表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ムーンシャイン・ロマンス  作者: 奥沢 一歩(ユニット:蕗字 歩の小説担当)
第一話:我、いかにして、密造者となりしか
2/45

転がる男(後編)

         

「人類の仇敵・夜魔の傾向と対策——吸血と再生編」

 そんな版画刷りに目がいったのは、なぜだったのか。


 メルロとの情事に溺れ、ほとんど一週間ひたすら寝床をともにした末だった。

 商売女や貴族の娘をつまみ食いしたりして、それなりに経験があるつもりだったネロは、どっぷりとメルロにはまってしまった。

 どんな要望にも応える、と言ったメルロの言葉に嘘はひとかけらもなかった。


 なにも知らない無垢な乙女に背徳の限りを教え込む。


 そんな爛れた生活を堪能してしまった。

 天使のようなメルロを自由にする——ちょっと、商売女たちでは替えられない愉悦だ。


 それでも食い扶持は稼がねばならない。

 いや、メルロに甲斐性のあるところを見せるのだ、と考えると俄然、労働意欲が湧いてきた。

 現金だな、と自分でも思うが、男とはそういうものだ。バカなのである。


 それで、のこのことスパイラルベイン本営に出向いてきたわけだ。

 版画刷りの内容は、なかなか興味深かった。

「夜魔は急速な再生能力を備え——ふむふむ」

 そこは、もともと研究者体質なネロのことだ。やや活字中毒の部分もある。

 この手の資料を読みはじめると止まらなくなるのだ。

 再生能力、というところでふと、手が止まった。


 あることが脳裏を過った。

 

 メルロのことだ。

 夜をともにするたびに、血が流れた。


「ごめんなさい。体質のようなのです。ほんとうに——ごめんなさい」


 そのことを指摘すると泣きながら謝られた。とんでもない、とネロはかぶりを振った。いつまでも初々しい反応が可憐で、はっきり言ってネロは好みだった。それにメルロの血はなんと——ワインのように香るのだ。

「洗濯するのが——惜しくなる」

 ネロのそのつぶやきに、真っ赤になってメルロは枕に顔を埋めたものだ。

 世辞でも、変態的嗜好でもない(ないと信じたい)。

 夢に見た至高のワインとともにあれるようで、ネロにはもう願ったりかなったりのパラダイス状態だったのだ。

 すこしでも冷静な思考能力が残っていたなら、疑ったことだろう。

 事前にどれほど香水を用いたとて、そんなことが起こるはずがない、と。

 けれども、春の陽気と天使のごときメルロの美しさ、健気さに、ネロは完全に阿呆になっていたのだ。

 特別な女性なのだー、とか完全におつむがプリマヴェーラしていたのだ。

 

 読み進める。


「その血液には特徴的な芳香——黒スグリ、ベリー、干しアンズ、カブトムシ、トリュッフ、シガー、なめし皮——はー、なんじゃこりゃ、まるで赤ワインみたいな……?」


 はっ、とネロがなったのはその時だ。夜魔の血液の特徴を読んだときだ。

 ドキンッ、と心臓が口から飛び出しそうになった。

 なにかまずい予感がして、これ以上読み進めてはならないと思いながらも、ネロの目は文字を追ってしまう。


「鋭い犬歯は伸縮収納可能——普段はすこし発達した犬歯程度だが、最大伸長時では人類の頚動脈にやすやすと到達……」


 もうひとつ、メルロには可愛らしい癖があった。

 ベッドのなかでの最中に噛みついてくるのだ。まあ、そんな女は珍しくもない、とネロなどは思うのだが、ちょっとばかりその噛みかたが、きつかった。深いのだ。

 ただ、これもネロはメルロを責めたりできなかった。

 翌朝、傷の手当てをしていると後ろから抱きついてきて、謝るのだ。

 舌と唇で傷口を丁寧に舐め、消毒してくれる。

 それから、さらなる奉仕を申し出てくれる。

 ネロが「ちょっとやりすぎ」な要求をすると、真っ赤になって恥じらいながらも、どこかうれしげに受け入れてくれるので、ネロ的にはむしろお得な——男の勲章という意味でも(バカ)——オマケだったはずだ。


