優しすぎる風景(2)
ハーブティーを飲みながら、ネロは全身の傷を治療された。
オリーブオイルとラードに十数種の薬草を調合して作ったのだという膏薬を、マチルダが塗ってくれた。
事前消毒は、ネロの自家製グラッパで行う。
「傷だらけ……こんなに大きな……」
ネロからすると己の肌に、十代の女性の指が触れるというのはかなり緊張するシチュエーションなのだが、当のマチルダはネロの肉体に残る無数の傷跡に心を痛めたようだった。
そういえば、どてっ腹に大穴を開けて生還したばかりである。いくら、人狼の再生能力をベルカが貸してくれたとはいえ、残る傷は残る。人体なのだ。
「こんな稼業をしていれば、多かれ少なかれ、こんなもんだと……思いますよ」
謙遜ではなく、事実としてネロは言った。
騎士としてか、スパイラルベインのような裏稼業であるかは問わず、修羅場を潜り抜けて生還するとはそういうことだと。
「わたしは、甘やかされていますね」
背中の傷に膏薬を塗り込んでくれていたマチルダが良心の呵責に耐えられない、という様子でつぶやいた。
「ほんとに、もうしわけないです」
背中に両手が当てられ、それから額が預けられるのをネロは感じた。
マチルダは己を恥じていたのだ。
なぜマチルダがこれほど恥じ入るのか、ネロにはわからない。たぶんそれなりの事情があるのだとは推測できても、かけるべき言葉がない。
「あ、あのレディ・トレト、そのう」
だから、道徳的な方向に訴えかけることで場の雰囲気を変えにかかった。
なんというか、ここは密造蔵であり、いわば密室であり、ランプの頼りない明かりの下で、半裸の男の背中にうら若い乙女が額を寄せているという状況は、いかにもまずい。
間違いが起ころうと起きまいと、世間的にはかなりまずい画面である。
ネロの指摘で、マチルダもやっとそれに気がついたらしい。
ばっ、と飛び退く気配があった。
男的には残念な、しかし、ド底辺とはいえ社会的存在であるネロとしては、ほっと胸をなでおろす場面転換ではある。
「レディ、その、任務としての用件はわかりました。が、ここであなたとふたりきりは、いかにもまずい。オレ、いや、わたしはともかく、あなたは社会的立場のある方です。お話は、外でうかがいます」
朝食からのなりゆきでこうなってしまったが、ネロはあらためてマチルダに道徳を説いた。
もちろん、この密造蔵にはメルロが潜んでいるわけで、詮索されることは致命的だったこともある。
だが、それ以上にネロは本気でマチルダを心配したのだ。
十六歳で聖堂騎士に抜擢されるような天才の経歴に、自分のような男が、たとえ事実無根であっても傷をつけてはならないと。
それは薄汚い謀によって人生の落後者に追いやられたネロ自身の経験による。
「わたしを、気遣ってくださるのですか」
そして、マチルダはネロの忠告の真意を汲み取る聡明さの持ち主だった。
だから、ネロはあえて下卑た物言いをした。
「女日照りで飢えたド底辺の男とこんな穴蔵でふたりきり。やることはひとつって話さ。危ない橋を渡るんだ。拝病騎士相手だ。もしかしなくても死ぬかもしらん。どうせ死ぬなら、アンタみたいな女を手折って死にたい。そう考えるって話さ」
ネロの言葉に、マチルダが息を呑むのが聞こえた。
あー、こりゃ嫌われたな、とネロは確信する。
しかし、それでよかった。
高潔な騎士と勘違いされたまま関係を発展させても、どこかでメッキははげ落ちる。
線引きはどこかで必要だと思った。それがマチルダのためだ。
「そういう目で、わたしを見ていたんですか」
震える声がした。
「しかたない。そんなの目の前にぶら下げられたら、たいていの男はそうなる」
背を向けたまま、ネロはあいまいに球体を掴むような仕草をした。自分でも思うが最低の方法だ。
また息を飲む音がした。
つかつかと、靴音速く歩み去る気配。
マチルダは密造蔵を去った。
ネロはため息をつき、上着をまとうと寝台にごろりと横たわる。
軽蔑されただろう。けれども、これでよかった。あの娘は純真すぎる。
あのまま、だれも世のなかのどうしようもなさを教えなければ、致命的な失敗をしでかしたに違いない。
