ブラッド・フォビア
雪解け水が天上の光を移し込む月下の遺跡群。
その只中で、人狼の騎士と夜魔の姫、そして、満身創痍の落第騎士が睨み合う。
「聞けば、バルベラはまだ、オレの技に捕らわれているそうじゃないか」
荒く息をつきながらネロは言った。
「馬鹿者! おぬし、まだ傷がふさがりきっておらぬのに! 無理をして、開いたらどうすんじゃ」
すかさずメルロが《影渡り》を使い、ネロのかたわらに跳躍する。
実体化するなり、剣を投げ捨て、ネロの支えとなる。
「オレだって……もうあんな思いはしたくないんだ。メルロを手放したり、ひとりで行かせたり、しやしない」
苦しげな息の下、あえぐようにネロが言った。
バカ、バカッ、とメルロがネロを罵倒するが、その表情は嬉し泣きのそれだ。
だが、つかの間の甘い感慨をカダシュの声が打ち破る。
「キサマ、ネロ・ダーヴォラ……なぜだ、なぜ生きているッ?!」
カダシュの声には本物の驚愕がある。バルベラの証言によれば、この男、つまりネロは臓腑を損なう傷を負ったはずだ。人類がそんな傷を負えば、間違いなく死に至る。
それなのに、死んだはずの男が、眼前にいる。
その事実が、人狼の騎士であるカダシュをして戦慄させているのだ。
問われたネロは、答える。
「へ、へへ、そりゃあ生きているさ。オレみたいな三下にできることは、英雄みたいに死ぬことじゃない。そんな舞台は望んでもかないやしない。だけど、だからといって野良犬みたいな死に方も、あきらめて背中丸めて生きてくやり方もできやしない。だから、泥水啜っても、這いずり回ってカッコ悪くても……生き延びて成し遂げてやる。それだけさ」
その返答では、生還の理由を問い詰めているカダシュに答えたことにはならないのだが、それでよいのだろう。
ネロの言葉には、日の当たらぬ場所にあって、それでも、卑屈になるのではなく、矜持を持って生きてきた者だけが獲得できる一種の思想、あえて言葉にすればダンディズムのようなものがあった。
ただし、このときのネロは狼の耳を生やし、頬から無精なのかマジもんなのか不明なヒゲが生えていたのだが。
つまり、ネロの立ち振る舞いをダンディと断言してよいものかどうかは、判断を第三者に任せるしかない、ということになる。
「キサマッ、この卑怯者め! 死を偽り、姫さまの心を惑わすとは許せんッ!」
殺すッ、とカダシュが吼えた。
けれども、激情に任せて駆け出そうとしたカダシュの機先を制して、ネロが言葉を投げ掛けた。
「それで困るのは、オマエのほうだって、オレは言っているんだぜ?」
「なんだと?」
「だから、オレを殺しちまったら、そのバルベラって姫さんは一生そのままになっちまうんじゃねえのか、ってそう言ってんのさ」
言いながら、ネロは柱に背を持たせて座り込む。メルロが慌ててネロを抱き留める。やはり傷が痛むのだ。
カダシュにとってそれは絶好の機会のはずだった。
それなのに襲いかからなかったのには理由がある。
ネロの指摘が、カダシュの抱える弱み、その芯を射貫いていたからだ。
カダシュは動きを止めざるをえない。またも無念げに唸る。
「どんな、どんな状況なんだ——言ってみろ……もしかしたら、力になれるかも、だ」
苦しい息の下、カダシュを睨めつけて言うネロの言葉の意外さに、そして、その眼光の鋭さに、カダシュは反射的に込み上げてきた反発のセリフを飲み込むしかない。
なぜ、誇り高き騎士たる自分が、仕えるべき主にして敬愛するバルベラ姫の窮状をおまえごとき虫けらに吐露せねばならぬのか——そういう怒りを、だ。
「力に、なれるかも——だと? そのような甘言に、やすやすと引っかかる我だとおもうてか。貴様が詐欺師の類いであることは明白なのだぞ」
疑心暗鬼から提案を突っぱねようとするカダシュに、しかし、ネロは言葉を続ける。
「バルベラの状態はかなり悪い、そうでなければこうしてオマエが出向いてくることなんて、必要ないものな。本当に復讐心に燃えているならあの姫さんのことだ、自分で来るだろう。
けれども、そうしないのは、あの日の決闘が騎士の礼に乗っ取った正当なものだと認めているから——夜魔は決して約定を違えぬ誇り高い種族なんだろう? あるいは、出向けぬほど危機的な状況か、そのいずれか——もしくは両方か」
