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ムーンシャイン・ロマンス  作者: 奥沢 一歩(ユニット:蕗字 歩の小説担当)
第四話:バレル&スピリッツ(器と心)
19/45

霊魂を醸す器


「話を続けるぞ」

 なんとか呼吸を整え、ネロは話の続きを語りはじめた。


 いっぽう、掴みかかった本人、カダシュはといえば、まだ動揺が抜けきらぬようで、その手がわなわなと震えているのが目に見えてわかる。

 メルロといえば、身を挺してネロを守る構えなのだろうベッドに完全に上がり込み身を寄せている。

 その瞳は、もう完全に恋する乙女のものだ。

 ネロが心底メルロに惚れ込んでいるのと同様、メルロもまた、いや、この一連の事件を通して、ますますその度を強めていたのだ。


「カダシュ、もういい。オマエの怒りは当然だ。だが、オレは騎士としてのオマエを愚弄したいんじゃない。ただ、本当にこの作戦の成否は――グラッパを用いた治療法の成否は、オマエの心ひとつにかかっているんだって、そういうことなんだ」

 いいか、カダシュ――ネロは語りかける。

「ワインは、いくらなんでもオマエには無理だ。一朝一夕にできるようなもんじゃない。そして、それ以上に、ワインは作り手の本当の心を見ている。わかるか? どうして、ワイン農家なんて言葉があるか。それはな、ワインの原材料であるブドウを育てる所から、もっといえば、ブドウ畑を耕す所からワインは始まっているってことなんだ」


 どれくらいの年月が必要かわかるか? ネロは問いかける。


「長命種たる夜魔と、その眷族となったオマエにわかってもらえるかどうかわからねえが……それはヒトの半生、いや、一生……もしかしたら息子や孫にいたるまで……その人生を要求される仕事なんだ」


 なあ、カダシュよ。ネロの言葉は限りなく真摯だ。酒を、ワインを語るとき、そこにいるのは落第騎士:ネロ・ダーヴォラではない。ワインと酒という神にその人生を捧げた信徒、求道者としての男しかいない。


「オマエの姫さまへの想いは、本物だ。それを疑ったりはしねえ。だがな、いま、オマエは、これからオマエ自身が醸す酒をバカにした。そんなことじゃあ、決して、決してオレの仕掛けた伏毒の罠――偽りの恋には勝てねえぞ? 

 理由を教えてやる。いま、バルベラの心に巣くう不治の病を生じせしめたものは、その根源たるワインは、文字通りオレが心血を注ぎ、愛する女のため、そして救えなかった女のため、持てる全ての情熱を注いで醸したもんだ」

 どれほどの研鑽、鍛練か――オマエにわかるか? 


 叩きつけられるようなプレッシャーに身じろぎひとつ出来なくなっているのは、今度はカダシュのほうであった。

 戦場でならいざ知らず、たかがワイン、たかが酒、下等種族の奴隷労働者――そう侮っていた相手に、気迫で完全に呑まれカダシュは動けずにいる。

 傷つき痩せこけた男のどこからこれほどの熱が、強い意志の《ちから》が生じているのか、カダシュにはわからず、また震える。

 ネロが言葉を紡ぐ。


「オマエはこれから何度も試される。その心と行いを。オマエはこれから酒を醸す。グラッパを醸す。いいか、これは決定事項だ。

 だがな、心しろ? オマエが相対するのはオレが《魂》を賭けて醸した酒と、その結果だ。もし、その結果としての偽りの恋に、オマエの酒が勝てなかったなら、それはオマエ自身のバルベラを思う気持ちとそこから生じた行いが、オレのそれに完全に敗北したってことなんだ!」


 ざわりっ、とカダシュの全身の毛が逆立つ音をその場にいた全員が聞いた。

 みしりめきり、と血管が膨張し、肉体が膨れ上がる音。拳が色を失うほど握りしめられ、キリキリキリッと歯が鳴った。

 その瞳の奥に、燃え盛る炎を、たしかにネロは見た。

 けれども臆することなく、いや、それまでに増して、ネロは峻厳な言葉をぶつける。


「熱くなってるな、人狼の騎士よ。いい顔だ。覚悟した男の顔だ。決して負けん、とそういう顔だ。

 だがな、言っておくぞ。オマエとオレじゃあ、技術に天地の開きがある。加えて今回使うグラッパの材料だって、オレのものだ。そして、オマエがバルベラを想うように、オレもメルロを想っている。お互い命を賭けたんだ、わかるだろう? 

