バラル・バレル
「さて、問題の根本的な解決方法だが」
翌日の晩、再び密造蔵を訪ったカダシュを前にネロは言った。
ベルカが《ちから》を貸してくれているおかげで、なんとか半身を起こして話をするところまでは回復してきたネロである。
一方で、カダシュのほうも、バルベラの様態が小康状態に落ち着いたことで、いくぶん冷静さを取り戻していた。
きちんと衣服をまとっても、いる。
「オレが使った異能は、ワインに溶けていた《夢》を活性化、解放し、現実に影響を及ぼすものとする技なのだと、理解に及んでいる」
つまり、だ。ネロは言う。
「あのワインに込められていたメルロへの愛情、ルシルベルカへの……懺悔と、さらにはルシルベルカ本人のオレへの思慕・恋慕がだな、《スピンドル》の《ちから》を借りてその肉体に送り込まれ、いまやバルベラの胸中を占拠している——と、いうわけで……」
ネロの声がだんだんしどろもどろになる。
無理もない。
目を閉じ、じっと話に聞き入るカダシュの両の手は、己を制するように卓上に組まれ、その眉間に寄る深いしわと、時折、ぴくりっと動く濃い眉、そして額に浮かんだ青筋を見れば、とても平静ではいられないだろう。
「つづけろ」
ましてや、己を押さえに押さえ込んだ様子で、低くそう言われれば、なおさらだ。
ごくりっ、とツバを飲み込む音がやたらと大きく感じるのは、気のせいではない。
「その想いを、もっと強いもので上書きするしかねえんじゃ、ねえかと……」
「上書き。強い酒——つづけろ」
「えー、あー、えーと、い、以上です?」
カダシュが閉じていたまぶたを開けたのは、数秒間をおいてからだった。
「ご、ご理解いただけました?」
「とりあえず、やはりキサマが破廉恥な媚薬のごときものを用いて、我が主:バルベラ姫さまの心を汚したことは理解した」
「うええ。いや、そりゃ不可抗力ってやつで」
「ただ、いまここでキサマをぶちのめしたり、吼えたり叫んだりしたところで、姫さまの症状を改善することはできん、とも心得ている」
「えらいぞ、カダシュ」
「上から目線か、キサマッ!!」
「まてまてまてまて、そこな男ふたり! またあきらかに脱線の兆しじゃぞ!」
たまらずメルロが仲裁に入った。
「ネロ、オマエさま、いまのはオマエさまにも非がある。こやつも焦れておるのじゃ。もそっと具体的な話をしてやらんか」
あ、ああ、そうだな、とネロは気を取り直した。
カダシュの放つ鬼気、そのあまりのプレッシャーに気圧され、たしかにネロは具体的な部分の説明を省いてしまっていた。
つまり、
「上書きすること、そして、強い酒の話だったな」という部分から先を、である。
まず、と上書きの話からいこう、とネロは切り出した。
「オレは基本的に、これ以上バルベラの心を玩ぶようなマネはしたくない。現在の彼女の状態に関しては、不可抗力であったとしても、当然のことだとはオレも思っていない。バルベラのなかに巣くっているオレへの恋慕は疑似的な、つまり偽りの恋だ。そういうのを、女の心に植え付けて己の自由にする、という発想はグロテスクだ。だから、解除には協力する」
ただ、とネロは続ける。
「ただ、その治療法として、オレの酒を用い、オレの異能でそれを上書きする限り、症状は改善しても、オレへの恋慕は解除できない気がするんだ」
ネロの言葉に、それでは、とカダシュが反論した。
「それでは処置なしどころか、本末転倒ではないか」
「そうなんだ。その上、オレはこの《スピンドル》を使った上書き——洗脳にも似たやり方が……治療法としてどうにも好きになれない。恋はともかく、その先の愛情というものは、ゆっくりと育まれるもので——こういう解決法じゃだめなんじゃないかって思うんだ。それはきっと、ワインが、そしてワインになる葡萄が、一朝一夕にはならぬように」
根っこは同じじゃないか、と思うんだ。ネロは言った。
その言葉に、カダシュはうなずきこそしなかったが、無言で先を促した。それなりに感じるところがあったのかもしれない。