満腹と昨日までの疲れ、今朝の騒動に、もしかしたらハーブティーの効能かもしれない。
ネロはそのまま、微睡んでしまう。
どこからか漂ってくるよい匂いを嗅いだ気がして、ネロは目覚めた。
ぐぐぐーと鳴ったのは、腹か、あるいはその上で寝こけていたベルカか。
「んあ?」
身を起こすと節々に溜まっていた疲れが浮いたように、身体が火照っていてだるかった。
寝たはずなのに眠気が去らないのは身体が回復のための休息を欲している証拠だ。
異能の行使に伴う代償とその回復を肉体が求めている──マチルダの指摘の通りだった。
喉の渇きを覚えたネロは半身を起こす。
それで、室内に満ちるうまそうな匂いが幻覚ではないことを知った。
匂いは屋外から流れてくる。
まさか、朝の騒動に触発されてメルロが料理に挑戦している、とかそういうやつか。
ネロはそう考え、だとしたらこの匂いは成功だとも思う。
失敗作は薫りの段階で、だいたいわかるからだ。
しかし、その直後に飛び込んできた声と料理と人物に、そのすべての予想が覆された。
マチルダだったからだ。
「おはようございます、ネロ。もう昼下がりですよ?」
屈託も警戒心もないあの笑顔でマチルダが言った。
ネロは寝起きで、予想だにできない状況にアホ面をさらす。
それがまた、マチルダを笑顔にさせる。
「な、な、なんで?!」
「もしかして、わたしを怒らせたと思われたんですか?」
ふふふっ、とちいさく笑いながらマチルダが料理を……いつのまにか新品のテーブルクロスまでかけられた食卓に置く。
チーズを使ったジャガイモのニョッキだ。
ニョッキとは生パスタの一種で、今日のものはそこにジャガイモを練り込んである。
材料を練って合わせ茹でれば完成するため、農民たちの食卓には、この手のヌードル類はかなり頻繁にのぼる。パンのように発酵時間や専用のかまどを必要としない利点が大きいのだ。
そこにハードチーズをたっぷりと削りかけたこれは、単純だが、だからこそ暴力的に空腹に訴えかけるパワーがあった。
「めしあがれ」
飯を食い、茶を飲んで横になり、目が覚めるともう次の食事が用意されている──いつか夢想した、いや男であれば一度は夢想する安楽な暮らしが、眼前に現実として現出したことをネロはまだ信じられず、水差しから水を一杯飲んだ。
「どゆこと……です?」
「今日から三日間、三食におやつまで、わたしがお世話します」
「???」
「断ろうとしたり、嫌われようとしても無駄です。これはあなたにとっては任務であり、わたしにとっては聖務なんですから」
話が見えず、ネロは混乱した。うまく軽蔑されたはずが(?)、どこの時点で道を間違えたのか……三食昼寝おやつ付きで甘やかされることになっている。
「聖務?」
「依頼の件です。任務」
よくわからなくて、ネロは水をもう一杯がぶり、とやる。
「レディ・トレト、いや、あのな──マチルダ」
話の流れにネロは頭痛を覚え、思わずマチルダを愛称で呼んでしまった。
そのとたん、マチルダの顔がぱあっ、とまたあの抗いがたい笑顔になった。
なんで、とネロは呆然とする。するしかない。
「オレは、アンタを襲うかもしれない、っていっているんだぜ?」
指さして、どもりながらもネロは言った。基本的に女性は敬うべきもの、というのがネロの信条であったから、これはかなり勇気のいる発言だったのだ。
「わたしはあなたを犯罪者になどさせません」
けれどもマチルダから帰ってきた言葉は唐突で、取り方によっては世間知らずな傲慢だった。喧嘩を売っている、と言い換えたらわかりやすいだろうか。
下手をしたら売り言葉に買い言葉どころか、行動を誘発しかねない危険さだ。
もちろん、ネロはそんなに安くはない。
安くはないから、言葉で指摘する。あぶないぞ、と。
「もし、そうなっても、オレ程度問題なく取り押さえられる、ってか?」
「そうではなく」
犯罪は成立しない、とわたしは言っているんです。マチルダはネロの目を見て続けた。
逆に訊きますけれど、と。
「襲いたいですか? わたしを? 奪いたい、と想ってくれている。そういう意味ですか?」