 そういえば、とネロは思い出した。

 昨年の秋——つまりちょうどネロが寝込んでいたころ、事件があったのだ。


 高位夜魔の侵入を法王庁は受けた。

 尼僧がひとり、犠牲になった。

 その討伐に例の天才御曹司が乗り出し、現在、その一派の片翼を撃破。さらなる追討に御曹司は向かったという。


 その事件の直後、法王マジェストが崩御され、二ヶ月におよぶ法王選定会議の末、なんと史上初の少女法王の誕生と相成った。

 年若い法王は勇躍すさまじい少年騎士の後押しをするため、第十二回十字軍を発動させるとか、なんとかかんとか。なんでもアシュレダウとこの少女法王は幼なじみだという。それもそのはず、新法王:レダマリア一世はマジェスト六世の姪だ。

 そのことがあきらかになったのは、ここ最近の話だ。

 ネロにはとんと縁のない話だ、と思っていた。きらきらしい、やんごとなき聖職界、騎士たちの世界の話だと。社会の底辺を生きるネロには関係のない話だった。

 それがなぜだか繋がりそうだった。

 よくない意味で、だ。


「夜魔は犠牲者を魅了し——知らず知らずのうちに、犠牲者は血液を吸い取られ——やがて、干からびた死体か、盲目的に夜魔に従う下僕、最悪はその眷族となるのである」


 ヲイィイ! とネロは声を出しそうになった。


 受付に座るいかつい顔のギルドマスターが読んでいた分厚い報告書から顔を上げ、ぎろり、とネロを睨んだ。そういえば、先ほど傷の指摘を受けた。いや、 ちょっと最近懇意にしている女がえらく激しいもんで、とネロはすこし誇らしげに答えたものだ。ギルドマスターはうろんげな目線でネロを値踏みするように見たものだ。


 まあ、そりゃあ、あんたじゃ、こうはいかないさ、とネロは思った。


 さっきまでは得意の絶頂にいた。

 そのギルドマスターに目つきの悪い男が歩み寄り、ヒソヒソと声を交わしあった。

 なんだか、喉にものを詰められたような気分になり、ネロはそそくさとスパイラルベインの本営を後にした。

 疑心暗鬼になり、いるのかどうかもわからない尾行を撒くために、無意味にぐるぐると低所得者層が住むダウンタウンを歩き回り、ねぐらのあるフォロ・エクストラーノに足を差し向けたのは日が暮れかかってからだ。


 走りに走った。

 フォロ・エクストラーノの丘を、芽吹きはじめた春の草花を踏みしだいて。

 焦っていた。

 だから、いつもならしないミスをしでかした。


 堕落者——〈ジャグリルズ〉のテリトリーに踏み込んだことに気づかなかった。


 一般的には〈ジャグリルズ〉とは低級妖魔の総称として認知されているが、《スピンドル》能力者たちには別の知られかたをしていた。

 すなわち〈ジャグリルズ〉とはその場所や、物質に焼つけられた残留思念のごときものである。つまり生物、種族というよりも、残留思念の起す現象のごときものだ、と教本は解説する。