違うか? 痛みに耐えるため浅く早くなった呼吸の合間に繰り出されるネロの指摘は鋭い。
カダシュは押し黙った。その沈黙がすべてを言い表している。図星なのだ。
「人狼の騎士:カダシュよ、いまは語れ……もしかしたら一刻を争う事態かもしれないんだぞ。助けたくはないのか、オマエの姫さんを」
ネロの呼びかけに目を剥いたのは、カダシュだけではではなかった。
へたり込み座り込んだネロを護るように身を寄せていたメルロも同様だった。
「……助ける……だと? なぜだ、どうやったら貴様の口からそんなセリフが飛び出す?」
「そうじゃ、オマエさま。あれは、バルベラは、二度もオマエさまを殺そうとした——いや、最後の一度に至っては、本当に殺しかけた娘なのじゃぞ?」
疑うカダシュと、驚愕するメルロの声が図らずも連携した。
けれども、そのふたりの言葉をものともせず、ネロは言うのだ。
「オレはメルロと死ぬまでともにあると誓った。メルロもそう誓ってくれた。意味がわかるか? そうして、バルベラという娘は、生死をともにと誓い合った女の妹なんだぜ? 夜魔かどうかは関係ない。オレを殺そうとしたことも、関係ない。すくなくとも、あの決闘は騎士の宣誓に基づいた正当なものだったからな」
そして、理由はどうあれ、経緯はどうあれ——助けたいと思うのが身内ってもんじゃないのか。
言い終えたネロを、メルロは口元を両手で隠し、嗚咽をこらえて見つめた。潤みきったエメラルドの瞳が揺れている。
一方で、カダシュはといえば、人狼の戦闘態勢である前傾姿勢を解き、背筋を正してネロを睨みつけた。
「身内というその言葉……貴様ごとき存在が我が姫に対して語るなど……あまりに不遜。なれど、軽々に扱ってよいものとも思えぬ。いま、このいっときだけ、信じてやろう」
上から目線の物言いではあったが、その実、心の琴線に触れるものがあったのであろう。ネロはカダシュから、期間限定の条件付きとはいえ、信用を勝ち取ったのだ。
あるいは、カダシュという男は、立ち上がることさえ難しいほどの傷を押してこの場に現れ、己の愛する女のために舌鋒を持って戦おうとするネロの姿に、どこか共感したのかもしれなかった。
騎士として、である。
「だとしても……屋外で語ることではあるまい。貴様らの住み処とやらに疾く、案内するがいい」
だから、カダシュのその言葉はもしかしたら、ネロの身体を案じてのものでもあったのかもしれない。
「休戦協定成立って……わけだな」
いてて、とうめくネロをメルロが支えて立ち上がらせる。
その頬は上気して、ネロを見上げる瞳は、完全に恋をする、あるいは男に惚れ直した女のそれであった。
「姫さまをお救いするというキサマの方策とやらが、駄ぼらであったなら、その時は即座にくびり殺す」
「それが可能かどうかは、オマエの話の精度と、協力にかかっていることを忘れるなよ。オレが思うに……オマエの姫さまへの献身が、すべての鍵を握っているんだからな」
圧倒的な戦闘能力を誇る人狼の騎士相手に一歩も引かぬネロの姿を、メルロはまぶしいものを見るかのような表情で見つめている。
ネロの肉体が完調で、なおかつ、その身に宿ったチビカミ=ベルカの憑依が解けており、その上で闖入者たるカダシュがいなければ、きっとこのあとめちゃくちゃ……した感じではあったはずだ。
たぶん、メルロの脳内ではネロの背景にバラくらいは飛んでおり、理想の王子さまとしての強力な補正がかかっているはずだ。
ともあれ、こうして一時的な休戦状態が訪れ、三人と一匹(憑依状態)は、その住み処たる密造蔵へと向かう。
「ああ、そうだ、カダシュ、もひとつ言っとくことがあった」
「条件を後付けとは、卑劣な」
「たいしたことじゃない」
「言ってみろ」
「服を着ろ。全裸でうちのなかをうろつくな」
ネロが告げると、カダシュは立ち止まり、言った。
「服を着ろ……だと。面妖な。理解に苦しむ価値観だな。しかし、室内に限るということであれば従おう。恥ずべき姿を世間にさらすのに比べれば、まだ耐えられる」