ネロは混乱して目をしばたたかせた。
寝起きのせいなのか、マチルダの主張の要旨がわからなくて言葉が出ない。
端的に言えば圧倒されていたのである。
「答えてください!」
「ア、アッハイ」
気圧されてネロは答えてしまう。
その答えに、こ、こくりっとしゃちほこばった感じでマチルダは頷く。
論理的な口調で、理屈を説いた。いや、説こうとした。
「なるほど。では、こういうことです。あなたはわたしを奪いたいと仰り、それを直接、口頭で確認したにも関わらずですね、わたしは……こうして、ご飯をつくりに……この場合、犯罪が成立するには、相手の不同意があってはじめて、ですね……つまり」
つまり、ともう一度言ったマチルダの白い肌がみるみる朱に染まる。
ネロッ、と尻すぼみに消えていくセリフの彼方から、意を決したようにマチルダが吼えた。
醸成されてしまった空気を誤魔化すように。
「ワインをッ!! お酒を飲みましょう! 出してください、お酒ッ! あなたの醸したッ!!」
「えええええええええええええええええ!」
「任務に使用されるお酒の吟味、調査、これもまた任務! 聖なる任務なんです!」
赤面し涙目になったマチルダに物凄い剣幕で迫られ、ネロは頷かざるを得ない。
大振りな水差し(カラフェ)を抱え、よろめきながら地下の密造蔵へ降りていく。
いっぽう己の発言の重大さをいまごろ本当の意味で理解したのか、マチルダは俯いて真っ赤になったまま身じろぎひとつせず、ただ早く行けと指さすだけだった。
※
「どーいうことじゃ! あの娘、また戻ってきたじゃないかえ!」
酒蔵でワインを移していたネロに、メルロが噛みついた。
「しー! しー! 聞こえる聞こえる!」
慌ててネロはメルロの口を塞いだ。
こんな現場に踏み込まれたら破滅するしかない。
「だってだってだって!」
ネロの手を逃れたメルロがひしっと身を寄せて小声で言った。
「あやつ、まるで、ネロの奥さんみたいに! ひどい、わしが、わしが!」
たぶん、ネロが危惧しているところと微妙に論点が違っているはずなのだが、ネロにはメルロの気持ちがわかった。
というか、男的にはこれはうれしい困り具合なのだが……。
「嫌われるように仕向けたつもりなんだけどな」
「おまえさまは、優し過ぎるのじゃ! あれでは逆効果。惚れてしまうにきまっておろうが!」
たぶん、メルロのネロに対する評価は、思い出補正によって片寄ってはいるとは思うのだが、たしかに騎士物語の主人公としてネロを見ているマチルダには逆効果かもしれなかった。
大事にされている、と思わせてしまったかも、だ。
いや、大事にはしているのだ。
だからこそ、ややこしい。あー、もうッ、というやつである。
「これ……どうしたらいいんだ」
「もはや、実際に襲うしかあるまい!」
「いや、だから、それはまずいって!」
「イヤらしく、ゲスなかんじで! 本性丸出しのケダモノだものって感じで迫ればよい! メチャクチャにしてやればよいのじゃ!」
なにか描写に困る感じでメルロが指をわきわきさせながら、とんでもない主張をした。
「いや、それ……終わるから、オレが」
「なんとなれば、わしが、こう異能でじゃな」
「うまくいったら、まずいんだって!」
マチルダの態度を思い出して、ネロは汗をかく。
「とにかく、なにか考えるよ。だから、もうしばらく、ここにいてくれ。な? な?」
「呑んでよいか」
その間、呑んだくれてよいか、と問われた
「さもないと狂いそうじゃ──寂しくて」
ほんとうに寂しそうに言われると承諾せざるを得ないネロである。
「わかった。好きなだけ、呑んでいい」
あまり時間をかけると料理を前に待っているマチルダが、いぶかしんでここへ踏み込んでくるかもしれない。
ネロは水差しにワインを注ぎ終えると、そそくさと上階に戻ろうとした。
そこで肘をつかまれた。
振り返ると、口づけされた。必死の、噛みつくようなキスだった。
「メルロは、おまえさまのものだからな!」
小声だったが、断言された。
またもやよろめきながら、ネロは階段を上る。




