追憶のその先に
「ネロッ、ネロッ!」
メルロは枷をされたまま、雪の中を転げながらもネロの元へ走った。
かろうじて生きていた。
だが、あきらかな重傷であった。出血量と穴の大きさ、失われた臓器の量から、おそらくあと数十秒で完全な死にいたることは確実だった。いや、ショック死していないことが、奇跡だった。
傷封じの貴石であっても間に合わぬほどの深い傷だった。
「ああっ、ああああっっ」
狂ったようにメルロは叫び、客席に枷を叩きつけた。びくともしない。痛んだのはメルロの肉体だけだった。
メルロの脳裏に、かつてアラムの地で出会った大公の姫・シオンの言葉が甦っていた。
シオンはその伴侶であるアシュレダウが同じく心肺を失う重傷を負ったとき、その死の淵から彼を救うために、自らの心の臓を与えたのだと言った。
それ以来、ふたりはひとつの心臓を共有しているのだと。
その言葉には誇張も嘘偽りもなく、メルロはあまりのふたりの愛の深さに涙が止まらなくなってしまった。
同じことをするつもりだった。
だが、手枷がそれを阻んだ。呪いの品なら、メルロは解呪してしまったかも知れない。だが、これは《フォーカス》だ。そう簡単には壊せない。
そうしている間にも、ネロの肉体から刻一刻と命が失われているというのに。
「だれか、だれかっ、ネロを、ネロを、助けて!」
半狂乱になり、メルロは叫んだ。考えても、考えても、ネロを助ける方法が思い浮かばず、ついに他者にすがった。
だが、ここには彼らしかいない。
致命的な時間が、あっという間に過ぎた。
どしゃり、とメルロが雪の中に腰を下ろした。
糸の切れた人形のように。
目の前が真っ暗だった。どんな闇さえ見通す夜魔の瞳でさえ、それは見通せない。
くしゃり、と心が壊れる音がした。
死のう、とはっきり思った。ここで、ネロと死のう。
ネロのいない世界で、自由に生きることにどんな意味があるのか、メルロにはわからなくなっていた。考えたくなかった。
そうだ、と思いついた。
ネロにキスをしよう。死ぬ前に、わたしの全部をネロの匂いで一杯にしよう。
そう思いつき、メルロはネロの遺体を覗き込んだ。
ひどい形相だった。無理もない。心臓マヒでもそうだが、内臓に傷を受け苦しんで死んだ生き物の顔は、正視に耐えられぬほどむごい。
ぼろぼろぼろ、と堰が壊れてしまった堤のように、メルロの瞳から際限なく涙がこぼれた。
「つらかったろうに、苦しかったろうに……ネロ、ネロ」
もう、ネロの名前しか出てこない。
滲んだ視界の先で、ネロが苦しげに呻いたように見えたのはきっと、涙のせいだ。
独りで死んだ《魂》は迷ってしまうという。
一刻も早く、ネロの《魂》を安心させてやりたかった。
「いま、そばにゆくからな」
その途端、だった。
「ぐ、うっ、がへっ!」
がばっ、とネロが血を吐いた。
「うげえ、がぼっ、ぐっぐるじっ、溺れるっ」
喀血を浴び、メルロはなにが起こったのかわからず、瞳をしばたかせた。
よく見れば、傷口の肉片がうごめき、失われた器官を再生し始めていたのだ。
※
「ほれで、わしを取り戻すためにあんな無茶をしたと言うわけか!」
脂身のたっぷりついた豚の肋肉を頬張りながら、メルロが言った。
ネロはベッドで寝たきりだ。もう丸五日だ。
「あの、メルロさん、ごはんを」
「やかまひっ、くっつくアテもないのに、自分のはらわた食わせるヴァカが、どこにおるッ!」
ここにいるわけだが、とはネロは言えなかった。
三度の食事、添い寝、寝汗を丁寧に温かいタオルで拭いてもらい、下の世話までしてもらっているネロに反論など許されない。
「もう、その自分で食べれるんじゃないかなあ、と」
「きしゃまの食事は、向こう一月は口移ししか認めぇん!」
「えー、ぐむっ」
しっかりと咀嚼された肋肉が口腔に直接、押し込まれた。
ごく薄い塩と香味野菜だけの味付けが、なぜにこうも旨いのか。