ネロは腹の傷の痛みに加えて、頭痛までもがしはじめたのを感じた。
※
「それは、ブラッド・フォビアじゃな」
カダシュの話を聞き終えるや、メルロが言った。
「ブラッド・フォビア?」
オウム返しにネロが訊く。
傷に障るとの理由からネロはベッドに横になり、そのかたわらにメルロ、そして空になった古いワインの小樽にカダシュは腰掛けて卓を囲んでいる。
カダシュはネロの条件を受け入れ、着衣を身にまとった。
ネロのものだがサイズが合っておらず、七分丈の上下、タイトなパンツルックという風情だ。
戦士として発達した身体のラインが浮き彫りになり、無駄にセクシーである。
そんな状況下で、カダシュは語り始めた。
ときおりバルベラへの敬愛の念が強すぎいらぬ脚色が入るものの、総じてカダシュの観察と理解力、さらに体験と断片的なバルベラの証言を再統合して他者に筋道を立てて伝えるコミュニケーション能力の高さはかなりのものであると、ネロは分析した。
そして、伝えられたバルベラの窮状——その胸に疑似的かつ圧倒的なネロへの思慕・恋慕を植え付けられ、そのうえあろうことか、本人を自分が殺害したと思い込まされている状況があきらかにされた。
さらに、その結末として現れた単語が「ブラッド・フォビア」——つまり、血を恐れるという一種の恐怖症である。
「人間にもいるけれどな、血を見るのがダメなヤツというのは」
ぽつりと漏らしたネロのうかつな発言に、すかさずカダシュが噛みついた。
「愚か者めがッ! キサマにはことの重要さがわからんのかッ! 姫さまの、ひいては夜魔の血統に連なる我々の食事とはなにか? それは血である! そこに考え至らぬとは、なんという愚かッ、愚鈍ッ!」
「あー、たしかにそうか。そうだったな。いまのはオレが迂闊だった。わかったから、怒鳴るな、顔を近づけるな、熱っ苦しい。でけーんだよ、声が。近所迷惑だろが! 深夜だぞ!」
ネロのあしらいに、カダシュは鼻息荒く凄んだが、しぶしぶ引き下がった。
カダシュとは、まるで古典の世界の騎士像がそのまま抜け出してきたかのような男であった。
おそらくは、己の出自から側近にまですくい上げてくれたバルベラに心酔し、理想の騎士たろうとこの男なりに自らを律し続けてきた結果なのであろう。
どうでもいいのだが、超暑苦しい、とネロは思う。
「それで、肉体が血液を拒絶してしまう、というわけなのじゃな」
男ふたりの喜劇なのかシリアスなのか、判然としない掛け合いを無視してメルロが話を進めた。
うむ、さすがは純血の夜魔の血筋、反逆者といえど人間などとは違うな、などとカダシュはつぶやく。
コイツ、とネロは思うが口にはしない。
面倒くさいのと、傷が痛むのとで、だ。
「ふつう、月下騎士は十分に食事としての血液を摂取しているはずじゃ。ひと月やふた月、無理に血を飲まずとも支障はないはずじゃが」
「激しい消耗があればその限りではない」
「激しい消耗……オレとの戦いでは、最後の一手になるまで楽勝そうだったけれどな」
ネロのつぶやきに、そうであろう、カダシュはうなずく。
キサマごときが、本当に正面から打ち合ったら、バルベラさまの足下にも及ばぬは当然よ、と付け加える。
ひとこと多い性格なのかもしれないな、とネロは思う。
「だったら……なぜ……」
「そこがキサマの愚かさだというのだ! 考えるがいい! 察するがいい!」
「わかった、わかったから、うるせーってんだよ。あとな鼻息を吹きかけるな。気持ち悪いだろが!」
男ふたりのやりとりに、メルロは目が点になる。
ネロが男友達と話すのは、従士隊での悪友であったグレコとくらいしか見たことのないメルロだが、案外このふたりは初対面にして息が合っているのかもしれない。
まあ、本人たちは決して認めないだろうとも思うのだが。
「つまり心の消耗だと……そう、騎士:カダシュは言うのだな」
「いかにも。明察」
メルロに向き直り、カダシュは同意を示した。
オレのときとひどい差がねえか、おい、とネロは思う。
「あれは……優秀なあまり、男に特に興味を持ったことのないような娘だったからのう。わが妹=バルベラは」
男どもの相手をするより、むしろわしとおるほうを好むような子じゃったよ、とメルロが言った。
