネロは、無下に抱擁を解くこともできない。

 季節は真冬である。

 ネロがここで眠るときには常にメルロがいてくれた。

 その肌の温もりでネロは生き延びてこれたと言っていい。


 放置はできなかった。


 どうしたものかと四苦八苦しながら身体を入れ替えたり姿勢を変えたりしていると、不意にランプの炎が消えた。

 直後に、ぎしり、となにかがネロの背中側に体重を預けてきた。

 ふわり、と薫るワインの匂い。


「め、るろ、さん?」

「ふん」っと、不機嫌なイヌが立てる鼻息のような返事がひとつ返ってきた。

 それだけで、ぴしり、と固まってしまったネロに、さらに追い討ちがやってきた。

 いままでどこに隠れていたのか、けだものの気配がした。

 それはネロの脇腹に飛び乗る。


 オオカミであった。まだ、ちいさな。チビカミ:ベルカである。


 女男女とひと括りにしたとき、どういう意味になるのか──そういう文字をネロは知っている。

 しかしいままさに状態は女女女男、ないし男女女女、あるいは女男女牝狼、である。

 そんな字はない。たぶん、読み方も。

 いや……ハーレム者? ネロの脳裏にもはやツッコミどころがどこなのか皆目わからない単語が飛来する。

 逃避していた。

 

 だが、それははじまりにすぎなかったのである。

 

 翌朝目覚めたマチルダから「ちゃんと聖務としての許可済みです」というお墨付きを見せてもらったまではよかったが、カバーストーリーを徹底するため、夫婦として過ごすことを強要されることになったからだ。


「いや、それ、ムリっス!」

「今日はいっしょにお買い物に行ってもらいます。旅装束の準備を、古着屋商に」

「あ、それぐらいなら」

「細々とした旅装と──武器は最低限しか持っていけませんから……関所で引っかかっちゃう……最悪、現地調達で」

「荷物持ちなら、まかせてください」

「ネロ、それ」

「?」

「敬語、いますぐやめてください。わたしが夫であるあなたに、は良いです。でも逆はダメ。マチルダ、と呼び捨てに。昨日してくださったみたいに」

「ふえっ?」

「はやく」

「ま、マチルダ」

「はいっ」

 なんでそんなにうれしそうなんだ、と呆気に取られたネロを追い討ちが襲う。

「今日も、明日も、わたしここに泊まりますから」

「いやいやいやいや、それ、マジでムリッ!」

「ネロ、これは任務として必要なんです。ちゃんと相手のことをわかっていないと、夫婦かどうかバレちゃう」

「だからっ、マチルダっ!! オレが、昨晩、どれだけ!」

「あ、目の下、クマが濃くなってる」

「濃くなるッ、つーの!」

「わたしが、酔っぱらってネロのベッドを占領してしまったせいですね?」


「それだけじゃなくて、オレがどんだけ──我慢してると思うんだッ!」

 耐えきれなくなって、ネロはついに叫んでしまう。

「我慢……わたし……そんなに我慢できない女ですか?」

 まるで、ネロに嫌われることが心の底から恐ろしい、そんな表情をマチルダはした。

 演技ではない。顔からも唇からも血の気が引いていた。


「いや、そうじゃなくて、逆だ、逆! マチルダ、アンタはいい娘すぎるんだよ。可愛らしすぎる。危ないって言ってんだ!」

「この任務が、ですか?」

 自らの聖堂騎士としての資質をなじられたのだと勘違いしたのだろう。マチルダが厳しい表情になる。

「ちがうくて、そうじゃなくて! ああー、もう、なんて言ったらいいんだ!」

 ニュアンスで汲み取ってもらおうとするあまり、伝わらない。というか、マチルダの純真さに、ネロはこの娘はほんとうに修道院で育てられた貴族子女なのではないか、と勘ぐるほどだ。

 あまりの歯がゆさに、ネロは地団駄を踏みながら歩き回る。

 だが、気がついた。いや、正確には決心したと言うべきだろう。

 ネロは決めた。この娘さんには、ハッキリと言わなければならないのだ、と。


 マチルダのために、だ。


 両肩を掴んで、瞳を見つめてネロは言った。

「オレが我慢しているのは、アンタを襲うということだ。ベッドに引きずり込んで、衣装をひん剥いて、オレの下で泣かせることを、だ!」

 ネロはマチルダが全身の毛をざわざわざわっ、と逆立てるのを見た。

 当然だ。こんなことを男に面と向かって言われたら、誰だって嫌悪感からそうなる。


「じゃあ、じゃあ、なぜ、なぜ、昨晩はなにもしなかったんですか!」

 ぶるるっ、と怒りにだろう身を震わせながらマチルダが訊いた。

「だから、我慢してると言っただろ!」

「あなたはなにも答えていない!」

 どうして欲望のままにしなかったのか──マチルダはそう訊いたのだ。

「わたしは無防備だったでしょう? お酒を飲んで、前後不覚だった。知ってます。わたしは、ワインを二杯も飲んだら、眠ってしまう! 知ってて飲んだんです。わかってた。ちゃんと、自分で!」

