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ムーンシャイン・ロマンス  作者: 奥沢 一歩(ユニット:蕗字 歩の小説担当)
第四話:バレル&スピリッツ(器と心)
20/45

満月の晩に

         ※

         

 そんなわけで、ネロはいま、ライ麦の粉を練っている。

 

 この時代、上質の小麦粉はやはり貴族階級の食べ物であり、それを原料とするパンにも、ランクがあった時代だ。


 ちなみに麦踏みの描写で知られる大麦は、じつはパンやヌードルには、まったく向かない品種である。

 さらに言及すれば、女のコが畑でつかまえて(?)のライ麦もこれまた、そのような加工には不向きの品種なのである。


 では、どうするのか。


 ライ麦パンを食すると、まずその味わいに独特の「酸っぱさ」を感じたことはないだろうか?

 これは、ライ麦パンを捏ねる前につくる「種酵母」に由来する。

 あらかじめ、水と混ぜたライ麦粉を放置し、発酵させる。

 このとき生じる種酵母は、酸味を帯びる。


 本当のパンとしての捏ねは、この種酵母を加えた粉で行うのだ。


 この酸味が、ライ麦特有の性質を押さえ、生焼けのパンが出来上がるのを防いでくれる。

 嘘だと思うなら、この過程を経ずにライ麦パンをこしらえてみるといい。

 生焼けで、ぼそぼそで、とても食えたものではないとわかるだろう。


 じつは捏ねに使う水に酢やレモン果汁を加える即席の製法もあるのだが、ネロはやはり、じっくり時間をかけて発酵させた種酵母を使うやり方が好きだ。

 まあ、つまり、庶民のパンがなぜ「酸っぱいか」という話である。

 