「それで、オレは別の方法を考えた。相手が夜魔でなければ通じない治療法だが……効果は確実にあるはずだ」
「それは?」
「まあ、まて。気持ちはわかるつもりだ、カダシュ。オレみたいな男に、自分の惚れた女の心を占領されるのは、たしかに許しがたく感じているだろう」
「ちっ、ちがっ、わ、我のものは断じて男女のそれではなく、純粋な敬愛であり!」
「わかったわかった、そうしよう、敬愛な? 話を続ける。オレが今回、考えたのは、《スピンドル》を使わない解決策だ」
とっぴもないネロの発言に、メルロとカダシュふたりの夜の種族が息を飲むのが聞こえた。
この世界にあって、《スピンドル》能力は、ヒトの《ちから》をして神の奇跡に肉迫するとまで言われるほど強力なものなのである。
ゆえに、いまのネロの発言は、その強大な《ちから》に、あるいは“神”そのものに徒手空拳で挑みかかる、と宣言したのに等しいものだったのである。
けれども、ネロは続ける。己の考えた方策を語る。
「夜魔は血に溶けた《夢》を味わう。それゆえ、強い想いを込められて醸された酒や、愛情を込められた手ずからの料理からも《夢》を摂取できる——ここまでは、あっているか?」
ネロは夜の種族ふたりに確認した。こくり、とふたりがうなずく。
「そして、夜魔にとって《夢》が食事であるのだというのなら、《夢》は夜魔を形作る建材だ。礎であり、柱であり、梁であり、屋台骨、竜骨だ。そうだろ?」
またもや、うなずくふたり。
わが意を得たり、とこんどはネロもうなずいた。
「そしたら、だ。いまオレの生み出し、バルベラの心を染めちまっている偽物の恋を、誰かの真心から造られた《夢》で駆逐すること、追っ払うことはできるんじゃねえか? 一気に上書きするんじゃなく、少しずつ育んでいくことで?」
「言わんとすることはわかるが……実際にはどうするというのだ?」
カダシュがこれまでと違う反応を見せた。
ネロがバルベラの意思を尊重しようとしているのが伝わったのだろう。それまであった、どこか見下すような態度が、わずかにだが弱まっている。
「そこで、必要となるのが――強い酒だ」
ネロは蔵の奥にある樽をあごで示した。
カダシュが立ち上がり、そのフタを開ける——するとそこにあったものは。
※
「すまないな、親方。ややこしいこと頼み込んで」
「しかたねえさ、スパイラルベインのナッシュヴルフと密造蔵の主:ネロ・ダーヴォラの頼みじゃな」
ネロの謝辞に筋骨隆々として、あごひげをたくわえた、いかにも職人然とした男が応える。
木工ギルドの樽職人、その元締め:ガンツベルドだ。
ネロが荷車に乗せた大小あわせて三つの樽を、その工房に持ち込んだのは夕暮れ時だ。
むろん、来意についてはスパイラルベインを介して手紙で事前連絡をしてある。
カダシュとの二回目の会合から五日、傷は塞がり、ケモ耳は消え、ふらつくながらも動き回れるようにはなった。
ベルカの憑依が解けたことで、あの怪しげな外見からは(ケモ耳男?)解放されたものの、ここからの回復は自力で、ということとなる。正直、けっこうキツイ。
だが、その憔悴を押してでも、いまのネロにはやらねばならぬことがあった。
バルベラが罹患した偽りの恋の病を根治するための特効薬の製造だ。
そして、特効薬製造の決め手となるのは、ある重要なアイテムであった。
ネロはそのアイテムの製造協力をガンツベルドに頼み込んだのだ。
ちなみに、ガンツベルド、いわゆるガンツ親方とネロのつきあいは、スパイラルベインになってからよりもはるかに長い。
ネロが従士隊の費用を捻出するためワインの密造を決意した頃からだから、かれこれもう五年以上になる。
この時代の物資輸送には、かなりの確立で関わっていたのが樽である。
アンフォラなどの素焼きや陶器製の壺にくらべはるかに頑丈で、その形状から運搬性も高い樽は、人々の生活を裏で支える重要な役割を持っていた。
