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《夢》は試みる

 

「シュクレー修道院への潜入任務?」

 話の急展開にネロはオウム返しに言った。


「先だって聖堂騎士団に提出された技術レポート、そして、今回の事件への対処能力──それに、従士隊での評価。あなたはとても優秀だと、判断せざるを得ません」

 査問官と書記官どころかナッシュヴルフまでも退出させた彼女は、自らの身分を明かした。


「聖堂騎士団……調律師会チューナーズ?」

「の、マチルデルニ・トレトです。よろしく、ネロ・ダーヴォラ」

 聞いたことがなかった。彼女の名だけではない。ネロの知る聖堂騎士団にそのような部署はない。いや、正確にはなかった。


「申し訳ない。この調律師会チューナーズというのは?」

「あなたが知らなくても当然のことです、ネロ。発足してからまだ、半年ほどですから」

 聖騎士団の下部組織である聖堂騎士団のなかで、特に選ばれた精鋭、それも《スピンドル能力者》だけを厳選して結成された……いわば準聖騎士のような部隊なのだ、とマチルダは教えてくれた。


 それにしても、驚いたのはネロである。

 なにしろ、とにかくマチルダは若かった。聞けば、なんとまだ十六だという。成人したばかりではないか。


「それで、もう……聖堂騎士団?」

 めまいがした。なにしろ、ネロはもう二十五だ。うっかりすれば、十歳も年下ではないか。

 その彼女が聖堂騎士。

 いっぽうのネロはと言えば、機会を逸したばかりか、いまやスパイラルベインの裏稼業。


 いや、騎士叙任は二十代半ばで受けれたなら、それはもう充分に秀才の域であり、ネロはそこに合格しかけたわけだからして、つまり相当なものなのだが……。


「じゅ、十六歳?!」

「は、はい」

 まじまじと彼女を凝視して、あらためてネロは問い直してしまった。ネロの知る限り、そんな年齢で聖堂騎士に昇格したのは二人しかいない。


 天才:アシュレダウ・バラージェと、その許嫁にして“聖泉の使徒”と謳われたジゼルテレジア・オーべルニュ。


 聖堂騎士に求められるのは乗馬と戦闘技能だけではない。語学を始めとする知識・教養、戦略眼に戦術論、指揮官としての才覚に加えて宮廷での礼儀作法。場合によっては医学、薬学の知識さえ求められる。

 寸暇を惜しんでそれらの習得に励んでも、簡単には突破できない関門がいくつもある。

 今回も合格者なし──そんな結果が当たり前の世界をネロは生きてきたのだ。


 それを、こんな少女が……こんなにもあっさりと。


 ひとことでは言い表せぬ感情のうねりが、ネロの胸中でのたくった。視界の暗転を感じた。届かなかった《夢》の場所への未練がまだ自分のなかにあったことを知り、ネロは動揺していたのである。

 けれども、そんなネロの驚愕と落胆を目の前にしたマチルダは笑ったのだ。

 嘲笑ではなく、むしろ、逆で。ああ、このひとは信頼できるんだ、という感じで。

 安堵と共感の笑みを浮かべたのだ。

 燻る想いが表情に出ていたことを知り、あわててネロは顔を拭った。


「安心してください、ネロ。わたしは秀才でも天才でもありません。ただ、《スピンドル能力者》として開花したという、ただそれだけの理由で見出されたのに過ぎないのです」

 ネロの心中を読んだかのようにマチルダは言った。

「いや、レディ・トレト。オレ、いいえ、わたしは……」

「いいえ、ネロ。あなたがどれほど懸命に聖堂騎士を目指されていたかは、すでに充分に調べてあります。そして、その実力が叙任に足るものであることも。ここに、あなたの最後の昇格試験、その採点表があります。あなたを襲った理不尽な出来事さえなければ、どんな成績で試験を通過していたのか。それがすべて、ここではつまびらかです」


 ためらい、言いよどむネロに、マチルダは一枚の羊皮紙を差し出した。

 きっと聖堂騎士団内の内部文章保管庫にあったであろうそれは、いつか悪友:グレコが語った「最終試験結果」に相違なかった。封蝋はすでに一部が剥げ落ちていたが、そこに押された紋章は、間違いなく法王庁のものだ。