 完全な脱線だ。


「それ、ついでに焼くのかや? 腹がへったのかや?」とメルロ。

「これからいよいよ蒸留に立ち向かおうというのに、不謹慎だぞ、師匠!」とは、カダシュ。

「うるせー! 誰が食うか! これがいるんだよ!」


 三人は、フォロ・エクストラーノの遺跡、大アーチの下で火を囲んでいる。

 本が読めるほど明るい大満月の夜。

 ほんとうは、人類的には昼間の蒸留のほうがありがたいのだが(なにしろ見えない)、カダシュの種族的特性から、夜間以外は無理だと結論した。


「パンの素みたいな、そんなものが必要なのか?」

 必要だと聞けば、神妙な顔になるカダシュである。

「あとで見せてやる。キチンと一切合切教えてやるから、安心しろ」

「うむ。いよいよだな」


 はつらつとしたその受け答えと表情は、ネロの授けたワインによって、バルベラの衰弱が止まり、回復基調に乗ったからだろう。

 ただ、状況は予断を許さない。

 バルベラはこんどは、姉様――つまり、メルロに会って謝罪しなければ、とそんなことを言い出しているらしい。


「そこに、実は瀕死の傷を負ったはずの男が生きていた――などと感動の再会をしてみろ」

「出来過ぎのドラマツルギーじゃな。姉妹丼」

「そ、そんなことには、けっしてさせん! させんからな!」


 お、おそろしい、とネロは思う。

 この流れは一歩間違うと、別次元・別時空に話が行ってしまう危険すぎる戦闘的潮流である。


「と、とにかく、だ!」

 これはやはり急がねばならん、とバンダナを締め直し、うなずくネロに、やはりおそろい、色違いのバンダナを締め直したカダシュも無言でうなずき返すという画面が生まれた。

「おぬしら、そうやっていると兄弟みたいじゃな」


 そう、メルロに混ぜっ返され、なぜか赤面して作業の取りかかる男ふたり。

 まずは、ネロの講義からだ。


「火加減は最初の半刻くらい、かなり強めでいく。薪はじゅうぶん集めてあるか?」

「もちろんだとも。沸き立つまでは一気呵成というわけだな。では状態が安定したら、火力は落とすということか」

「そうだ。いつまでも全開で炊いてると……」

「中身が焦げて、酒が臭くなる、だろ?」

「ご名答」

 ネロはカダシュの理解を褒める。

 コイツ、わかってきたな、と思う。


「よし、火加減のことはいいな? つぎに蒸留器へのヴィナッチャと水の投入だが――このときの水の量で濃度が決まる」

「どういうことだ?」

「度数を高くしたけりゃ、水は少なめにしろってことだ」

 どれくらいが適切なんだ? カダシュは悩む。


「あまり高すぎると、普通には飲めんヤツが出来上がる。限度があるな」 

「基準がわからん」

「じゃあ、ちょっと去年のヤツを……」

 ネロは陶器の器から、これも粗末な土器に注いで、カダシュに自らの醸しを渡した。


「ほう……なるほど、これはなかなか……しかし、なぜ、いまここに酒が準備されてるんだ?」

「んじゃ、これくらいで行くか……あ? ああ、これは去年のトップとテール――出始めと出終わりを取っておいたものだ。コイツを加えると出来がよくなる」

 ネロの手元をカダシュがじっと見つめて言った。


「なにごとも積み重ねなのだな」

「営々と受け継がれて行くもんなんだよ。生活の楽しみとして。どんな境遇にあっても、人間は楽しみを見出さずには生きて行けない。そういう生き物なんだ」

 なるほど、とカダシュは、なにごとか納得した様子でうなずいた。


 もしかしたら、オレたちは友情を育めているのかもしれない。ネロは思う。


「そして、水は入れたか? よし、次はこれだ」

 ネロは蒸留器内の水量を自らの目で確かめると、次に密造蔵から持ってきた藁を掲げた。

「ワラ? それは、なんじゃ、ネロ?」

「焚きつけにでも……いやもう、充分だぞ、師匠?」

 当然、意味がわからぬメルロとカダシュである。

 ちがうちがう、そうじゃない、とネロは笑う。


「コイツはな……こうするのさ!」

 そのまま、水を張った蒸留器に藁束を突っ込む。

「!」

「ちょっちょっちょっとまて! 鍋の中身の風味がグラッパには影響するって!」

「安心しろ、カダシュ。影響はある。ただし、これは良いほうに、だ」

「どういうことだ?」


 目を白黒させるカダシュに、藁束をすっかり水に浸けてしまいながらネロは説明した。


「カダシュ、これがコツ、そのいち、なんだ。ヴィナッチャをヒトかけ食ってみろ」

「? うおっ、アルコール! ……それに甘さがあるな」

「甘いものは焦げやすい。鍋の底にくっついて焦げになる」

「ははーん、読めたぞ。焦げつき防止か!」

 勘のいい男だな、とネロはつくづく感心する。

 なるほど、ガンツが樽の製造過程で口を滑らせた、というのはわかる気がする。

 相手の話のスジを察して先回りする力が、かなりある。


「ほんとうは、かき混ぜてやれれば良いんだが、そうすると蒸留器の気密が保てなくなるから」

「水蒸気が逃げる! つまり、それだけ酒を集めるチャンスを逃がしてしまう!」

「オマエ、マジで勉強してきたんだな」

「あたりまえだ! バルベラ姫さまの将来がかかっているこの一戦、手抜きは許されん!」


 力いっぱいカダシュが言い、ネロは笑いの発作を憶えると同時に、思った。

 気がつくと、ぽろり、と本音を漏らしていた。


「オマエ、バルベラをものにしちまえよ」

 その言葉に、カダシュが固まった。笑みが消える。

「本当に、好いているんだろう? オマエはバカ正直だが――いい男だ。せめて、想いを告げるだけでも」

「師匠、その話は余計だ……いまは作業に傾注してくれ」


 作り物の面のように、無表情を顔に貼りつけてカダシュが言った。

 身分の差、種族の差、どうしても越えられぬ壁がそこにあることを、カダシュはとうの昔に知って、それでもバルベラの騎士たろうと生きてきたのだろう。

 すべてを捨てて生きることもできる、という言葉をネロは口にできなかった。

 すこし、舞い上がっていたのだと自覚があった。

 正直に言えば、ネロはこの二週間を楽しんでいたのである。

 一触即発の、殺し合いから始まったこの状況を、心から楽しんでいたのである。


 それは、カダシュが、聖堂騎士団に落第し、世間から弾かれた落後者、スパイラルベインの小間使いとして生きながら、同時に、この遺跡の丘で密造業に手を染めたネロの前に初めて現れた――同志だったからだ。