余談だが、この当時の木材はじつは軍需物資でもあり、戦時には厳しく輸出制限がかけられる代物だった。
巨大な攻城兵器も、槍も弓矢も、木材がなければ作り出せない。
いや、そもそも薪や炭がなければ、兵の食事の煮炊きすら難しいのだから、その重要性は推して知るべしである。
木材商というのは、だからある意味で軍需産業の屋台骨を支える職種であったのだ。
そして、樽には、その胴を締めるに重要な資源である鉄が使われ、また液体が漏れ出ぬように隙間なく、そして優美な曲線を描いてキチンとおさまるよう木材を曲げる技が振るわれていることからもわかるように、その製法は職人技に属する秘伝であったのだ。
使い捨てにするなどもっての他である。樽を扱うことのできる商人・職人は限られていたほどの品物なのである。
その樽を、中古とはいえ、ネロは数個以上、このガンツという男から融通してもらっていた。
もちろん、密造酒をタダ呑みさせるのが条件だ。
こちらも前述したが、高品質のワインは、庶民の口にはまず入らなかった時代のことだ。
それなりに稼ぎのある職人の親方であっても、簡単ではなかっただろう。
どこかの豪商か、貴族の館にでも招かれるようなことがなければ、これはもう、密造酒に頼る他ない。
そして、ガンツは、ワインを解する男だったのである。
ワインを醸したい、と己の企みを漏らしたネロに、にやりと(本人は限りなく好意的だと思っている)笑みを返し、黙って樽を都合してくれた。
ある意味で、ネロの一番最初の顧客と言えるかもしれない。そういう男だった。
「しかし、樽の製造設備を貸してくれ、とはトンでもない願いごとを思いついたな。普通のギルドなら、ご法度だぞ」
親指で首を掻き切る仕草をガンツはした。
職人たちの協同組合というより結社的側面を持っていたギルドでは、それぞれの技術は秘伝であり門外不出の技であった。
技術の秘匿性、機密性は職人たちの生計、生活、ひいては自らの職業の存続性に関わっていたのだから切実であった。
それは比較的、生活に密着した「樽」という道具を扱う職人であっても変わらない。
前述したように袋や木箱といった他の輸送用コンテナ類などとは別格の品だったのだ。
「そこでスパイラルベインの仲介がいったのさ」
ネロは、片目をつぶって言う。
法都:エクストラムの裏社会を律するスパイラルベインはある種の犯罪結社であり、その元締めは法王庁、つまりこの都の最高権力機関に直結する、いわばこちらもギルドであった。
そのスパイラルベインの現場統括者からの要請であれば、いかに木工ギルドとて無下には断れない。
「なんでも、魔物への新たな対処法の研究に必須だとか」
「そのレポートが認められて、今夜のこの運びになったのさ」
「ウチだって支払いがスパイラルベインでなけりゃ断ってるところだ」
ガンツが苦笑する。
ネロはそのガンツに、持ち込んだ樽のうち小さいひとつを差し出した。
「去年の造りだ。手土産代わりに納めてくれ」
「! ひと樽まるまるか! 豪儀だな」
ナッシュヴルフを巻き込みスパイラルベインを通したことで、ネロがこのような支払いをする必要はないはずだが、そこは富農の出、さらに従士隊での経験もある。職人や役人への手土産、心付けといったものがいざというときものを言うのを、ネロは知り抜いていたのだ。
「それで、木材はどうするんだ。タガ(樽にはめられる鉄の輪)はウチのを使うのか?」
「いや、材料は全てこちらで用意する。それでこれを持ってきたのさ」
ネロは職人たちが帰ってしまった工房で、運び込み荷車から降ろした大小ひとつずつの樽を顎でさした。
「材料は全て持ち込み? タガも? ……古材で全部用意してきたってか? だが、話が見えんぞ」
ガンツの反応は当然である。
なにしろ、樽はもうあるのだ。それも、ふたつも。
「大樽の木材を流用して、小樽を組み直す。小樽のタガは流用して……材のあまりと大樽のタガは、親方の取り分だ」