「よくわしのベッドに潜り込んできたものじゃ」
メルロの追憶めいた独り語りを、カダシュは聞かなかったという風に聞き流した。主の過去を詮索するようなマネを戒めたのだろう。
一方でネロはといえば、故意にではないとはいえ、暴走しかけたセクシャル・ファンタジーによって肉体がやや貧血状態に陥り、視界が暗転しかけるのを感じた。なぜか百合の花の幻を見た気もする。
たしかにオレは愚かかもしらん、としみじみ思う。
「そういう女が、いきなり恋に落ちて、死別まで体験したとしたなら……これは死に至る病かもしらんな」
メルロが言う仮説で、目が覚めた。
「オレの醸した酒と《スピンドル》が、そんな効果を上げてたなんて」
「そこに人狼の娘の《ちから》も乗っておる」
人狼、という単語の登場に、カダシュが視線を向けてきた。
ネロの頭部にはいま、狼の耳が生えている。
そして、その腹上で眠るのは狼の子供=チビカミ:ベルカだ。
「なるほど、ネロ、キサマが命を繋いでおれた理由がわかったぞ」
まさか我が血族の幼子を手懐けておったとは。
ネロを睨み言うカダシュに、メルロがやんわりと釘を刺した。
「手懐けて、ではない。惚れられておるのだよ」
わが主さまは、女に惚れられる気質の持ち主なのじゃ、とどこか誇らしげに。
「しかし、じゃとすると……バルベラめの……初恋やもしらんな」
メルロの言葉にカダシュの瞳が怒りに染まった。
おのれキサマ、そこへなおれ、と叫びながらネロの胸ぐらを掴もうとするところへメルロが割って入る、そんな状況が生まれてしまった。
「き、きき、きさま、バルベラさまの、はじっ、はじめてをっ」
「だから、やめろ、その切り方、はじめて、で切るな。ヤバい感じになるだろうが!」
「姉妹だからのう。わしがぞっこん惚れた男だもの、無理もないか」
姉妹丼、というメルロのつぶやきがなにを意味するものなのかわからないが、事態は一時混乱の極みにあり、議論は紛糾した。
「ころす、オレ、キサマ、コロス! マルカジリ!」
「地が、地が出てるぞ、テメエ! メルロも火に油注ぐんじゃねえ! コイツはマジだ!」
どうやって事態が沈静化したのかは、ネロを憶えていないが、とにかく冷静に対処法を考えようということになった。
「とりあえず、消耗に追いつくだけの栄養補給が必要だ」
「だから、血は召し上がられんと言ったはずだが」
「血である必要はない。ワインで代用できるはずだ」
「なれば手短な場所で調達するとしよう」
カダシュの言う「調達」にネロは不穏な空気を感じた。
「オマエまさか、どこぞの酒蔵でも襲撃しようとか考えてねえか?」
「そのつもりだが?」
あのな、とネロは言った。
「ここは、法都:エクストラムとその近郊だ。辺境の街道を行く隊商を襲うのとはワケが違うぞ? なんとなりゃ聖堂騎士団と聖騎士たちが動いてくる」
「打ち破るのみ」
「あほう! ろくろく動けない姫さん小脇に抱えてか? 下手すりゃ戦争ふっかけるような状況になるんだぞ」
む、とネロの指摘にカダシュが押し黙った。
騎士としては正面切っての戦いも、そこで散ることも華と考えられることかもしれないが、いまは消耗した主の復調が最優先なのだ。
いらぬ衝突は避けるべき状況である。
「では、どうしろというのか」
「贖う、とか?」
「われらが? 誇り高き我ら夜魔の眷族が、キサマらから酒を贖えと?」
「服着ていけよ。……着てても目立つか」
「ごめんこうむる! そんな恥ずかしいマネができるか!」
「買うのがイヤなのか、服着て出向くのがイヤなのか」
「両方だ!」
ネロはまた頭痛を感じた。
異文化、異種族との会話の難しさに加えて、このカダシュという男にはかなりややこしいところがある。
「それに、そのあたりの酒屋で扱う酒は、質がいいとはいえまい!」
その指摘だけはたしかにそうだった。
この時代、高品質のワインは基本的に王侯貴族のものだ。
その醸造技術も多くの場合、修道院や、代々免状を頂いてきた醸造蔵の秘伝で、一般民衆の酒といえば、はちみつ酒かエール、酸っぱくなってしまったワインをさらに水で割ったものと相場は決まっていた。
