うつわとこころ
メルロと出会い、その正体を知った春の夜以来、ネロは〈ジャグリルズ〉=低俗な怨念・残留思念の焼き付いている場所に、鳴子を仕掛けて回った。
長雨や嵐の後など、また定期的にも見回らなければならないのだが、それでも再び、従士隊の面々が陥った事態=ゴブリン化のような事件に発展するよりマシだと、ネロなりに考えたのである。
つまり、自発的にこの遺跡群の守人的行動を起こしていたのと解釈してもらえれば、これは間違いないことであろう。
さいわい、あの事件以来、被害は出ていない。
だが、そこへ、こともあろうに《スピンドル》能力者が入り込んだ。
しかも、粗悪な酒で勢いがついていたところを、人狼の咆哮で肝を潰されて。
最低な予感がした。
「まずいな」
「〈ジャグリルズ〉と、言ったか――ぬう、たしかに、ここへの道すがら醜悪な気配を放つ場所がいくつかあったが――正気の者なら決して立ち入るまいに」
「前もそうだった――最低な酒でおかしくなった連中が……たぶん、アレは十字軍への従軍義務の恐怖を酒で紛らわそうとしたんだ――足を踏み入れて低級妖魔化=ゴブリン化した」
「それでは……」
「やつらは低レベルなりとはいえ《スピンドル》能力者だ……滅多なことでは、と思っていたんだが」
どうするのか、とカダシュが目で問うた。
一瞬、ネロは逡巡する。
それから、いこう、と言い切った。
「やつらがどうなったのか、無事逃げおおせたのか、それともヤバイ事態にことが発展してるのか……いずれにせよ確かめなきゃならん」
ここはオレのシマだ。ネロは立ち上がった。
うむ、とカダシュが頷いた。
縄張りを守る、というネロの考えは、人狼的に多いに納得できるものだったのであろう。
「メルロ、すまないが、火を見ていてくれ――酒を頼む」
「えっ、わ、わしがか?」
「この暗闇のなか、オレがやつらに追いつくにはカダシュの協力が必要だ。大丈夫だ。もうすぐしたら最初の酒が出てくる。そしたら、火を弱めて――出始めの酒だけは別の容器へよけておいてくれ」
ネロは簡潔に指示を飛ばす。
ただトーポとムッカの消息を確かめるだけなら、カダシュとメルロにまかせてしまってもよかった。
ただ、その後、もしふたりが〈ジャグリルズ〉に堕ちていたなら、その編成では確実な殺し合いが、いや、殺戮が待っている。
このとき、ネロはトーポとムッカを救えるかもしれない、と考えていたのだ。
以前従士隊を、ゴブリン化から救ったときのように。
底抜けのお人よし。けれども、メルロに言わせれば、そこが愛しくてたまらないところなのである。
そして、それとはなんら関係なくとも、ネロは、当然のようにオレが行かなければならない、と考えるような男なのだ。
「――心得た。オマエさま、これを」
メルロが古い型の短剣を一振り、差し出してくれた。ぶ厚く布で包んであるのは、直接夜魔が触れれば、ひどい炎症を起こすからだろう。
「これは?」
「聖別武器じゃ。バルベラが置き忘れたモノのひとつ。《フォーカス》ほどではないが、役立ってくれるじゃろう」
刀身に古い神のシンボルが刻まれたそれは、たしかな《ちから》を感じさせた。
記憶がたしかなら、バルベラの手によってメルロの太股に突き込まれていたシロモノである。
たしかに、最悪の事態へとことが発展しているなら、これは必要な武器となるだろう。
「借り受ける。できれば使わずに済ませたいが」
「お守りじゃ。ご武運を」
ネロの我がままを知りながら、送り出してくれるメルロをまた、ネロも愛しいと思う。
手元に残された去年のグラッパ、そのトップとテールをネロは忘れずに持って行く。
「急げ」
狼へと姿を変じさせながら、カダシュが言った。
「オマエ、なんだこれ?」
その背に跨がったネロはカダシュが革製の水筒を背負っているに気がついた。
液体が入っている。
たぶん、中身は酒ではないか、とネロは推測する。
狼となったカダシュからの返答はない。
ただ、ときおり、立ち止まっては高鼻を使い、耳を動かす。
ほとんど迷いもせず、カダシュはトーポとムッカに追いつき、これを発見した。
