優しすぎる風景(1)
「もしもし──もし?」
翌朝、朝陽とともに密造蔵を訪った人物に、ネロはバク宙をキメそうになっていた。
立っていた。亜麻色の髪を結い上げ、どこの若奥様かというようないでたちで。聖堂騎士が。
マチルダである。
「あ? えと。お、おはようございます」
ネロの反応は踏みつけた霜柱の感触のように、ぼきりぼきりと、ぎこちなかった。
「あれ? た、たしか、任務の前に三日の準備期間があると……うかがっていたのですが……」
「はい。ですから、わたしがこちらに出向いて参りました」
「はい?」
「今回の任務に必要な道具類の買い出しや、背景設定への熟練、それに疲労を回復させて、人的ミスの因子を除去しなくては」
「人的ミスの因子?」
「ネロ──あなたは、昨日の明け方まで予期せぬ戦闘状態にいたんですよ? 《スピンドル能力》の行使が代償を求めることはご存知のはず。かわいそうに、こんなにやつれて……目の下にもクマがあります」
あの狭苦しい取調室から離れ、死刑執行人の装束ではなく、こうして眼前にするとマチルダはいっそう小柄に見えた。
それなりに長身のネロは、だからすこし身を屈めて目線を合わせなければならない。
昨日は戻るなりメルロとの大人の事情にもつれ込んでしまったネロだから、無精ヒゲは伸び放題、寝癖はつき放題である。
加えて大人の事情的にも連日連夜の連戦というわけで……まことに説明しづらいが、消耗はたしかにあった。
「それに……ネロ ッ?! その傷は?!」
起き抜けの突然の来訪者に、着衣は下半身だけ、毛布をまとっただけの姿で応じたネロである。
その隙間からのぞく肉体は無駄な肉などなく引き締まった戦士のものであったが、同時に生々しい傷跡が無数にあった。
いや、これはアレである。トーポやムッカとやりあったときのものではない。それ以降にメルロにつけられた……なんというか甘噛み的なサムシングである。
「いやっ、これは、大したことではっ」
そう言ったとたん、ネロは盛大にくしゃみした。寒かったのである。
「ともかく、服を着てください。傷はすぐに治療します」
それに、とマチルダが言いかけたところで、こんどは大きく腹が鳴った。もちろんネロのものだ。よく考えると、昨日はろくに食事もしていない気がする。
「すぐにご飯もつくっちゃいますから!」
ネロの生理的反応に、マチルダはにっこり笑うと、抱えてきた買い物篭を掲げて見せた。
この時代のそれは、ヤナギやブドウの樹皮を利用して編まれたものである。
マチルダの使うそれはかなり年季の入ったもので、使い込みによってくたびれてはいたが、同時に光沢を帯びて、持ち主の性格をよく現していた。
物を大事にし、自分の足で市場に通う──そういう家庭的で愛情に溢れた人格を、だ。
聖堂騎士といえばその大半が貴族か、事業に成功した商人・富農の子息であることが多かったから、なかなかこういうタイプは珍しい。
マチルデルニ、という名前からネロは彼女は貴族の娘だと思っていた。
平民は愛称も本名も関係なく……たとえば「ネロ」は「ネロ」でしかないように名付けられる世界であったから、マチルダの名は、すくなくとも大商人の娘かそれ以上の出身であろうとネロに推測させたものだ。
結婚が家同士の結びつきによって取り決められる貴族や大商人の世界にあって、マチルダのような器量よしが聖堂騎士団の門を潜るというのは、もう理由はひとつしか考えられない。
つまり《スピンドル能力》の発現である。
それは支配者階級の義務であり、誉れであり、もし下級貴族であったのなら家の格を上げる千載一遇のチャンスであったろうから──そういう事情かとも思った。
だが、ネロに調理に使っている巨大アーチ下の場所を聞き出すや、腕まくりをして向かう後ろ姿からは、とてもではないが貴族息女のオーラは感じられなかった。
「着替えたら、フライパンか鍋を持ってきてください」
そう言われて、自らのいでたちのだらしなさを自覚したネロは、そそくさと穴蔵に取って返し、様子をうかがっていたメルロに報告した。
「来た」
「?」
「来ちゃったよ」
「だれがじゃ? なにがじゃ?」
「上司上司、昨日話した、聖堂騎士!」
「な、なにいッ?!」
「どーするどーする、オレならどーする?!」
あまりの状況に錯乱してネロは言った。
ハッキリ言って想定外である。
十歳年下の美少女上司による、絶対秘密の美人妻との愛の密造蔵への聖域なき抜き打ち査察!