蒸留酒など夢のまた夢である。
そもそも蒸留器の技術が秘されているのだ。
身分不祥の七部丈男が押し掛けていって、バルベラの消耗を和らげることのできるほど研がれた《夢》を含む酒を贖えるとは思わないほうがいいだろう。
カダシュの態度にも不安がある。
「たしかにな」
だから、ネロは同意した。
「ならばどうすればいいのだ!」
カダシュが吼えた。
反論すれば吼え、同意しても吼える。
ややこしいやつに関わってしまった、とネロは思う。
ただ、突き放してしまうこともできない。
関わっているのはメルロの妹=もしかしたらネロの義妹であるバルベラの命なのだ。
それに、このときまだネロはきちんと意識化できていないが、このくそまじめに忠節を貫くカダシュという男に、同類の匂いを嗅ぎ取っていた。
不思議な魅力というか、偏屈者同士の連帯感とでもいうか、そういうものを、である。
そして、そういう存在を見捨てられない優しさこそが、ネロの人生転落の要因であり、同時にまたメルロが愛してやまない美質でもあるのだが、えてしてそういうものは、当の本人は自覚できないものなのである。
だから、自覚できないままに、ネロは手を差し伸べてしまうのだ。
相手が敵、人類の仇敵、夜魔の眷族、人狼の騎士だとしても。
「ワインなら——あるさ。オレの醸したヤツが、ここに、な」
その申し出に、こんどこそカダシュは言葉を失い、目を見開いた。眼球が血走っている。
「き、き、き、キサマはどあほうかーッ!!」
たっぷり三秒間をおいて、息を吸い込み、大音声でカダシュが吼えた。
事前にそれを察知したメルロは耳を塞いで難を逃れたが、自信満々、満を持して提案したネロは、耳がキーンとなるくらいのダメージを負った。
腹上からベルカが転げ落ちたほどである。
人狼の咆哮は《バインド・ヴォイス》という異能に発展するほどの威力がある。
それを至近でくらったのだから、たまったものではない。
「オマエ……頼むから、吼えるな……耳が……聞こえん。目の前がチカチカする」
「キサマがたわけたことをぬかすからだろう!」
「?」
「このたわけめが、と言っているッ!!」
「???」
このっ、と再び息を吸い込んだカダシュをメルロがいさめた。
「やめぬか、馬鹿者! よりにもよってワイン蔵を揺るがすような声で叫びおって! すこしは隠密性というものにも気を配るがよい! いくらここが遺跡の、廃虚の只中とはいえ、民家とそう距離があるわけでない。法王庁は目と鼻の先ぞ! 聞きとがめるものがいたのなら、どうなるか、わからんのか、このスカタン!」
おまけに、とすごい剣幕で言い募られタジタジとなったカダシュにメルロが容赦なく追い討ちをかける。
カダシュにしてみれば、容姿の似通った姉妹、己が敬愛してやまないバルベラの姉に詰め寄られれば、やはりたじろくところがあるのだ。
メルロが言い放つ。
「ワインというものはな、なにより振動を嫌うのじゃ! ワインに旅をさせるなという格言はここからよ! 長い年月をかけて造られた調和を、キサマの怒鳴り声が壊してしまうわ!」
むむむ、とカダシュが黙り込んだ。酒の製法や保存法など考えたこともないであろう人狼の騎士にとって、もはや反論のしようのないメルロの説教であった。
「とにかく、だ!」
と、やっと聴覚がマシになったのであろうネロが、こちらも大声で言った。
「オレの酒については、メルロの太鼓判が出ている。このあたりの酒屋を当たったって、そうそうこれ以上が手に入る保証はない。危険を冒すよりもまず、これをバルベラに届けてくれ」
「しかし、キサマの酒で、バルベラさまはお身体を害されて……」
「そいつは、メルロとルシル……ベルカのために醸した酒を、《スピンドル》の伝導媒体として使ったからだ——去年のヤツが瓶に詰めてある。それを持ってけ。……すくなくとも、メルロへの想いは、そこには混じってない」
信じる他ないはずだぜ、とネロは付け加えた。
ぐうう、とカダシュは唸ったが、結局この提案に従った。
そして、すくなくとも、バルベラの消耗を軽減するに、これは役立ったのである。
これに続いて打たれる第二の方策は、日を跨いでからのことになる。