 だから、このまま、ただぶつかっただけじゃ、オマエは必ず負ける。勝てる要素がないからだ。

 想いだけで勝てるなら苦労はいらない。その想いをずっと胸に抱き、研鑽を続けて、やっと獲得できるものが技術なんだ。道具なんだ。いまからはじめるオマエには、そのどれもない! そういう限りなく不利な場所から、この計画はスタートする」

 酒は、作り手の愛の誠実さを見ているぞ? そうネロは締めくくった。


 カダシュに言葉はない。

 震えているが、それは戦いの厳しさに怖じ気づいた憶病者のそれではない。

 やり遂げる、成し遂げる、そう決意した者の沈黙と武者震いだ。

 よし、とネロは思う。オレの見立てに間違いはない。この男の心根は純粋ピュアだ。

 そういう男でなければ酒は醸せない。


「さて、精神論はこれまでとしよう。こっからは実戦的なやり方の講義だ」


 こくり、と素直にカダシュが向き直った。これまでとネロに相対する態度が大きく変わっている。

 腹に溜め込んだ思いが、怒りがあっただろう。

 それなのにそれを飲み込み、現実に立ち向かうことを即座に決意、決断した。

 こういう男は強い、とネロは経験から知っている。そして、バルベラを思うカダシュの気持ちが本物だと確信している。

 やはり、メルロの妹なのだ。

 嗜好、思考がヒトから見れば残虐に偏向していても、カダシュという男を心酔させるほどのなにかを持った女なのだ。


 そこが、今回の作戦の全てを握っている。


 成功させてやりたい、とネロは互いの立場を越えて思う。

 はからずも、種族を越えてひとりの女の心を救うため、同じ酒を醸すことになった男を応援してやりたいと本気で考えている。


 だから、努めて冷静に説明した。

 酒を醸す――実戦に感情はいらない。

 問われるのは正確無比に、的確に、素早く、辛抱強く動くことができるかだけだ。

 感情が、想いが真に必要なのは、まだなにひとつカタチならぬときから、創り上げるものを信じて、霧の中を進み、転んで這いずり回り、それでも立ち上がって、その無駄とも思える努力を積み上げるときなのだ。

 

「どうしてブランデーではなく、グラッパを選択したか、まずその理由から話そう」

 カダシュが、メルロが、すっかり生徒の面持ちでネロを見た。


「それは、ブランデーの原材料であるワインがすでに完成品の酒として通用するのに対して、グラッパの原材料――発酵させたブドウの搾りかす=ヴィナッチャは、そのままでは、とても酒とは呼べない代物だからだ」

「どういうことだ?」


 カダシュが疑問を口にする。

 当然だ、とネロは頷く。グラッパの製造過程を知らなければ、これは当たり前のことだ。


「図を書いておいた――これが今回、グラッパを造るための道具と過程、その概念図だ」

 ネロは羊皮紙に描いたそれを卓上に置いた。


挿絵(By みてみん)


「陶器製:三段式直火単式蒸留器――酒というものはなんだ、炊いて作るのか?」

「いい質問だ。大きく分けると酒には二種類ある。

 醸造酒と蒸留酒。

 とても乱暴な言い方になるが、醸造酒は、原材料から醸されたままの酒のこと。

 そして、今回、オマエが作るグラッパは蒸留酒、つまり蒸留器を通して、高濃度のアルコールを抽出した強い酒のことなんだ」

「なるほど……それで、このような釜にいれて、炊き上げるのだな……水分をとばして煮詰める、ということか?」


 ああ、なるほどなあ、とネロは思う。

 たしかに、蒸留器の概念を知らなければ、この疑問は当然かもしれない。

 なにしろ、目に見える意味での実体は、鍋のなかにこそあるのだから。


「うん、そう考えるのは当然だ。だが、実は逆なんだ、カダシュ。オレたちにとって用があるのは、その釜から飛散してゆく水蒸気……湯気の方なんだよ」

「???」


 意味が解らない、という感じでカダシュが目を丸くした。

 ネロは思わず吹き出す。

 リアクションがいちいち素直すぎて、なるほどこの男は憎めない。


「な、なにがおかしい!」

「すまん、すまん、いまのはオレが完全に悪い。痛い痛い、腹が痛い」

 まだ痛む傷に、ネロは泣き笑いになりながら、講義を続けた。


「図を見てくれ。冷却用のドーム、とあるだろう? ここと、その上部にたたえた冷却水で、高温の蒸気を冷やして、水に戻す。それを集めて取り出すと、そこにこそオレたちの望むもの――グラッパがあるって、そういう寸法なのさ」