だが、事態は最悪の方向にすでに転がっていたのである。
「スカトワーグ(ネズミ人)に……モンストロッド(ミノタウロス)……だと?」
背筋を冷たい汗が伝い落ちる。動揺をネロは隠せなかった。
堕落で贖った市場、とネロが命名したそこは、かつて奴隷を売り買いした場所だったのだろう。
悪趣味にも壁面に地方ごとの人種的特徴が図として示してあり、なにをチェックすべきか、肉体造形の美的基準が事細かに書き記されているのだ。
これは、商品としての人間、そのカタログ・図鑑としてのものであろう。
その発想に、ネロは耐えがたい嫌悪と眩暈を憶えたものだ。
そういう場所に、トーポとムッカは迷い込んだのだ。
そして、あろうことか〈ジャグリルズ〉と成り果てた。
いかにその性情がねじくれていたとはいえ、《スピンドル》能力者でありながら、だ。
ネロは落後者として生きながらも、どこか《スピンドル》能力への誇りを胸に生きてきた男である。
ヒトより優れた超常の《ちから》を授かったものが、落ちぶれたとはいえ、簡単に悪事に身を染めてはならないと、そう己を律して生きてきた男である。
聖人君子たろうとしてきたわけではなく、ただ、ヒトとして踏み外してはならぬ縁の上を、それでも歩んできたつもりだ。
それがどうだ――このありさまは。
こんな、こんなことでよいのか。
ネロは、人間のこんな姿、性情をカダシュに見て欲しくなかった。
この弱さ、醜さ、汚さを見て欲しくなかった。
簡単に堕してしまう種族であると思われたくなかった。
友だと感じた男に、自らの属する種族を軽蔑して欲しくない、と思ったのである。
しかし、これは現実であった。
ゴーウオウオウオウオウオウッ!!
丘からその様を見下ろす状況になったネロとカダシュを発見したのだろう。牛頭巨人と化したムッカの成れの果てが吼えた。
その肩に取りついている巨大なドブネズミの姿をしたものは――トーポに間違いない。
「やるしか……ないのか」
恐怖よりも躊躇いがあった。
従士隊のときとは違う、ハッキリとした敵意をネロはその二匹の魔物から感じ取っていた。
危険度もまるきり違う。
しかし、人狼の騎士であるカダシュの圧倒的な戦闘能力に微力ながらネロのそれを加えたとき、勝算は充分にある。
ただ、ネロが躊躇うのは――殺し合い、それも相手が本当は人間だと知りながらのそれであった。
ロクデナシのクズとはいえ、同僚とのそれを体験したとき、たとえ生き残れたとしても、自分はまだヒトとしてあれるのだろうか。
そういう戸惑いが、葛藤が、ネロにはあった。
けれども状況は、ネロに迷うほどの時間を与えてはくれない。
石材が飛んできた。
それだけで数百ギロスはあろうかという岩塊である。
速度が充分なら十分の一ギロスでも人間の頭蓋骨を陥没させることはできるのだ。
その数千倍の質量など喰らったら、ネロなどひとたまりもなく潰れてしまう。
軌道を正確に読んだカダシュが、ネロを乗せたまま駆け出し、攻撃を躱す。
その加速に導かれるまま、ふたりは奴隷市場の跡地へ突撃した。
むっとした臭気――全身にまとわりつく嫌な気配をネロは感じる。同時に悪寒も。
こういう場所:〈ジャグリルズ〉に特有の気配だ。
こんな息苦しく気色の悪いところへ、足を踏み入れようと思う動物は、それだけでなにか失調しているのだ。
その証拠に狐狸、野犬の類いさえ、ここには寄りつかない。
ネロを下ろし、半獣人形態となったカダシュに対して、ネズミ人:トーポが挑みかかってきた。
両手に短剣を構える突撃兵スタイル。
対するカダシュは無手だったが、爪が音もなく伸び、それによって応手した。
ネロはその隙に、牛頭巨人:ムッカのサイドへ回り込む。
短期決戦で決めるつもりであった。
そして、まだ、ネロは望みを捨ててはいなかったのだ。
トーポとムッカを人間に戻す、という望みを、だ。
迫り来る拳の下をなんとか潜った。
事前に使った基礎筋力と骨格を強化する異能:〈インドミタブル・マイト〉によって、身体は思うよりずっと鋭く動いてくれる。