 それが付近の生物や、エネルギーの大きなものになれば人類に作用して問題を引き起こすのだ、と。

 いや、正直、ネロも能力者としての開花がなければ学ぶことのない知識だったはずだ。

 熱病に冒された一月、ネロは寝床に教本を持ち込んだ。

 ほとんどまともに読むことなどできなかったが、夢現のなかでその項目に目を通した憶えがあった。


 酒宴——と言って良いのかどうか。


 ネロが足を踏み入れた場所は「人格を競り落とした競技場」と後の時代の本に紹介される場所なのだが——無論、このときのネロに知るよしもない。

 競馬場を模した中庭跡、その壁面をそのなんというか——春画めいた壁画が取り囲む。

 従士時代からここは知ってはいたが、そして、ポルノグラフィーは嫌いではないが、こうもこれ見よがしにされると、なんというか胸焼けがする。

 そういう理由でネロはこの場所を避けてきた。

 だが、《スピンドル》に開眼した現在では、そこにネロが足を踏み入れなかった理由が別にあるったのだ、とはっきりとわかる。

 それは一種の結界だ。

 フォロ・エクストラーノにはこんな場所が無数に存在する。

 つまり、〈ジャグリルズ〉の汚染を受け、ヒトが本能的に近寄り難くなっている場所が。

 それがこの膨大な過去の遺跡群を内包する丘陵地帯が、荒れ果てたまま放置されている理由なのだ。危険な魔物:〈ジャグリルズ〉の——不注意な侵入者のなかの魔物を引き出してしまう——巣窟だからだ。


 だから、それでもなお、ここに足を踏み入れる人間は、どこか本能的な部分が失調している。


 眼前の酒宴は、まさしくその証左に他ならなかった。

 異形のものたちの乱交がそこにはあった。

 矮躯で、緑の肌、牙と小さな角、尖った耳に、まだらに生えた剛毛。

 人類の矮小なカリカチュア——ゴブリンがそこには数十匹わだかまり、自他の区別ない愛撫と乱交と痴態と狂態のさまを繰り広げていた。


 春のまだ冷えた夜気に、むっとした獣臭と悪酒特有の臭気が立ちこめていた。


「う」とネロはそのあまりの光景にうめいた。

 ゴブリンたちは丈のあっておらぬ衣服を身に着けていた。

 いささかも垢じみていないのは、その衣類がほとんど新品だから。

 丁寧で流行を意識したしつらえを考えれば、貧民から奪ったものではありえない。

 だが、なによりネロが目を瞠ったのはそこに、数着、従士隊のサーコートを見かけたからだ。

 サーコートとは甲冑の上から羽織る一種の陣羽織であり、また同時に自身の所属を戦場で示し同士打ちを避けるためのユニフォームでもあった。

 それを衣類の上から着込むのは、なんというか従士隊の流行のファッションだったのだ。

 見れば、メスにのしかかるゴブリンの数匹は、やはり従士隊のサーベルを振りかざしているではないか。ズルズルと衣類とサーコートを引きずり、銀の酒杯を王冠に見立て、奇声をあげ続けている個体もいる。


 かくり、とネロの腰が抜けた。


 ゴブリン――〈ジャグリルズ〉を見るのは初めてだった。

 まるで教会の司教たちが、信徒たちに死後の恐怖を植え付けるためする説法のなかに現われる地獄絵図の、その突端が、そのまま現実に上書きされたような光景がそこに展開したいた。

 逃げなければと思い、しかし、思った瞬間、吸い込んだ空気のあまりの臭いにネロは吐いた。


 瘴気、と言えばよいのか。

 いや、たぶん、純粋にそれは悪臭だったのだ。


 ドブ川に吐瀉物と悪酒を混ぜ合わせた——どうしようもない人界の汚物の臭い。

 なまじメルロといる間、天上のもののごとき芳香に包まれていた分だけ、ネロの悪臭への耐性は下がっていた。

 そこへ緊張して、走ったのだ。

 

 その直後、この臭気を嗅げば胃が反応するのは至極当然だ。

 ありえないぐらい吐いた。

 午後に食べたソーセージと豆の煮込みが盛大にぶちまけられた。

 それでさすがにゴブリンたちが振り向いた。

 メスに跨がっていたオスたちが、ぜんぶ。

 

 ほ、と一瞬、ゴブリンたちは惚けた顔をした。

 