脳内で組み上がった悪文が、ネロの混乱具合を如実に表している。
「と、とりあえず、メルロ、か、隠れてくれっ!」
「お、おう」
バタバタと乱れきった寝床を直し、あれこれと証拠隠滅を計ったネロは上着を羽織り、フライパンを握って外へ出た。
慌てたせいでこけつ転びつ大アーチに向かえば、すっかり準備を整えたマチルダがいた。
野菜は洗い終えられ、がれきを利用したかまどにはもうすっかり火が熾きていた。
調理台に使っている古いテーブルの上に、ずらり、と食材がならんでいる。
ぶ厚いパンチェッタがひとかたまり、新鮮な鶏卵。焼き立てのパーネにブッロがこれもひとかたまり。寒ざらしで葉は縮んでしまっていてもその分、美味しさが凝縮され甘味の増したスピナチョに、こちらも冬が旬のチコリの仲間:ラディッキォの晩成種。
特に珍しくもない食材ばかりだが、食事といえば自炊か、安酒場での間に合わせのような生活を続けてきたネロである。
きらきらとした食卓の風景に、後光を幻視するくらいには飢えていたのだ。
ネロからフライパンを受け取ると、マチルダは手際よくそれらを使って朝食をこしらえはじめた。
「寒いから、家で待っていてください」
そうマチルダは言ったが、ネロは薪用に確保しておいたブナの幹に腰掛けると、その後ろ姿にまたも見入ってしまった。
エプロンと頭巾をし、てきぱきと調理をこなしていく女のコの後ろ姿は、なんというか男的にはたまらないしあわせを喚起させるらしい。
とりおり、振り向いたマチルダと目が合ったが、彼女ははにかんだようにニコッと微笑むと、調理を続けた。
「もうできちゃいますから──食卓の準備しちゃってください!」
そう促され、ネロはパンを小脇に、自宅である密造蔵に戻った。
イダレイア半島ではパンを切り分けるのは男の仕事と相場は決っている。
皿を並べ、パンにナイフを入れるのと、マチルダがまだ音を立てるフライパンを持って入ってくるのは同時だった。
ぶ厚いベーコンとそこから滲んだ脂で焼き上げた卵焼きに、ホウレンソウとラディッキォのバターソテー。大振りなフライパンをうまく使っての調理だ。手慣れている。
「えへへ、ずぼらしちゃいました」
ミトンを外し、頭巾とエプロンを解きながらマチルダが言った。
その笑顔に、ネロは胸を射貫かれる。
ビーム的な、《フォーカス》的な、マグナムな衝撃である。
「めしあがれ」
と、マチルダが言うが早いか、ネロは眼前の食事に喰らいついていた。
食前の聖イクスへの祈りどころか、いただきますの言葉さえ前略中略後略の食いっぷりであった。
旨かった。唸るほど旨かった。
たぶん、食材的には、まったく一般的なものであったはずだ。
だが、料理というものはそれだけで出来てはいないのだと、ネロは改めて思った。
だれかが、自分のためだけにこしらえてくれた料理とは──自炊歴のやたらに長い男の涙腺は感慨に崩壊しそうになる。
魔法かッ、奇跡かッ、と吼えそうになる。
思えばメルロは夜魔の貴種であったから、調理などからっきしであったし、従士時代は外食ではなくこれまた自炊メインの男であったわけで……。
気がつけば、フライパンを舐める勢いで平らげてしまった。
マチルダの分を取り分けるという、食卓における男のもうひとつの仕事を完全にすっぽかしたまま。
「あ」
それに気がついたのは、ベーコンの最後の一切れを口に運びかけた瞬間だった。
「あ、これ……」
「いかがでしたか?」
一心不乱に朝食を貪り喰うネロの姿を、ニコニコと笑いながら、心の底からしあわせそうに眺めていたマチルダが小首を傾げて訊いた。
「さ、最高でした」
我ながら、間の抜けた解答だと思いながら、ネロはナイフで突き刺したままのベーコンを口中に放り込んだ。
「お腹は満たされましたか?」
「ええ、ええ、それはもう」
「お茶でも入れますね」
「いや、あのその、おかまいなく」
「ネロ」
「なんでしょう」
「お口のところ、卵の黄身がついてます」
言いながら立ち上がったマチルダが食卓の向こう側から手を伸ばして、ネロの口まわりについたそれを指先で拭った。
そのまま、舐める。
「じゃ、お湯を沸かしてきます」
言い置いてふたたび調理場に向かうマチルダの後ろ姿を、ネロは追えなかった。
やわらかな指先の感触と、桜色の唇、眼前で揺れた豊かな胸乳の残像に釘付けになって。