死にかけて復活を果たしたことで、肉体と意志が強く生存を希求した、その結果だろうと思う。
ネロはいくつかの異能に、新たに目覚めていた。
一気に距離を詰める。
近い間合い、鼻先で、ネロはかつて従士隊を〈ジャグリルズ〉の悪夢から解放した技を仕掛けるつもりだった。
当然、そのための触媒――酒を忘れることもない。
少し離れた場所で、カダシュが善戦してくれているのが見えた。
トーポの短剣は塗れたようなおかしな光沢があり、毒を塗っているものだと推察できた。
だが、膂力でもスピードでも技量でも、カダシュはトーポを圧倒している。
おなじ《スピンドル》能力者といっても、底辺レベルのスパイラルベインのそれと、夜魔の精鋭:月下騎士が右腕と頼む人狼とでは、これはもう、その実力に圧倒的な開きがあるのだ。
トーポがカダシュの攻撃をなんとかいなせており、拮抗状態にあるように見えるのは、ネロが付けた注文――すなわち、トーポとムッカを殺さずに無力化したい、という無理難題につきあってくれているからだ。
それはトーポもわかっているのだろう。
苦し紛れに凄まじい匂いの口臭などを浴びせかけてはいるが、カダシュを一瞬ひるませる程度の効果しかない。
文字通り独楽鼠のようにくるくるとまわりながら、意表を突いた場所から繰り出す短剣も冷静に捌かれてしまっている。
カダシュの視線が、一瞬、ネロのそれと交わった。
「決めろよ」
とそう告げられた気がした。
応ッ、とネロは答える。
そして、掌中の陶器製薬瓶に、その内容物であるグラッパに《スピンドル》を通し――すべてが決した。
そのはずだった。
清浄な空気とともに、甘やかなグラッパの芳香が広がり、トーポとムッカを包み込む。
そこまでは、これまで、ネロの体験してきたあの奇跡と、同じだった。
だが、この世界に呼び起こされた美しい《夢》に、二匹の魔物が惚けたように棒立ちになったのは、ほんの数秒のことでしかなかった。
ゴーウオウオウオウオウオウッ!!
文字通り夢から醒めたように、目をしばたかせると、ムッカが再び咆哮した。
ビリビリビリッ、と大気が揺れ、それはネロが耳に痛みを覚えるほどのものだった。
異能の終了間際だったこと、成功の確信があったこと、そして、その咆哮に、ネロは完全に意表をつかれ、動きを止めてしまっていた。
そこを横凪ぎの一撃が襲った。
もし、その直撃を受けてしまっていたのなら、ネロの命はなかっただろう。
仮に助かっていたとしても、再起不能の重症だったはずだ。
ネロを救ったのは一陣の風――いや、カダシュだった。
しつこく追いすがるトーポを蹴散らすと、疾風迅雷の速度で、ネロを抱えて距離を取る。
ネロは半獣人となったカダシュの胸に、お姫さま抱っこ状態で収まるという異常事態だ。
「効かなかった!」
ショックのあまり、その叫びは唐突だ。
「効いていた。ただ……やつらには、感受性というものがない。あるいはあっても歪みすぎていたり、ひどく感度が悪いんだ」
当事者であるネロより、状況を見ていたカダシュのそれのほうが、ずっと先ほどの状況を的確に言い表していた。
「か、感受性がない?」
「これまでの師匠の事例を分析していて気がついたのだ。この能力は、そういう感受性の薄い対象や、それすら踏み躙るような強烈な悪意には効果が薄いのではないか、とな」
「なんだと? って、オマエ、それひとりで分析したのか、カダシュ」
「相手の異能、それも我が主:バルベラさまを陥落させるほどの能力に対して、無策で臨むヤツがどこにいる。情報を得て生き延びたなら、これを分析し、対策を立てて再戦に臨むは、これ武人の常識だろう?」
驚くネロに、カダシュは言った。
「じゃあ、なにか、やつらにはつまり――オレの酒がわからない、ってことなのか?」
「もっと大量に奉じればあるいはわからんが、効かぬ、味がわからぬ、というところだろう」
あんぐりとネロは口を開けるしかない。
酒とワインの信奉者であるネロからすれば「味がわからぬ」という概念自体が、もうすでに埒外なのである。
意外と天才肌なのだな、とカダシュが笑った。