 それから顔を見合わせ、にたりにたりと微笑みあった。

 突っ込んでいたものを引き抜き、だぶだぶの衣服に押し込みながら、得物や酒杯を手に手に、ネロのほうへ集まってきた。


「あひゅへ」となんとも情けない声がネロの喉から漏れた。


 吐瀉物の海を蹴るようにして後ろにさがった。

 だが、簡単に掴まった。

 ゴブリンたちは戯れるようにネロの首筋にサーベルを押し当てたり、悪酒で満たされた酒杯を口元へ押し当てたりしてきた。


「いやっ、むりっ、無理ッス、その酒、マジで無理ッ!!」


 この期におよんで酒を選り好んでいる場合ではないのだが、ネロの取り乱しぶりはわかってもらいたい。

 ゴブリンたちはネロにすぐには危害を加えなかった。

 臭い息を吐きながら、ちっとも理解できない言葉でネロを担ぎ上げ、まるで神輿のようにネロを中庭の中央へと連れ込んだ。

 ネロがほとんど夜になってしまった周囲の情景に、アーモンドの枝と古代の柱に立つ人影を認めたのは、その時だった。


 一陣の風が、臭気を吹き飛ばした。


 ネロはあおむけに担ぎ上げられ、胃液と吐瀉物ですえた口腔に、一滴、極上の酒を注がれたような気分になった。

 人影は柱を躊躇なく飛び降り、スカートの裾を翻しながらネロのそばに降り立った。

 同時に、音頭を取っていた先頭のゴブリン数匹が悲鳴をあげ、顔面を押さえてうずくまった。

 パシィッ、と空気のはぜる音が後から聞こえた。

 気がつくと、ネロはその人影に抱きかかえられている。

 ごうっ、と空が近づいた。いや、ネロが空に舞い上がったのだ。


 気がつくと遺跡の高台にいた。

 ここからはあの中庭——競技場が見下ろせる。

 ゴブリンたちが声高に叫びながら走り回っている。

 そして、ネロは美しい生き物に抱かれている。その生き物からは芳香がする。

 忘れようもない、いつか夢に見た最高のワインの。

 メルロテルマが、そこにはいた。


「あぶないところじゃったな」


 年老いた口調でメルロが言った。

 それまでネロが知るメルロの口調でも表情でもなかった。姿は変わらずとも、老婆のもののような老いが、はっきりとその表情、雰囲気にはあった。


「メルロ、キミは」

 混乱しきった脳味噌が、それでも当初の目的を思い出した。

 どうして、自分は焦りまくり走ってきたのか。

 ん、とメルロが瞳で頷いた。


「知られてしまったか。……もうすこし、おぬしとは戯れていたかったのだがな」

 寂しげに、うつむき加減でメルロが言った。

「まさか……ほんとうに……夜魔?」

「いかにも、夜魔の伯爵位:ヴァラーシュライン・カーサ・ラポストールが息女——メルロテルマ・カーサ・ラポストール、とはわしのことじゃ」

 夜魔かもしれない、とは思っていた。あるはずがない、あってよいはずがない、と信じようとした。

 だが、あきらかにされた現実は想定した事態より、はるかに上を行っていた。


 夜魔の、それも伯爵——ほとんど最上位種じゃないか!


 かちかちかちかち、とネロの奥歯が鳴って、メルロは目を細めた。

 傷ついているのだ。

「恐いかえ」

 がくがくがく、とネロは頷いた。


「吸った? 吸った? 吸った?」

 オレの血を? ネロは完全に動揺しきって訊いた。

 

「舐めはした……愛しくて、吸いたくてたまらなかったが——がまんした」

「す——吸わなかった?」

 じゃあ、オレは下僕じゃない?