 ひたすらに、好いた女のために酒を醸そうという、そういう男だったからだ。

 だからこそ、余計な一言と知りながら、胸の内にとどめておけなかったのは、そういう理由もある。

 この関係に、まもなく終わりがくることを、ネロは悟っていたのだ。

 連れて、さらって、逃げてしまえよ――とは言えなかった。

 そういえば、カダシュへのバルベラの気持ちも、ネロは知らないのだ。

 当事者同士以外に、言えることなど……ない。


「すまんかったよ」

「話を……講義を続けてくれ」

 なにごともなかったかのようにふたりは、作業に戻る。


「さあ、藁をオマエも入れろ。しっかりと焦げを防ぐように敷くんだ」

「よし。こうだな?」

「いいぞ。次にヴィナッチャを入れる。たっぷりだ」

「これぐらいか?」

「もっともっと、ぎっしりとだ。蒸留器の連結部分までぎっしりと、だがぎゅうぎゅうに詰めるな? ふんわりとだ、特に中央は気をつけろ!」

「水蒸気がキレイに回るように、だな?」

「わかってきたじゃねえか、カダシュくん!」


 男ふたりの会話を聞きながら、メルロはたまらない切なさに襲われていた。

 理由はわからない。

 ただ、なぜだろうか、言い表しようのない哀切を感じていた。


 それは降り注ぐ満月の光のせいだったかもしれない。

 よたよたと、眠気にまけじと歩くベルカを抱きかかえる。

 小さな狼の体からはワインの薫りがする。

 男たちは言葉を交し確認しながら作業を続け、キレイにヴィナッチャを詰め終わると、その上から先ほど酒、去年のグラッパ、そのトップとテールを注ぐ。


「そして、この上部に冷たい水を張る。これで冷却するんだ。すぐ温くなるから、マメに栓を抜いて取っ換えろよ」

「夏場はたいへんだな」

「グラッパ蒸留の季節は、晩秋から二月くらいまでと相場は決まっているんだ。まあ、コイツはワインの醸しの時期から逆算してのヴィナッチャの具合との兼ね合いが主だろうが……もしかしたら、そういう関係もあるかもだ」


 それでだ、とネロは先ほど練っていたライ麦の粉を持ち出した。

 どうするか、と訝しむカダシュに木の鉢にはいったそれを手渡すと言った。

 これが、コツのその二だ、と前置きして。


「連結部分のわずかな隙間をそれで塞ぐんだ。加熱され熱くなってきた蒸留器の表面で、それは粘土みたいにカチカチに固まって蒸気の漏出を防いでくれる」

「知恵だな」

「そうだ、知恵だ」

 こうして、ついに三段型の陶器製直火式蒸留器が、蒸留待機状態として完成したのである。 

 

 ぴくりっ、とメルロに抱かれて眠りこけていたベルカの耳が不意に立ったのは、蒸留器を据えられたかまどに火が入り、いい匂いが周囲に漂いはじめたころである。

「なんじゃ? 匂いに起こされたか? 現金なヤツじゃのう!」 


 口では悪態をつきながらも、ベルカが可愛くて仕方がないのだろう、メルロがそう言って頭を撫でてやろうとした瞬間だった。

 ベルカが、その手を振り払って飛び出し、地面へと着地した。

 よたたっ、とまだ身体が寝ぼけているのだろう傾いたが、ヴヴヴウヴヴッ、とあらぬ方角を向いて唸りはじめたのである。

 そして、ほとんど同時に、カダシュも同じく立ち上がり、同じ方向を睨め付けていたのである。


「嫌な匂いが……する。なにか来る。――師匠、ネロ」

 低く言い放ち、カダシュはネロとメルロに警戒を呼びかけた。


 ネロは火かき棒を構え、メルロは油断なく闇を見透かすように、同じ方角を見据えた。

 どれほどしたであろう。

 ネロの耳にも、歩み寄る者の足音が捕らえられるようになってきた。

 深夜の遺跡に、複数の靴音……斜面とそこには生える枯れ草を踏みしだく男たちの足音。

「なんだ?」

 とネロが言葉にした瞬間、その一団は現れた。


「よーう」と小男が言った。

 数人の取り巻きを引き連れている。

 名前をネロは憶えていない。あだ名だけは、その容姿とあいまってかろうじて記憶にある。

 トーポ。ネズミだ。

「いい晩じゃねえか」

 そして、トーポの後ろには巨漢の男が控えていた。

 こちらも、名は忘れた。通り名はわかる。ムッカ、つまり、牛。


 取り巻きの男たちは、おそらく貧民街の安酒場で声をかけたであろうロクデナシども。

 ただ、トーポとムッカのふたりは違う。

 スパイラルベインだ。微弱ながらも《スピンドル》に通じる異能者である。


「おまけにいい匂いだ。そして、美しいお嬢さんまでいる」

 最高の晩になりそうじゃねえか。トーポは言った。


「なんのご用かな……スパイラルベインの先輩方」

 ろくな用事ではあるまい、とそう思いながらネロは返した。

 基本的に互いに不干渉を貫くのがスパイラルベインの流儀である。

 

 それが、数を伴って、訪ってきた。

 

 悪い予感がした。

 



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