 それで、最初の話だがな、とネロは話題を収束させる。

「グラッパはここまで来て、やっと完成なんだ。つまり、その完成させる過程――蒸留を、カダシュ、オマエにやってもらいたいんだよ」

 ネロは真摯な視線をカダシュにぶつけて言った。


 カダシュはネロの手渡したメモを食い入るように見つめている。

「もっと詳しい説明、それから機材の使用について、実戦的なレクチャが欲しい」

 やるのは当然だ、という様子でカダシュが答えた。

「もちろんだとも」

「恩に着る、ネロ・ダーヴォラ。この件に関しては、オマエは我の、し、師匠だ」

 なぜそこで赤面するのか。

 ネロを師匠だと認めるカダシュのしゃちほこばった思考に、力みすぎの挙動に、ネロはまた笑いの衝動が押さえきれなくなってしまう。

「痛い痛いお腹痛い」

「な、なにを笑うかーッ!!」

 そのカダシュの怒る顔さえも、いまのネロには笑いのツボだ。

「悪かったオレが悪かった、ゆるしてゆるしてくれええ」

 笑い転げるネロに顔を真っ赤にして怒るカダシュ。

 やかましくなったもんじゃのう、とメルロはなかば呆れ顔だ。

 

「ただ、師匠:ネロよ。これだけで本当に、大丈夫なのか。その特効薬として、効き目があるというのか?」

 どれぐらいしてからだろう、カダシュが訊いた。


 鋭いもんだな、とネロは思う。

 蒸留は、それはそれで気力も体力も使う作業だが、材料はすでに用意されているわけで、いったん仕事に入れば、あとはどちらかというと推移を見守ることのほうが多くなる。

 そんなことで、自分の酒は、ネロのそれに勝てるのか、とカダシュは問うているのだ。


「ダメだろうな」

 きっぱりとネロは断言した。

 なん……だと……。カダシュは声を失う。それはそうだろう。

「ど、どういうことだ。ダメとは」

「あーまてまて、カダシュくん。いきり立つな。ダメだと言ったのには理由がある。それはまだ、この特効薬の製造法が半分までしか来てないからだ」

「半分? 酒は出来ても、まだ半分?」

「そうだ」

「では、なんだ。どうすればもう半分を進めることができる? 早く教えろ! いや、お、教えてください、し、師匠!」

 ネロは発作的な笑いを、こんどはどうにか意志の力でねじ伏せ、うなずいた。


「もちろん、教えてやるさ――ただ、こいつは実践しながらじゃないとわからないかもだ……。数日、オレに時間をくれ。話をつける。そのあいだは、オマエはワインを持って、バルベラのそばについててやれ」

 いきなり、あれこれ詰め込んでも、そう簡単に身につくものではない。

 ネロは蒸留器のメモと、その概念、使用法をレクチャするに今日のところはとどめようと考えていたのだ。


 だが、鼻息を荒くしているカダシュを見るにつけ、なにかヒント的なものを与えておかなければ、コイツは暴走しかねない、とも感じていた。


「あー、ヒントというか、なにが関係しているかだけは先に教えといてやる」

「う、うむ、かたじけない」

 おそらくカダシュのほうも、ネロとの関係に戸惑っているのだろう怪しげなござる言葉になっており、それがネロの笑いの嗅覚を刺激するのだ。危険だ。


「オレはさっき、蒸留酒を造るということは、霊魂を抽出するのに等しいと、そう言ったな?」

「たしかに。そう言った」

「そう、なぜか、酒を語る連中は、そこまでで話を終わらせがちだ。だから、それを伝え聞くさらに多くの人間が、酒とはすなわち原材料や醸しの過程や蒸留のことだと……勘違いしている」

 ネロのささやきにも似た言葉に、カダシュが、そしてメルロまでもが怪訝げな、あるいは不思議そうな顔をした。

 ふたりとも、酒とはすなわちいま、ネロの語ったものであると考えていたからだ。

  

「もちろん、それが間違いってわけじゃないんだ。材料の吟味、取り扱い、醸しの工程も期間も温度調整や、醸し上がりの見切りも、もちろん蒸留にまつわるあれこれも――酒を構成する重要な一部、あるいは本体でもある。