「下僕にしてしまっては、あのワインは造れまいからの」

 それにあんなに情熱的に愛しても、もらえまいよ。

「——短い間じゃったが、人間の恋人の温もり——わしは忘れぬよ」


 暇を告げるようにメルロが言った。


「ただ、許されるならば、おぬしの酒を、ときおりは飲みたいものよ」

 おぬしがどう成長し、なにを獲得するのか、それを見たいものよ。

「叶うかのう。叶えてくれるかのう」

 ふふ、とメルロは笑った。

 大好きなのに、想い人へ別れを告げなければならない、そんな悲しみを誤魔化すような笑いだった。


 知られたからには、もう、そばにはおれぬ、と。


「迷惑料と言ってはなんだが——あの〈ジャグリルズ〉ども——わしがこの手で始末をつけてくれよう。おぬしの手柄にすればよい。ほれ、なんと言ったか。スパイラルベインではこういう事件の解決に報償金が出るのだろう」

 言いながらメルロは鞭の尖端にナイフを取り付けた。


「数っ、数が多すぎるっ!」

 なぜだが、恐怖にまだ全身ががくがくと震えているのに、急き込んでネロは言った。

「なんじゃ、おぬし、まさか心配してくれておるのか? このわしを? ——愛いヤツじゃのう。ああ——決意が鈍ってきた。離れとうない——おぬしといたい」

 だが、案じめさるな。あのような低級妖魔、例え百匹束になっても、夜魔の姫は遅れをとったりせん。

 

 いつのまにか満月がメルロの背から昇ってきていた。

 その明かりがメルロをまるで月の女神のように照らし出していた。

 美しいその顔には、決意のようなものが漲っていた。

 ネロはそこにメルロの覚悟を見てとった。

 それはこれから、血を見ずには済まされない場所へ赴くための覚悟だ。


「こっ、ころしちゃ、だめだ!」

 思わずメルロに飛びついた。

「? 殺さぬ法もないにはないが。〈ジャグリルズ〉に影響を受けた生物を元に戻そうというのか? いや、それはいささか無理じゃないかね? いとしいひと、ネロよ。それは土地そのものを浄化しようという試みじゃぞ? あれはな、悪夢にとりつかれ変異してしまったヒトの成れの果てよ」


「あいつらは、従士隊の連中だ!」


 ゴブリンたちが纏う衣装から、ネロはそう判断した。

 衣類が真新しいのはそれが奪われたものだからではなく、もともと彼らの衣装であり、どういう経緯でかはしらないが女たちをひきつれ、この丘陵の遺跡で花見の宴を開こうとしていた文字通り酔狂な連中が、残留思念に汚染された土地=〈ジャグリルズ〉に魅入られゴブリンと化した——それがネロの見解だった。