「ほんとうなら、一生こうしてやりたいところなのだからなっ。甘やかしつくして、ダメにしてやりたいところなのだからなっ」
頬を染めてメルロが言うものだから、叱られているのか、のろけられているのか、身の危険を感じればいいのか、ネロにはわからないのだ。
「だいたいっ、こんな、こんなものまで生やしおってからにっ」
口元をナプキンで丁寧に拭くメルロが、ジト目でネロの頭部をかいぐった。
「あふん♡」
ネロは口元を慌てて押さえつけた。まだ口中に肉片が残っている。それなのに、いけないかんじで声が出てしまった。
「けっ、けしからんっ! なんじゃ、こ、これはっ」
うわずった声で、頬を上気させながら言われても説得力がまるでない。
だが、ネロには抵抗する力がない。そこをかいぐられると力が抜けてしまうのだ。
「耳っ、耳ではないかっ、オオカミのっ」
「は、生えてしまいました」
真面目くさって報告するネロをメルロは真っ赤になってかいぐるのだ。
「尻には尻尾。この無精髭だって、本当に無精か?」
マジヒゲではないのか? メルロはワザと怒ったような顔をする。
そうしないとにやけてしまうのだ。
ネロが可愛くて。
その腹上でベルカがすやすやと寝息をたてている。
「しかし、まさか、人狼の娘に懐かれてたことが役に立つとはなあ」
「ベルカ――チビカミ=ルシルベルカは、おぬしが醸した酒で解き放たれ送られたのじゃ。酒精となって帰ってきても、不思議はあるまい? 酒にはそれを醸した人間の夢が溶ける――おぬしが救った娘の心が溶けていても――いや、それを伝えるために本物のオオカミとなって帰ってきたのだとしても不思議はない。
まあ、ルシルベルカだって、それを飲んだ人間に人狼の力が宿るなどと、考えてもみなかっただろうがの」
それにしてもなんとかならんのか、この耳はっ、手が、離せぬ。とそっぽを向いて怒ったようにメルロは言った。
「……おかえり、メルロ」
どうしてだか、胸が一杯になってネロは言った。
「バカ――それはおぬしのほうじゃ!」
いっそう激しくメルロはネロを撫でる。
「もうっ、二度とあんなことを……してくれるなよ」
「メルロがいないなら、生きてても仕方ない、と思った」
ぽつり、とネロが言った。本心だった。
メルロは言葉を失う。ネロは続ける。
「そしたらさ、急に、メルロを奪い去る理不尽な力に復讐してやる、ぜったいにそいつらを許さない、って思って、さ」
一矢報いてやるって。
「それで、しこたま飲んで、そのワインを導体に、か。たしかに、まったく、とんでもない発想じゃ。天才と褒めるべきか、大バカモノと叱るべきか。けれども――おぬし、その前に見せたあの剣技……あれほど遣えるなら、なぜいままで出し惜しんでおった?」
「メルロを想うオレの心に怒りが起爆剤となり、潜在能力を限界まで引き出したのだッ、って痛ッ!」
ぽかりッ、とメルロがネロの頭を殴った。
「バカも休み休み言え! 気持ちじゃと?! 心の力じゃと?! こんのあほうめ、ばかものめ! そんなものなんの足しにもなりゃせん! 《スピンドル》の、 《意志》の力というものはじゃな、たゆまぬ努力と実践、ただひたすらに、それを続けてきたものにしか訪れることはない! 血に刻まれた宿命などと、そんなものお伽噺じゃ! 三文芝居の脚本のように、都合のよい奇跡など起こらんのじゃ! 才能は遺伝せん!」
「わかってんなら、聞くなよ。そうさ、メルロの言う通り。あのときの俺には、一時的に人狼の力が宿っていた。正確にはルシルベルカの力が。だから、可能だった」
そして、それはいまも、だ。
ネロは腹上のオオカミ――ベルカを撫でる。
「たぶん、幽体離脱、とかそんなことなんだろうな。ベルカは酒精を通して、その力や感覚を、相手に付加できる。もっとありていに言えば“憑く”ことができる。なにしろ、このチビカミとしてのベルカは、そういうふうにして生まれたんだからな――はからずも、オレたちが、そうしたんだから。