 だけどな、ほんとはそれじゃあ片手落ちなんだよ。霊魂がそれだけで、この世には留まれないように、つまり肉体という入れ物が必要なように、酒にもまた器が必要なんだ」

 そして、その器は、単なる容器じゃない。熱っぽく語るネロを、メルロが見つめる。カダシュもまた語りに引き込まれている。


「その器が、酒を育む。香りを、コクを、そして美しい色を与える」


 そこでの時間――熟成を持ってはじめて、酒は完成するんだ。

 すくなくとも、オレたちの、そして、カダシュが醸す酒は、そうだ。

 ネロは言う。


「その器とは――」

 いったん言葉を切ったネロに、辛抱できなくなったのだろうカダシュが身を乗り出して訊いた。

 霊魂たる酒――グラッパを納めるための器とは、なにか。

 そう詰め寄った。

 教えよう、とネロは答えた。

 それだ、と指さした。

 

「いま、カダシュ、オマエが座っている、それだよ」


 語りに引き込まれ、身を乗り出していたカダシュが、強烈なカウンターを喰らったがごとく、ひっくり返りそうになった。


         ※


 樽材になるオークは最低でも樹齢一〇〇年から二〇〇年のものを用いる。

 木の繊維にそって、注意深くここから樽板を切り出す。

 このとき、繊維の方向を見誤ると、あとで樽がひずんで水漏りがする。

 樽板は戸外に放置して、日光と雨にさらす。

 さもないと、恐ろしい渋味やエグミが内容物に移るからだ。

 最低でも一年、場合によっては四年以上もこうして木材をさらす。

 

「まず、樽そのものの組み上げ以前に、ここまでの過程が必要なんだ。樽のあの芳しい香りも、ここで引き出される」


 そうガンツは言った。

 ちなみに、全ての説明は棒で地面に図説される。

 カダシュがそれをメモに取ろうとして、頭頂部に棒の一撃を喰らった。


「オイ小僧、ふざけるんじゃねえぞ! ネロの頼みだからしぶしぶ教えてやっているんだ! それを書き留めて持ち去ろうなんざ、許されることじゃねえんだよ! 次はこのハンドアクスを食らわせてやるからそう思え!」

 カダシュにしてみれば、下等種族と見下してきた人間に、突然頭をぶち殴られたのだから、これはもう怒りを覚えて当然だっただろう。

 だが、先日、ネロにぶちかまされた経験からだろうか。

 怒りを飲み込み、ぺこりと頭を下げた。


「オメーさんも、職人を志すなら、自分のおつむと身体で憶えろ」

 そう付け加えるガンツをネロも止めない。もちろん内心はひやひやものだ。

 

 底と蓋になる樽鏡は、幾枚かの板を繋げて作る。

 繋げるときは、互いの側面に穴を開け木釘を使う。

 こうして大きな板を作っておいてから、丸く切り出すんだが、そのとき縁の部分は三角形の断面を描くようにする。

 そして、胴の部分のそれは、中央が膨らみ、両端に向かって狭まるようにする。

 あとで曲げたとき、キレイな曲線を描くようにするためだ。

 だから全てが揃った同じ長さ、同じカタチでなけりゃだめだ。

 

 ガンツの説明は続く。

 頑丈な鉄輪をくぐらせながら、台座に掘られた円形の溝に沿って胴板を立てていき固定する過程。

 そこから、足元に据えられた火床の上に組んだ作りかけの樽をかざして熱し、同時にその内側に水をかけて水蒸気の力で木材を曲げていく方法。


「力任せにやったって、木は曲がらねえ」

 そう言ってガンツに手渡された木材を、カダシュがへし折ったときは、呆れるガンツよりはやくネロがフルスイングのツッコミを入れたほどだ。

 ロープで締めながらカタチを整え、仮組用の鉄輪をかましていく。

 

「ここから先が、樽の本当の秘密なんだ」

 ガンツは実際にその過程を見せてはくれなかった。

 すべては、砂上の講習のみ。

 理由はふたつある。

 それが本当に門外不出の秘伝であること。

 もうひとつは、ネロの持ち込んだ大樽の木材に、その加工を施す必要がなかったためだ。

 

 だが、ネロはこの秘密をもうすでに知っていたのである。

 いや、知っていたからこそ、今回、わざわざワイン樽の古材を持ち込んだのだ。

 

 トスタトゥーラとそれは呼ばれる。

 トーストする、ほどの意味になるだろうそれは、樽の内側を直火で焼く行為だ。

 この焼き入れの強さによって、引き出される樽の味わいと香り、色が決まる。

 