「おぬしをつまはじきにした連中ではないか」


 ツンッ、とメルロがそっぽを向いた。

 ネロは寝物語にメルロに自身の人生を語ってきかせたことがあった。その際、貴族連中がネロを計略にはめて追い出した経緯に、メルロは本気で怒って見せたものだ。


 それさえネロに取り入るための演技だったのだと、ネロは思っていた。

 だが、それは誤解だったらしい。


「浄化の法があれば、なりたての場合、それも原因の土地であれば解呪できる、と教本にあった」

「夜魔の姫が浄化などできるとおもうなや」

 しらじらとメルロが言った。ネロを迫害した連中への敵愾心は本物らしい。

「オレも……できない」

「殺すしかあるまい。ここを出て、人家に赴き害を成さぬうちに」

 いや、まて、待ってくれ、とネロはメルロにすがりついた。

 あの日——《スピンドル》能力者となったあの日から、ずっと考えて続けてきたことがネロにはあった。


 通常、《スピンドル》能力者たちは《フォーカス》と呼ばれる専用の武具を扱う。

 異能を発現させる始動キーである《スピンドル》は強大なエネルギーであり、それを肉体から武具に伝達することで凄まじいパワーを人類は得ることができる。

 たとえば、刀剣で巨岩を両断するようなことが、だ。

 そんなおとぎ話めいた偉業の代償に、《スピンドル》を通された武具は粉々に砕け散る。


 ただひとつ、《フォーカス》を除いて。

 だから、そのカタチはさまざまなれど《フォーカス》こそ《スピンドル》能力者の象徴だったのだ。


 無論、スパイラルベイン——落第生であるネロに《フォーカス》はない。


 だが、ならば、とネロは考えた。

 最初から使い捨てる覚悟で、消耗品を《フォーカス》の替わりに運用したならば、どうなるのか、という思考実験だ。


 たとえば水銀。たとえばヒ素。たとえば硫酸。

 あるいは秘術的な霊薬——。


 ただの鋼に巨岩を切り裂くほどの力が与えられるなら、きっとさまざまな薬品の力を増大させることができるはずだ。

 消滅しないことが《フォーカス》の利点であるのならば、まったくその逆を行くという発想の転換。

 それがネロのやり方だった。


「まさか、それを試そうというのか?」


 メルロは驚きあきれてネロを見つめた。

「だが、どうする? 水銀やヒ素、硫酸の使用では土地の浄化どころか、さらなる汚染を引き起こしかねんぞ?」

「もちろん、無害なものを使用する」

「聖水、などとぬかすなよ? 法王庁の売りつけるあんなものはただの飲料水で……」

 そんなもの使わないよ、と騒ぎが大きくなるばかりのゴブリンたちの陣を見据えてネロは言った。

 なにか、闖入者であるネロをメルロに奪われたことに憤慨したのか、やたらにシュプレヒコールをあげるゴブリンたちは、まさか市中に繰り出そうというのではあるまいか。


 いや、そうなのだろう。


「迷ってる時間はないみたいだ」

「どうするというのだ?」

 いつのまにか震えが止まっていることにネロは気がついた。

「あそこはさ、臭かった。言うとさ、場末の、ひどい誤魔化しの酒の匂いがした」

 あんなの飲んでたら悪夢を見て当然さ。

「だから」

「だから?」

 まさか、本気で水でも飲ませようというのか? ああなってしまったら、多少の追い水など気休めだぞ? メルロは怪訝げに眉根をよせた。


「二日酔いの特効薬を使う——迎え酒だよ」

 メルロが背中に抱えた革袋に手を伸ばしながらネロはウインクした。


「やっ、これはいかんっ、だめじゃっ、おぬしとのだいじな、だいじな名残の酒じゃて!」

 涙目で必死になってメルロが訴えた。

 その言葉、涙に、ネロは嘘を感じられなかった。だから、言った。

「また……つくってやるって」

 言葉を失い、さらに自失したメルロの肩からネロは革袋をそっと外した。


「それよりも……心配なのは……オレの作った酒は本当に——いい夢を見せれるんだろうか、ってことだ」

「バカ……わしは、一瞬で恋に堕ちたのだぞ」


 そっぽを向いて言うメルロが、たまらなく愛おしかった。


          ※


 結果だけを先に言う。

 ネロの目論見は成功を収めた。

 メルロの助けを得て、ふたたび中庭に下り立ち、革袋に《スピンドル》を通したネロの両手の間で、ワインは微粒子となり、芳香の霧となって中庭を満たした。


 それは美しい夢だった。