「じゃあ、じゃあ、どうする、どうする?!」
用意してきた策を失って、ネロは慌てた。
「師匠の心のうちにあった、戸惑いや奴らへの悪感情も関係していたかもしれんな」
カダシュの分析はどこまでも鋭い。
そうかもしれなかった。
従士隊のとき、ネロの心を占めていたものは、かつての友人たちへの友情と、なによりメルロへの想いであった。
ルシルベルカのとき、そしてバルベラと対峙したときのことは、これはいまさら言うまでもない。
しかし、今回はどうだったか。
「たしかに、それは……あるかもしらん」
「では、次はオレの番だな、師匠」
「まて、こ、殺すのか?」
「殺してやったほうが慈悲といえるときもある――だが、殺しはせん。ヤツらは本当のクズだ」
ネロはカダシュが怒りを覚えていたことに、驚いた。
トーポたちの態度に対する怒り。
それは、ネロやメルロを嬲る連中の態度への怒りであり――もしかしたら、この男もまた、ネロが感じていた友情を、同じように思っていてくれたのかもしれなかった。
「だから、こんどはオレにまかせてくれ」
「概略だけ聞かせろ」
「コイツを使う」
カダシュはあの皮袋を差し出した。スリングが通してあり、肩からかけられるようになっているものだ。
「なんだこりゃ?」
「嗅いでみろ。そっとだ」
ネロは吸い口を解放すると、そこから内容物の匂いを嗅いだ。
「うえっぷ、こりゃあひどい酒だ」
「本当の粗造乱造がどういうものか、実学としてな」
そして、ネロ、オレは確信したんだ。
「師匠、アンタの酒は、美しい」
まるで愛の告白のようにカダシュが言うものだから、ネロの胸は高鳴ってしまう。ときめいてしまう。
そして、いままさに、状況はお姫さま抱っこである。
「え、えーと」
「純粋な賛辞だ」
クソ真面目にカダシュが言い、もしかするとこの男は意外にたらしかもしれん、とネロは思った。
思ったが、作戦の概略が優先事項である。
カダシュは、皮袋の悪酒を示す。
「こいつをどうするんだ?」
「つかう。やつらの感性にぴったりの酒だ」
「だが……これじゃあ、悪化するだけなんじゃあ……」
ネロの怪訝げな問いかけに、カダシュは獰猛に笑った。
それは牙を剥き威嚇する狼のそれにそっくりだった。
「悪化させてやるさ」
人間のときよりも口腔や声帯の構造の違いで聞き取りにくく低い唸り声混じりだったが、ネロにはわかった。
「とことん、悪化させてやる。ヤツらのキャパシティが、完全に振り切れるまで」
それって、とネロが口元を押さえる。
カダシュの癖が移ったのだ。
そして、カダシュはほとんど咆哮するように言った。
「名付けて、ハング・オーバー(二日酔い)作戦だッ!」
そう吼え猛ると、カダシュはネロを抱えてまま突撃を敢行した。
手順はわかっている。
ネロの役割は、寸前で離脱し、トーポの足止めをすることだ。
最大効果域にトーポとムッカの二匹を止めるため、また、カダシュが技を発動するための溜めを稼ぐためだ。
時間にして数秒、それが済んだらすみやかに効果域から離脱する。
そうでなければ、ネロも巻き込まれてしまう。
カダシュが走りながら、ネロを下ろしてくれる。
すかさず全力疾走に移るネロはメルロの託してくれた聖別武器を抜き放った。
トーポが目を血走らせて襲いかかってくる。
両手に刃、しかも短剣はトーポの得意な間合いだ。
そして、その刃には毒。
ナイト・チルドレンであるカダシュにとって恐るるに足らぬ武器であっても、ネロにはかすり傷ですら危ういものかもしれない。
毒はその直接的な効果もさることながら、こうやって相手を心理的に萎縮させる。
だが、だからこそ大胆に行く。
ネロは短剣のレンジにはいる直前、スライディングに切り替えた。
もちろん、トーポはそこに反応する。
獣人特有の俊敏な動きで飛び上がる。
長く伸びた尻尾を打ちつけ跳躍する。
そうして、そうしながらも短剣を下方をすり抜けて行くネロに向かって振う。
ギィン、と耳障りな音がして火花が散り、すんでのところで、ネロはその刃を受けた。
そして、そのまま、刃を振るう。
振り下ろす。
どこへ?