 ネロが、酒を語るにその原材料や製法だけでは片手落ちだ、と言ったのにはここに理由がある。

 

 同じ樫材でも、地方によって個性があり、香りも引き出される味わいも違う。

 もちろん、前述したように焼き入れの強弱でも、それは変わる。

 

 ナッツのような、トーストのような、柑橘類のような。

 チョコレートや、バニラ、あるいはスパイスのような。

 

 ワインやそのほかの酒の個性を語るとき使われるこれらの描写の多くが、すくなくともその半分は(とネロは確信しているのだが)、この樽の個性なのだ。

 

 こう言い換えてもいいかもしれない。

 

 樽を経ない酒は、調理されていない生の肉だと。

 そして、樽こそは塩であり、コショウであり、多種多様なスパイスである、と。

 

 つまり、酒を醸すものは、その酒を、どの種類の樽に入れて熟成し、どんな個性を帯びさせるか――そういう選択肢を突きつけられるのだと。

 

 だから、酒を語るものは、決して樽を無視してはならない。

 それは料理を語るに、素材の善し悪しだけをうんぬんするような、そういう状態であるのだ、と。

 

 むろん、樽を経ない酒もあろう。ネロも知っている。

 それは、そういう楽しみ方をすればいい酒なのだ。

 素材の個性を、純粋に楽しむ酒なのだ。


 ただし、作り手にその甘えは許されていない。

 

 知ってなお選択しないのか、知らずに、そもそも選択できなかったのか。

 これは大きすぎる違いだ。

 それだけのことだ。

 

 ネロが酒と樽の関係に思いを馳せる間に、ガンツは実践へとカダシュを誘っている。

 

「いいか、若ぇの。どういう思惑かしらんが、材木は限られてるんだ。ほとんど一発勝負だ。ヘマやらかすんじゃねえぞ」

 ガンツが脅す。カダシュがうなずく。

 馴れぬ道具を前に四苦八苦するカダシュだが、スジは悪くないのだろう。ガンツがあれこれと口を出しはじめた。


 見込みのない人間には、早々のうちに決定的な三行半を突きつけるガンツである。

 その男が、細かい指示を飛ばすのは、カダシュが思った以上にやるからだ。

 当然といえば当然だ。

 なにしろカダシュはガイゼルロンの月下騎士:バルベラの、その第一の僕を自認するほどの戦闘能力の持ち主なのである。

 あらゆる状況把握能力に抜群に優れ、狼形態ウルフ・フォームとなれば膂力で成人男性十名を圧倒するほどのパワー持つ。

 もちろん、月下騎士の側近を務めるとなるとこれは従者としての働きも含めるから、愚鈍では務まらない。

 暑苦しいだけで、その頭脳はじつに明晰なのである。

 そして、なにより、今宵の作業には、敬愛してやまないバルベラ姫の命と今後がかかっていたのである。

 まさしく、一命を賭して戦場に挑む覚悟であっただろう。

 

 作業もほとんど終わり、タガを本式のものに変えたところで、いったん休憩を告げたガンツが、吹き出る汗を拭いながらネロに歩み寄り、ささやいた。


「オメエ、たばかったな。あいつぁ、どっかの門弟か、アトリエの若頭だろうが。くそう、まんまとはめられた。あんまりにスジがいいもんで、オレもあれこれ口を滑らせすぎた……焼き入れの過程を見せなくて大正解だぜ」


 苦々しげに言うガンツの目に、どこか清々しい光りがあることに、ネロは気づいていた。

 憎まれ口を叩いていても、若く意欲ある職人と触れ合えるのが楽しみな男なのである。

 だからこそ、五年前のあの日、ネロに樽を融通してくれたガンツなのだ。

 へへへっ、と不敵に笑い返しながらも、心のなかでネロはガンツに深々と頭を下げていた。

 

 もちろん、いかにスジが良いといっても失敗はある。

 結局、約束した大樽の古材は、ほとんど残らなかった。

 ネロはそれを見越して、手土産にワインの小樽をひとつ、加えておいたのである。

 礼というものは、事後に済ませればよいというものではない、ということでもあろう。

 先手を打つ重要さ、機転というところだ。

 

 なにはともあれ、こうして、霊魂を受けるべき器=樽は完成したのだ。

 

 ワイン樽の古材から人狼の騎士によって作り上げられた器は、どのような酒へと、注がれた霊魂スピリッツを昇華させるのであろうか。

 

 いよいよ、蒸留が始まる。

  

 

 

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