 春の満月がそのさまを見ていた。

 ゴブリンたちが得物を取り落とし、場を満たす香気にうっとりとなり、そのまますやすやと寝息を立てはじめた。

 やがて彼らは元の姿を取り戻した。


「悪夢を上書きするとは、考えたな」とはメルロの言だ。


 ネロはことの次第を、その足でスパイラルベインに報告に言った。

 ごつい壮年のギルドマスター:ナッシュヴルフはそうか、と重々しく頷いた。

 それから、ネロの知らない事情を説明した。


「実をいうとな、ここ数日、オマエを嗅ぎ回っているやつらがいてな」

「え?」ぜんぜん気がつかなかった、とネロは思った。

「まあ、自分たちから名乗っていたから——調べはすぐについたが」

「だれ——だったんです?」

「従士隊の連中さ。預かり物もある」

 そう言われて出てきたのは年代物のワインの大ボトルだった。

「って、これっ、黄金丘陵のっ! しかもこの年は……最高!!」

 ネロの驚愕に、そうもあろう、とナッシュヴルフは頷いた。

「王侯貴族ご用達のものだ。いくら法王庁のお膝元とはいえ手に入れる苦労は相当だっただろう。……まさか、ミサ用のやつを連中くすねたわけではあるまいが」

 貴族の三男坊どもの集まりさ。

「どうも事件の匂いがしたんでな、すこしのあいだ預からせてもらった」


 ナッシュヴルフの言葉にネロは、はっとなった。


 今日、ギルドマスターと話していた目つきの悪い男は……。

「オマエを護衛させる目的で後をつけさせたんだが……ネロ、オマエ意外と勘がするどいな。見事に撒かれてしまったそうだ」

 なにか妙な評価を得てしまったらしい。ネロは曖昧に笑い、頭を掻いた。

「お礼参り——オマエさんが従士隊を退団になる原因で叩きのめされた連中が、オマエさんの寝床を突き止めて、タコ殴りにしにでもきたのかと思ったのだが、思い違いだったようだな」

 まあ、花見で酒をくらい、女どもと遊びに興じすぎて〈ジャグリルズ〉に取り込まれていれば、世話はない、とナッシュヴルフは辛辣だ。


「あー、彼らはどうなるんでしょうか?」

「いまうちの腕利き二名と夜警十名が向かっていったから——半裸で眠りこけているところを補導されるだろうよ。風紀紊乱罪——もしかしたら従士はクビかもな」

「いや、それはちょっと、情状酌量の余地があるのでは」


 思わず言ったネロに、ナッシュヴルフは目をしばたかせた。

 そういう仕草はけっこう可愛らしい男なのである。


「オマエをクビにした、その元凶どもだぞ?」

「あー、まー、その。そうなんですが」

 おかしな男だ、と曖昧に笑うネロを見てナッシュヴルフは首を捻った。

「まあ、それはそれとして……まさか〈ジャグリルズ〉——憑き物落としにワインとはな」

 新たな手法として登録しておこう、とナッシュヴルフは報償金に色をつけてくれた。

「どんなワインでもいいのか? 《スピンドル》を通せば?」

「いやっ、あの、そのへんは研究中ということで」

「ふむ、なるほど。判明次第報告するように。場合によっては聖堂騎士団へ報告書をあげねばならんからな。それにしたって、手がかりくらいあるのじゃないか」

 秘密主義は、ここ、スパイラルベインでは認められない、とナッシュヴルフは杓子定規な口調で言った。


「いや、たぶん……夢?」

「なに?」


 ナッシュヴルフの奥まった瞳が、またうろんな様子でネロを見た。


          ※


「そんなこともあったのう」


 裸身に毛布を巻きつけネロに身体をあずけながらメルロは言った。

 退廃的にも寝床でふたりはワインを飲んでいる。


「早いものじゃて。あれからもう半年かや」


 メルロとネロは結局、別れなかった。ネロがメルロを引き止めたのだ。

 だれにも明かせないふたりの関係がいつまで続けられるのか、ネロにはわからない。

 ただ、どうしようもなく、ネロにはメルロが必要なのだ。


「どうして、人間の男を恋人にしようと思ったのか」

 とメルロに問うたのは事件の直後のことだ。


「羨ましかったのだ」とメルロはもじもじと恥じ入り目を伏せて言ったものだ。

「羨ましかった?」

「知り合いの……大公の娘——当然、夜魔の——がな、人間の聖騎士、それも年若い男子と熱愛中でな……もう、それがまぶしいくらいにラブラブで、種族の壁も身分、立場の壁さえ超えて愛しあうふたりのさまに、当てられてしまったのよ」