トーポが打ちつけた尾に向かって。
最初からネロはトーポに致命の一撃を見舞うことなど考えていなかった。
もちろん、一合二合と打ち合う足止めも、だ。
ただ、こうやって釘付けに出来ればよかったのだ。
狙いを過たず打ち込まれた刃は、ムッカが暴れ回ったことにより露出した地面に深々と突き立つ。
そして、ネロはこの武器にさえ、固執しなかった。
思いきりよく手を放すと、頭を低くして腕で庇いながらスタコラ逃げた。
そう、逃げたのである。
頭上を二度、ムッカの剛腕が薙いでいった。
ネロは転がり、受け身をとりながらも、速度を殺さず、いや、それまで以上に増して逃げ去った。
転がったり逃げ回るのは、得意中の得意だ、となかば自暴自棄な叫びを胸に。
「ぶちかませッ、カダシュッ!!」
ネロがそう叫んだ瞬間だった。
恐るべき悪酒爆弾が、その背後で炸裂した。
カダシュをして「二度とやりたくない」と言わしめるほどの悪臭、そして強烈なアルコールがトーポとムッカを襲った。ただ、その瞬間、ネロもカダシュも、大地から怨霊のような気味の悪い存在が天に向かって飛び去るのを見た。
そのわずか数秒後、体格の差からかトーポが、そこに覆いかぶさるように地響きを立てて、ムッカが倒れた。
おそらくは、その場に溜め込まれていた残留思念が、カダシュの技を呼び水に解き放たれたものであろう。
その悪意、とも呼ぶべきエネルギーの奔流と、悪酒の効果に、トーポとムッカは中毒したのだ。
ネロが奴隷市場跡を検分すれば、あの不快な気配は消え去っていた。
解き放たれたことで、いずこかに飛び去ったのだ。
解決した、とは言えないが、とにかく一息つけることはたしかだった。
忘れずに回収した短剣は、その表面が残留思念と悪酒の毒素でだろう、すっかり曇ってしまっていた。
技の効きが完全なことを確かめると、ネロとカダシュはトドメを刺さずに場を一端離れた。
ネロの判断だった。グラッパの蒸留が待っており――それを行うカダシュが、その手を血で汚してはならないとネロが諭したからだ。
「夜魔は血を通して記憶を共有する――いいか、カダシュ、この作戦の最後の決め手は、お前の血だ。そこに込められたバルベラへの想いで、オレの仕掛けた嘘の恋を打ち破るんだ」
作戦の最終局面を告げたときの、カダシュの面食らった顔を、ネロは忘れない。
「ブラッド・フォビア=血に対する恐怖症も克服しないといけないだろ?」
密造蔵の手前、あの大アーチに戻れば、メルロがあたふたと働いていた。
「お、オマエさまっ、やっと帰ってきおった! たいへんじゃ、どんどんどんどん出てきよる!」
慌てふためくメルロの所帯じみた可愛らしさに破顔一笑、ネロは叫んだ。
「まかせろッ! よし、カダシュッ、予習の通りにいくぞ!」
「おう、師匠!」
そして、蒸留が終わりかける頃、ネロはその酒を樽に詰めながら、言った。
「さて、カダシュ。オレはこれから、スパイラルベイン本営に向かう。事情を説明して、聖堂騎士団にも出動を願わにゃならんだろう。もしかしたら、しばらく帰れんかもだ……だから、これで」
最後まで、ネロは別れの言葉を言い切れなかった。
胸が詰まってうまく喋れない。
聖堂騎士団が動き始めれば、カダシュの脱出は困難になる。
だから、ここで別れねばならなかった。
「ありがとう」
バンダナを解いて、カダシュが率直な礼を言った。
それだけで充分だった。
「なにか、問題があったら――もし仮にだが、症状が改善しなければ、また、来い」
「ネロ、貴様のお人よし加減には、ほとほと呆れる。人間にはゲスか、バカしかおらんのだな」
憎まれ口を叩くカダシュだったが、その顔に浮かぶ寂しげな笑みが、この慌ただしすぎる別れを惜しんでいることを如実に現していた。
ネロにとって、カダシュは初めて心が通じた真の意味での同志=戦友だったのだ。
もしかしたら、カダシュにとっても、そうであったのかもしれない。
けれども、肩を並べて同じ道を歩んでいくことは、決して許されないふたりである。
「じゃあな、人狼の騎士」
「じゃあな、密造の騎士」
またな、とはふたりとも言わなかった。
それが叶わぬことを、そして、叶ってはならぬことを、互いが知っていた。
戦場で騎士たちがそうするように、ふたりはハグを交し、そして、別れた。
槍も乗騎もなく、盾も旗もなかったが、ここはまちがいなくふたりの騎士の戦場であり、そこで紡がれたものは、語られることのない勲の物語だったのである。
ネロは、夜明け前、月が傾き、もっとも暗さを増した夜の遺跡群を歩み降りて行く。
これほどの騒ぎ、先手を打って、こちらから出向き、事態を収拾せねばならなかった。
その背を見送るカダシュが、不動の姿勢を取り、火かき棒を剣に見立てた敬礼を送っていることに気がつきもせず。