だから、あれからベルカが目覚めないのは、そのせいなんだ。つまり、俺の腹がきちんとくっつくまで、ベルカは目覚めない。いや、ちゃんとくっつくまで、オレのなかにいてくれるつもりなんだ」
ありがとよ。ネロはベルカを撫でてやる。どこかでラベンダーの香りがする。
「しかし……と、いうことはじゃ、ネロ。こやつ、ほんとうはわしに同化しようとしたんじゃあるまいか?」
「どゆこと?」
「おまっ、このニブチン! あの酒はおまえさまがわしに醸してくれたもんじゃ。するとおもに飲むのは、このわし。そこへ、飲むと同化できる能力の人狼が合わさると……わしは、毎夜のようにおぬしと愛をだな……その……このベルカ、むっつりスケベのおませオオカミめ! 目覚めたらお仕置きじゃ!」
「ちょっ、やめろよ、なんでだよ、オレの命の恩人だぞ!」
「そうやっておまえさまを籠絡する気なのじゃ! ええい、その手をどけい! ネロ!」
※
法都・エクストラムの郊外。木々に埋もれた遺跡のなかで、バルベラはうずくまっている。かたわらには忠実な人狼の騎士:カダシュがオオカミの姿でいて、その首にバルベラは顔を埋めている。
カダシュの首筋に六日前、バルベラが着けた傷跡はない。
人狼は長命ではないが、夜魔に匹敵する強大な再生能力を有している。
純血の人狼は通常の刀剣による手傷ならば、首を刎ねられたのでないかぎり、どれほどひどくても数時間で再生してしまう。満月の晩ならば、再生はさらに加速される。
ネロを救ったのはまさしくこの能力なのだが、バルベラはそのことを知らない。
いや、それよりも深刻な後遺症に苛まされている。
胸の動悸が収まらない。
呼吸が苦しくて立ち上がれない。
紅潮が止められない。
「おのれ、なんだ、これは、なぜ、あの男の顔が、頭のなかをちらつく」
バルベラはネロからメルロへ向けられた愛に、その夢が溶けたワインの力に翻弄されていたのだ。ひたむきで、無償の、ただ、メルロの笑顔をみたいという、そんな少年のもののような幼い、けれどそれゆえ純粋な。
ワインを飲んだだけならそうはならなかったはずだ。
けれども、ネロはその奇跡を《意志》の力――《スピンドル》で勝ち取った。
異能の、《スピンドル》の導体となったワインは、そこに込められていた“夢”を解放し、強大な上位種の夜魔であるバルベラを翻弄し、いまもし続けている。
いかに強大な夜魔とは言えど、自らの血肉と同化したそれを切り分け取り出すことなどできぬからだ。
そして、病や毒を受付けない夜魔の肉体も、愛を無効化はできないのだ。
「このっ、わたしに、毒を、盛るとはっ!」
涙を流している自分にバルベラは気づけない。
この愛を向けられたのは自分ではないはずなのに、それがまるでバルベラ自身に向けられたものであるように感じられてしまうのだ。
胸が締め上げられるように苦しい。
ありていに言えば、バルベラは恋をしてしまったのだ。ネロに。
だが、その相手は死んでしまった。
死んでしまったとバルベラは思っている。
殺したのはバルベラ自身だ。
つまり、この恋は決着の着けようがなかった。
死者は完全だ。恋人として非の打ちどころがない。
ネロが死に際に見せた超絶の剣技、そして身を挺してまでメルロを守ろうとしたあの気高い想い。
そのすべてを夜魔であるバルベラは忘れることができない。
鮮やかに想い出すたび、恋の棘が深く胸に突き立っていくのを止められない。
それがバルベラの胸を痛めつける。
バルベラは嗚咽する。
「カダシュ、わたし、わたし、どうしたら」
カダシュにできるのは傷ついた主人に身をよせることだけだ。
こんなバルベラを見たのは初めてだ。
カダシュの使命は、主人を守り通すこと。
そして、主人が果てせぬときは、その命を、任務を自らが替わって達すること。
それだけだ、とカダシュは思う。
バルベラに成り代わり、逆賊・メルロテルマを捕らえねばならぬ、とカダシュは思う。
金色の瞳の奥で、瞳孔が鋭い光を放った。