 両手を火照った頬にあて身体をくねらせながら告白するメルロの姿に、ネロはややあきれつつも、その重大な告白内容に驚愕した。

「年若い聖騎士?」

「《フォーカス》——竜槍と聖なる盾を使う」

「夜魔の大公息女?」

「ガイゼルロン公国を追放となった。聖剣・〈ローズ・アブソリュート〉の使い手」

「それって所在不明になってた法王庁の宝剣じゃあ?」

 いっ、とネロの喉が詰まった。

 その少年騎士がだれなのか判ったからだ。


「アシュレダウ・バラージェ……」


「よっくわかったのう! やはり名家の出か。うんうん、高貴の血筋の匂いがした!」

 あわわわ、とネロは頭を抱えた。希代の天才と謳われた聖騎士と夜魔の大公息女が熱愛中??? こんなことを法王猊下はご存知なのか。一大スキャンダルだ。

 あの潔癖を絵に描いたような少女法王さまは。


 いや、とさらにイヤな予感がした。

 現在進行中の十字軍計画って、ま・さ・か。


 それ以上考えることを、ネロはやめた。寿命が縮まりそうだったからだ。


 つまり、メルロはそのふたりの熱に当てられて、ミーハーな気分で法王庁まで男を探しにやってきたのだと、ネロは結論した。


「それがこんな男でよかったのか」とネロは訊いたことがある。

 バラージェ家のアシュレダウと比較じゃあ、とネロは言ったのだ。

「なぜ?」なぜそんなことを訊く、と切り返された。

「将来性ゼロのアウトローと希代の天才聖騎士じゃあ、いかにも見劣りする」

「聖騎士どのはワイン醸造の方面も天才なのかえ?」


 それなら、のりかえようかのう、とメルロは笑った。


「オレのワインなんか……まだまだ、ぜんぜんだよ」

 自虐的にならないように言ったつもりだったのだが、どこかにそんなニュアンスがあったのだろう。

 がぶり、と肩口をメルロにマジ噛みされた。


「なっ、なにをするっ」

「愛するものをけなされたら怒るのが当然じゃ!」


 メルロの緑の瞳が本気で怒っていた。


「いま、わしは、そなたのワインで命をつないでおるというのに」


 そういえば、とネロは思った。メルロは夜魔であるのにほとんど血液を口にしない。

 寝ている間にこっそりと抜かれているのかと思ったが、そんな気配もない。


「無理に血液を吸う必要はないのだぞ」

 あらたまって訊いてみると、あっさりと謎解きがされてしまった。


「夜魔は血で生きているのではない。血に溶けた夢、託された願いやその人間自体の《意志》が描く夢、それで生きておるのじゃ」

 だから——とネロを見つめ愛を告白するようにメルロは言った。

「同じく、夢を託された食物、料理、酒は、夜魔の肉体に働くのだ」


 だから、おぬしのワインは——。

 将来を誓う花嫁の顔で、ネロを見てメルロはささやいた。


「そういえば、あのとき、おぬしが抱えて戻ってきた大ボトルの銘醸ワイン——まだ封を開けていないな」

「開けて……みるか」

 抜栓したふたりは、その素晴らしさに目を瞠った。

「力強いのに——ぜんぜん押しつけがましくない」

「グラスに——身体が引き込まれる」

 凄い品があるものだ、とふたりは自然にうなずきあった。

「まだまだだな、オレも」

「けっして同じものにはなるまい。だが、おぬしは必ず到達する」

 なにしろ、最高の目利きが横で見張っておるのだから。そうメルロは笑った。

「そういえば、これを送り付けてきた連中——どういうつもりだったのかの」

「さあて、どういうつもりだったのかな」


 なんでも彼らは、危ういところで従士隊退団は免れたそうである。

 ただ、十字軍に付き従った彼らがどれほど生きて帰れたのか、ネロは知らない。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