「! ちょっとまて! 意味がわからん。いや、大損しているぞ、ネロ! 面倒を増やしているだけだ。なんの得もないどころか、大樽一つ分、丸々損じゃないか!」
あまりの申し出に、さすがのガンツもネロを諌めた。
自己利益追求のため、おかしな文句をつけたりごねたりする客を相手にしてきたガンツである。
そういう欲に目がくらんだ連中が陥穽に気付かずいるなら、黙って見ないフリを決め込むなど当然のことだと思っているが、ネロのそれは違う。
ネロの申し出は、自ら墓穴とわかって穴を掘る男のそれだ。
ガンツの諌言に微笑んで、ネロは言うのだ。
「わかってる。だけど、こうしなくちゃいけないんだ」
「……どうも、あいかわらずクレイジーだな、オマエさん。いや、以前より、ひどくなっとるぞ」
密造とはいえ、粗造乱造の悪酒で一儲けたくらむ連中のそれと、ネロの醸すワインがまるきり別の思想・哲学に属していることを、わからぬガンツではない。そこにある愛の差、酒への敬意の差を感じ取れないでは酒飲みとは言えない。
ガンツの躊躇は、だからこそであった。
あれほどの酒を醸すネロが、酒にとっての樽の重要性を知らぬはずがないからだ。
言うなれば、ネロは醸造家としての財産、かけがえのない道具を切り売りしようとしているのだ。
よほどのことだ、と同じ職人としてガンツは思う。
そのうえで、だが、とも思う。
憔悴しきったネロの瞳だけが、ギラギラと輝いている。
なにか、デカイことをやる男の顔になってやがる。そう感じてもいる。
「わかったよ。理由は聞かねえ。ウチの道具、好きに使えや」
「ありがとよ。恩に着るぜ、親方。……んで、ありがたついでに、もひとつ頼みがあるんだ」
「なんだあ?」
「樽の製法を、アイツに、伝授してやってくれないか?」
これが本題だ――そういう口調で、すっかり暗闇に飲まれてしまった工房の一角をネロは指さす。
怪訝な顔でその指の先を追ったガンツが見たものは、いったいいつのまにそこに現れたのだろうか、長身巨躯の美丈夫――そして、ガンツは知らぬことだが――人狼の騎士:カダシュの姿だった。
※
さて、時制が前後するが、どうしてネロとカダシュが樽の分解、再構成に及んだのか、その理由を話しておかねばならない。
ことの発端は、五日前の密造蔵での会談、そこでネロが示してみせた樽の内容物である。
蜜蝋の灯が照らし出す室内で、なんとか男ひとりが抱え上げることのできるサイズの樽をこちらへと運んだカダシュに、その蓋を開けるようネロは指示した。
「罠ではないだろうな? 毒や、爆発物の類いでは」
「まっさきに、オレが死ぬだろうが! よく考えろ!」
カダシュの問いをネロは一蹴した。ふん、と鼻を鳴らし、カダシュはネロの指示に従う。
「なにか、臭うぞ?」
「ああ、この部屋全体がもう隠しようのない匂いで満ちているな」
「この樽が根源だな」
カダシュは言いながら樽を運んだ。液体にしては軽いが、なにかたしかに入っている。
「開けてくれ」
「おかしなマネをしたら、頭を食いちぎるぞ」
「だから、死ぬと言うとるだろが!」
疑り深い眼差しでネロをひと睨み、それでもカダシュは乗せられていた樽の蓋=樽鏡を持ち上げる。
すると、突然、強い芳香が立ち上った。
それはベッドで半身を起こすネロにさえ強いと感じられたのだから、直接蓋を外した上に、人狼であるカダシュにはもはや物理的な奔流として感じられるほどのものであった。
幾多の戦場を潜り抜けてきたカダシュをして、のけ反らせるほどの香り、その解放だったのである。
しばらく、カダシュはその姿勢のまま固まっていた。
そして、おもむろに前屈となり、樽の縁に両手をかけ、中身を覗き込むようにしてもう一度深く香りを嗅ぐ。
充分にそれを嗅ぎおえてから、やっとネロに向かって訊いたのである。
「これはなにか」と。
その反応に、驚いたのはネロもだったが、まるで歌劇を思わせる大仰なリアクションを嘲るような気持ちにはならなかった。