 それなのに、どうしてですか! 厳しく警告しているのは自分のハズなのに、なぜか鋭く詰問されてネロはたじろく。

 どうしてこうなったのか、わからない。


「いや、だから、それは……」

「答えて! ちゃんと答えてください!」

 なぜか涙目で迫られた。予期せぬ立場の逆転。ネロは必死に理由を探す。


「そりゃ……き、決まってるだろ、聖堂騎士さまに手を出したスパイラルベインの末路なんて……さ」

「それが理由なら、あなたは我慢できるはずです。そんなことが理由なら! わたしが聞きたいのは、そんなことじゃない!」

 我慢した理由・・・・・・我慢できなくなる理由・・・・・・・・・・は違う、とマチルダは言うのだ。

「はっきり──はっきり答えてください!」

「だからッ!」

 マチルダの必死の剣幕に、追いつめられてネロはついに本音を明かしてしまう。


「アンタは可愛らしすぎるんだ。美しくて、純粋で、未来を嘱望されている。オレは、アンタの未来を邪魔したくない。汚したくないんだ」


 わかってくれ。ほとんど叫ぶようにネロは告げた。


「それは……大切ってことですか? 大切に想ってくれている、ってそういうことですか?」

「ああ、そうだ。そうだよっ、わかったか──畜生!」

 突き飛ばすようにマチルダから手を離し、吐き捨ててネロは穴蔵に戻った。


「わかりました」

 俯いたマチルダが、全身を真っ赤にしてそれだけ言うのを背中に聞いた。


 暗がりをこそついてきた生き物が、陽の光にひるむように、オレにはまぶしすぎる光だとネロは思った。

 それ以上に、光溢れる場所に息づく美しい生き物を「大事だ」と告げてしまった自分を恥じていた。

 ただ、わかってもらえただろう。

 伝わったはずだ。

 それだけは確かだと思った。

 

 伝わっていた。

 理解もされていた。

 ただ、ネロは勘違いしていたのである。

 マチルダは怒っていたのではなかった。

 毛を逆立てるほどの感情の動きは、怒りは、涙は。

 その意味は。

 

 ネロはぜんぜんわかっていなかったのである。

 

 穴蔵に逃げ帰り、残っていたワインを水差しから直接飲んだネロはベッドに腰掛け寝直そうと思った。

 寝不足だったこともあるが、気が高ぶりすぎておかしくなりそうだったのだ。

 だが、ベッドに潜り込むよりも早く腕をつかまれた。

 メルロでは、ない。

 むろん、ベルカにも無理だ。


 マチルダである。


 凄い勢いで、無言のまま密造蔵のドアである布を潜ると、精いっぱい大股で歩いてきてネロの腕を取ったのだ。

 そのまま、胸に抱きかかえ、ネロを引きずるように外へ連れ出す。

「いやっ、あのっ、ちょっとっ?!」

「ネロが卑怯だからいけないんですっ、あんなふうに言われたらっ、だれだって、こうなります! ネロが悪いんですからねっ!」

 この華奢な肉体のどこからそんなパワーが生み出されるのだろう。ネロをぐいぐいと引っ張って、マチルダはどんどん歩いていく。


「なっちゃえばいいだけじゃないですか、聖堂騎士に。そしたら、そしたら、なんにも問題ないじゃないですか」

 とんでもないことをマチルダは断言する。


 なにこれ《スピンドル》?! 乙女チックドライヴ?! ネロは思う。

 引きずられたままでは格好がつかないし、雪解けでぬかるんだ丘の道は滑って危ないから並んで歩きはじめても、マチルダはネロの手を放してくれなかった。


 大切なたいせつなものを、決して手放さないとでもいうように。

 その瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていて、顔は真っ赤で。

 それなのに、どうしてだろうか、ちっとも悲しそうではなくて。

 その理由を、ついにネロは訊けなかった。

 

 とまあ、そんな感じで、シュクレーまでの道中もいろいろあったのだが、割愛する。


 まあ、それだけではいかにもひどいので、見出しだけ書き出しておこう。

 まず、人目のないところではかならず手を握られた。

 食事とおやつは、かかさず手ずからのものを提供された。

 耳かきされたり、膝枕された。

 同衾をお願いされたり、温泉地では背中を洗ってもらったりした。

 端的に言えば、甘やかされ、ある意味で甘えられたりした。

 

 結果的にメルロとベルカからの凄まじい悋気を向けられ、マチルダの目の届かない場所では強烈に甘えられた。

 

 爆発するのではないか、とネロは思う。

 オレは爆発してしまうのではないか、と思うのだ。

 近々。いろいろな意味で。

 

 もちろん、甘やかされたり甘えられたりと、そんなことばかりしていたのではない。

 任務遂行のための策を練りながらの巡礼行だ。

 その合間合間に、マチルダは己の過去を話してくれた。

 

 知っておいてほしい、と。

 



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