 卓上に差し出されたそれに手が震えた。伸ばしかけて、まるで焼けた鉄に触れたかのようにネロは指を引っ込める。


「どうされたのですか? たしかめてごらんなさい」

 優しく、まるで年上の女性であるかのようにマチルダが促す。

 気がつけば、ネロは巻物状にされていた採点結果を広げて、貪るように読んでいた。


 一般教養の結果があった。礼儀作法の結果があった。戦略・戦術論の結果があった。乗馬技術の結果があった。選択科目である錬金学と考古学の結果があった。苦手だった戦技の結果が……あった。


 総合評価Aマイナス。

 それはギリギリだが、ネロが聖堂騎士の試験に受かっていたことをハッキリと示していた。

 戦技にやや難あるものの持久力は平均以上。錬金学に抜群の素養あり。《スピンドル能力者》。

 特記事項に記された簡潔な文面さえも、ネロには賛辞に思えた。

 受かっていた。本当に──基準に達していた。


 ぼろろ、とその瞬間、ネロの双眸から予期せぬ、しかし熱い涙がこぼれ落ちていた。

 不謹慎だとはわかっていた。十歳も年下の、それも己の上司にあたる騎士の前で泣くことが男としてどんなに恥ずべきことかも知っていた。

 それでも涙が、止まらない。止められなかった。


「オレは……オレは……」

 騎士だった。憧れ続け、求め続けた騎士だった。

 騎士だったんだ。

 

 食いしばった口元から、唾液とともに唸るような嗚咽が漏れた。手のなかで羊皮紙を握りつぶす。

 そのとき胸中に吹き荒れた嵐を、なんと名付けたらよかったのだろう。

 高揚と悔しさの入り交じった──あまりに儚い栄光と、もはや取り戻せない──挫折の。


 だからもしマチルダが起こした行動がなければ、ネロはしばらく立ち上がれなかったかもしれない。

 抱きしめられた。柔らかで、豊かな胸に。ギュッと、強く。

 なにが起きたのか、ネロにはわからなかった。混乱して顔を上げると、すぐ近くにマチルダの吐息を感じた。


 慈しむようにマチルダはネロの頭部を腕に抱いていたのだ。

 そっと無言で頭を撫でられた。

 途端にあの衝動的な感情がぶり返して、ネロは泣いてしまう。いつの間にか強くマチルダを抱きしめて。


 忘れていたはずだった。諦めたはずだった。もう未練などないはずだった。そう自分でも思っていた。

 違った。そうではなかったのだ。

 それはまだ、ネロの胸の奥でずっとずっと燻り続けていたのだ。残り火のように。

 ネロは騎士になりたかった──《夢》だったのだ。


 どれくらいそうしていただろう。

 抱擁を解いたのはネロからだった。


「あの……すみません……もう、大丈夫です」

 我に返ると、どうしようもなく気恥ずかしくなって、声が上ずる。十歳も年下の女のコに慰めてもらっていたのだという自覚から、正体のわからない汗が噴き出した。

「あ、えっ、わっ、あっあのっあのっ、わ、わたしこそ、ごめんなさいっ」

 慌てて突き飛ばすわけにもいかないから、両手をあげて降参のポーズを取っていたネロに、マチルダが気がついたのはしばらくしてからだった。

 飛び退くように離れると、マチルダは急角度に頭を下げて謝罪した。


「わたし、なにしてんだろっ。ほんとに、ほんとうにごめんなさいっ。こう、胸がきゅうってなってしまって、抱きしめてあげなきゃって。ほんと、ほんとに、ごめんなさいっ」

 雪のように真っ白い肌が上気して耳まで赤く染まっていた。


 かわいい、と不覚にもネロは思ってしまう。

 改めて見ると、マチルダは垂れ目がちで家庭的な雰囲気の女のコだった。華奢な肉体は筋肉質というより柔らかく、おそらくだが剣はまともに使えまい。

 それは手を見ればわかる。掌の硬さも、手首の太さも、どう見ても戦士のものではない。どちらかというと守ってあげたくなるような、かわいい町娘という雰囲気の持ち主だった。

 いや、ふつうの町娘だって、こんなに無防備に、初対面の男を抱きしめて慰めたりはしないだろう。


 このは、ほんとうに聖堂騎士なのか。

 そして、大丈夫なのか──ひとりにしてはダメなのではないか。

 ネロは思う。


「話を、もどっ、戻しましょう!」

 顔を真っ赤にしたまま、机を叩いてマチルダが言った。

 



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