むしろ、わかった。わかりすぎるほど、わかったのである。
このカダシュという男が憎めない理由が。
この男には感性がある。
美しいもの、素晴らしいもの、素敵だと思うものに対して嘘が吐けない、素直な、そして鋭い感性がある。
それがこの男の魅力なのだろう、とも。
そして、思ったのだ。
これは、この男なら、可能かもしれない、と。
いまからネロが説明する方策を、現実のものとして成し遂げることができるだろう、と。
だから、努めて冷静にネロは言った。
「それがグラッパ――これから醸す、強い酒の原料だ」
グラッパ――「ブドウの房」をその語源だとするこの酒は、蒸留酒の一種で、ブドウを原料とする。
同じくブドウを原材料とする蒸留酒:ブランデーとの最大の違いは、ブランデーがワインを蒸留して造り上げる酒であるのに対し、グラッパはワインの製造過程で生じるブドウの搾りかすを別に発酵させることによって生じる、ある意味での再利用品なのである。
粕取りブランデー、などと揶揄されることもあるが、ネロたちの暮らすイダレイア半島においては、これを巡っての戦争が起きたほどであり、決して格下の酒として認識されているわけではない。
その製造過程は独特で、特に固形状態の搾りかすを発酵させる工程は、ネロは他の酒とは一線を画する部分であると考えている。
さらに修道院で醸されるものは、発酵過程に移る前に砂糖を加えるということを、ネロは従士隊時代に某名門の御曹司から聞き出していた。
もちろん、それは修道院の財力あればこそで、砂糖などとという高級品はなかなか庶民の食卓には上らなかったご時世のことである。
だが、ネロはそれまでのワイン醸造の経験から「甘さ」と「出来上がる酒の強さ」にある一定の関係性があることを見抜いていた。
甘味のないところに酒精は生じない――この一文を錬金学の教本に見出したときは、ひとり無言でガッツポーズをキメたものだ。
だから、よいワインを醸そうと思うなら完熟、すなわち最高に高まった糖度を持つブドウを目指さねばならぬのだと、仮説と経験と知識の合一に酔いしれた。
そして、コストを抑えながら甘味を加える方法に、考えを巡らせていたのである。
行き着いたのはカッルーバ、すなわちイナゴマメの鞘。それを乾燥させ、砕いて粉末にしたものである。
焼いて食せば甘い芋のような風味を持つこのマメの鞘は、ファルーシュ海沿岸にて栽培される植物で、砂糖に及ばぬにしてもかなりの甘味を含んでいた。そして、やはりその貴重さからだろうか「カッルーバの種」は「宝石のサイズを計る単位」の基準になってもいた。
難点と言えば、砂糖に比べて独特の風味を酒に加えることになるだろうことだったが、これには目をつぶるしかなかった。
しかし、完璧を期するあまり、実践に及ばないでは成し遂げられることなどなにもない、というのが持論のネロである。
メルロにうまい酒を飲ませてやりたい一心で、試みたものだ。
それが、カダシュを惹きつけている。魅了している。
よい醸し上がりだと、ネロは思う。
素晴らしいものに出会った時、嘘のつけない男を、その芳香が魅了しているの見るにつけ確信している。
「これはなんだ」と再び、カダシュが訊いた。
こんどはもう少し具体的な、たとえば原材料についての質問だとネロは了解している。
だから語った。包み隠さず。
「搾りかす?」
その部分で、カダシュの表情が曇った。
やはり、そこか、とネロは思う。
「敬われてしかるべき姫殿下に、搾りかすから造った酒を供するというのか?」
プライドから、そして、バルベラへの敬愛からカダシュがこのような反応を見せるのはわかっていた。
だから、ネロは言った。
「カダシュ、オマエの言わんとするところはわかる。だが、話は最後まで聞け」
ネロは眼前に手をかざして、カダシュを制した。
カダシュの方も、これまでとは違い、素直にそれに従う。
わずかずつだが信頼関係が育まれつつあるのをネロは感じている。
「オマエの言う通り、また見てもらえば一目瞭然だと思うが、グラッパの原料はブドウの搾りかすだ」
だが、聞いてくれ。ネロは続ける。
「たしかに、オレの手元にはワインがあり、これを蒸留すればブランデーとなる。それをバルベラに供することだってできるし、格的にそれが当然だと、カダシュ、オマエはそう感じているのだろう?」
「ブランデーがワインから造られる……それは初耳だが、そうだ。なぜ、搾りかすからでなければならん?」
不敬である、とそういう感情を内包した口調でカダシュが言った。
「くりかえすが、オマエの気持ちはわかる。だけどな、いいのか? オレの完成させたワインを使い、それをより強めるため、その精髄を蒸留した酒を使ってしまって……それじゃあ、改善どころか、本当に不治の病にしちまいやしないか? バルベラの心に巣くった偽物の恋を本物の恋に育てちまうんじゃないか? オレはそう言っているんだぜ?」
ネロの指摘に、はっ、とカダシュが口元を押さえる。
いや、オマエ、そんな仕草だけ可愛くしなくていいんだよ、とネロは思う。
おかしな暑苦しさを感じながらも、話は続けなければならない。
「オレの考える治療法を成功させる鍵は、カダシュ、ズバリ、オマエなんだ。オマエの心、オマエの行い、オマエの実践だけが、バルベラを救いうる、とオレは考えているんだ」
「我の……心? 行い? 実践……だと?」
「そうだ」
ネロはうなずいて答えた。
「究極的にはオマエが醸した酒でなけりゃあならん、とオレは思っている。今回の、この作戦では、そうでなければならん、と確信している」
ネロは作戦の本質を語ろうとした。
しかし、カダシュ本人が酒を醸す――それは成り上がりゆえ、人狼という異種族ゆえ、強烈に夜魔の騎士としてありたいと意識して生きてきたカダシュのプライドに障ることでもあったのだ。
反射的にカダシュが掴みかかった。
「待つがいい! 我は騎士だ! 酒を醸すなど、下等種族の、奴隷階級のごとき連中の真似事などできるかッ!」
だが、ネロの言葉に気炎を上げたカダシュの胸ぐらを、今度は反対に恐ろしい勢いで掴むものがあった。
他に誰あろう、ネロ本人である。
「聞き捨てならねえぞ、オイ。いいか、オマエのその性根をいまから叩き直してやるから、そう思え。いや、オマエらがオレたちのことを下等種族だと、奴隷階級だと見下すのは、まだいい。じっさい、夜魔たちの洗練に比べたら、オレたち人間てえのはどうしようもない生き物かもしらんしな。
だがな、いいかよく聞け! 酒を見下すな! 酒には敬意を払え! 蒸溜酒たちが、なぜ、アックア・ウィタエ、オー・ド・ヴィ、ウィスケペル……各国・時代で、呼び名こそ違えど“命の水”と呼ばれてんのか、わからねえのか? そこに託された《夢》の《ちから》を体験していながら、わからねえのか?
そこにあるのはただの酒じゃねえ、ただの液体じゃねえ――蒸留ってえのはな、霊魂を、その精髄を抽出するってことなんだ!」
不死性も、超回復能力も、強大な戦闘能力も異能も《スピンドル》も持たねえ、どうしようもない人間たちが、自分たちの《意志》とその《意志》によってカタチにした道具で成し遂げた――この世に降ろした奇跡なんだ! そうネロは言いきった。
「てめえが酒をバカにしたまま試みたなら、そういうつもりなら、試すまでもねえ。この作戦は必ず失敗する。断言するぜ!」
どうするかはテメエが決めろ。
どんっ、とカダシュの胸板を突き放したネロは、傷に障ったのだろう激しく咳き込んだ。
けれども、そこを突こうとすれば突けたはずのカダシュは再び、そうはしなかった。
狼狽え、硬直して樽に腰を降ろしたまま動けなくなってしまっていたのだ。
イナゴマメの粉末をまぶすくだりは、トビスケの完全な創作です。
マネしちゃダメ!
ただ、カッルーバの種が宝石を図る単位となった=カラットの語源であることは、どうやら史実のようで。ふしぎですなあ。