月明かりの騎士
※
「では、行って参る」
指定の時刻、そのすこし前、正装に着替え終えたメルロは、約一年暮したふたりの家を後にした。
ネロは前後不覚で眠っている。
あれから、あの樽を空にする勢いで飲んだ。
旨かった。無理もない。あれはネロがメルロのために醸してくれた貴腐葡萄を加えたものだったのだ。その上で眠っているとは、ベルカもなかなかわかっておる、とメルロは思う。はよう大きくなってネロをたぶらかしにいけ、と思う。
そうでないと、残されたネロが心配だ。
飲み過ぎ、また、メルロを愛しすぎて眠りこける男の寝顔をいま一度のぞいて、心底そう思う。
「あなたとの思い出を、わたしは一生忘れません」
微笑んで言うことができた。愁嘆場など、ご免こうむる。ネロとのしあわせな思い出に傷がついてしまう。だから、メルロはその瞳の端に浮かびかけた涙を手の甲で拭った。
それから立ち去る。音もなく。足跡さえ残さずに。
ただ、火が消えたようにぬくもりだけが、消え去って。
※
「約束の時刻通り、きっかり。さすがですわ、お姉さま」
昨日と同じ場所、同じ格好でバルベラが待ち受けていた。
「約束じゃからな」
はい、とバルベラは微笑む。姉の美質を讚えるように。
「では、失礼します」
どこから取り出したのだろう、大仰な手枷・首枷をバルベラはメルロに強いた。
硬いイシュガル杉の芯材に強い呪いで括られ固体となった水銀で、それはできている。
「夜魔の力を封ずる《フォーカス》。虜囚の枷か……大仰な」
「お姉さまの気が変わられても大丈夫なように。また、これはお姉さまをお守りする意味でもありますのよ?」
この特別な枷は高位夜魔にしか用いられない。刑罰を加えることが出来るのは月下騎士をのぞけば、同位かそれ以上の夜魔にだけ許される。同胞の迫害から囚人を法的にも物理的にも保護する意味合いがあったのだ。内外からの干渉を遮断する強力な防護の能力を発動できる。
「約束は違えぬよ」
「それは大変けっこうなお心構えです、お姉さま。……でも、なんですの……この薫りは――すごく、胸がドキドキする。ワイルドで、ケダモノっぽいのに、その奥に心を持っていかれてしまうような、果実や、花の、濃密な薫り。お姉さまは、むかしからすごくいい薫りでしたけれど、今日は、今日のお姉さまは、格別ですわ」
頭髪を挟まぬよう、メルロの頭髪をかき上げてやっていたバルベラが陶然となって言った。
「おぬしの言うところの、家畜の愛とワインが醸した薫りさ」
どこか、挑発的にメルロは言い、バルベラは弾かれたように手を離した。
「か、家畜っ――けっ、汚らわしいッ!」
「己の感性に素直になれ、バルベラ。陶然としておったではないか」
諭すように言うメルロに、バルベラはキツイ視線を送り、枷につながった鎖を引いた。
「やはり、こうしておいて正解でしたわ。ガイゼルロンについたら、丸洗いしてさしあげますからね!」
「記憶は永遠。おぬしの言葉じゃったな。洗ったくらいでは消せんよ、アレがわしの肉体と心に押してくれた焼印は」
「ケダモノに、焼印?! そ、そんなことのためにわたしは一両日の時間をさしあげたのではありませんことよ」
「もうおそい。愛を交わしてはならぬ、と約束はしてなかったであろ? さあ、妹君よ、行こうか。夜が明けてしまうぞ」
狼狽するバルベラを、むしろ促してメルロは立ち去ろうとした。
そのときだった。
ごそり、と雪の砕ける音がした。
ふたりの夜魔の姫がその方向、観客席の上端を見上げた。
ネロがいた。
ふらついて。あきらかに酔って。打撲のうえに飲んだせいで顔がむくんでいる。
「性懲りもなく」
「いや、見送りじゃろう」
舌打ちし吐き捨てたバルベラを、冷淡にメルロがとりなした。
わざと視線を合わせない。
「行こう、バルベラ」
そう言って立ち去りかけたメルロの背にネロの声が響いた。
「待てよっ、月下騎士ッ!」
あきらかに呂律の回っていないネロの言葉に、蔑みの表情を隠そうともせずバルベラが視線を向けた。
「吠えるな、負け犬がッ。お姉さまのお心の平穏のため、静観し見送るならば、見逃してやる! 黙っていろ!」
だが、バルベラの忠告を無視して驚くべきことをネロは言い放った。
「挑戦だ、オマエに騎士として、挑戦する! これは決闘だ! メルロを賭けた!」
「なん……だと?」
「ガイゼルロンに帰るという約束を取り付けたのは、メルロとだけだろうが。だが、メルロは――その夜魔の姫の肉体も心も、オレのものだ。メルロ自身が誓ったんだ。だから、だからオレは、その所有者として、オマエに挑戦する!」
オレが勝てば、勝者としてメルロを、オレの自由にすることができる!
それがネロの理屈だった。
「一度はついた勝負を……見苦しいぞ! お姉さまの嘆願ゆえ、見逃してやったのに!」
「オレが頼んだ憶えはない! また、オレはオマエとなんの約束も交わしていない!」
「屁理屈を!」
「どうした、月下騎士、人間が恐いのか?」
「ネロ、やめよ。どうしたのじゃ、おねがいじゃ、やめよ!」
メルロの悲痛な叫びに、ネロは酔っぱらっているとしか思えない仕草で人さし指を、ビシィ、と向けてきた。
手に入れるぜ、ベイビィ! みたいな感じで。
思わず駆け寄ろうとして、メルロは雪の上に頽れた。能力を封じる枷が、雪に埋もれることのないはずの高位夜魔の能力にまでおよんでいた。生まれて初めての経験に、メルロは立ち上がれない。
「バカモノ!」
はっ、とバルベラの嘲笑が聞こえた。
「騎士としての挑戦と言われれば、これを看過することはできんな。お姉さま、バルベラはお姉さまもご覧になった通り、数度に渡り止めましたのよ? それをあの愚か者はことごとく踏みにじった。もはや同情の余地などない!」
獰猛な笑みを浮かべてバルベラがネロに応じた。
「お姉さまが我が身を挺して拾った命を、無駄にするとは! 下等種の上に愚か者とは、その頭にはつける薬がないな。いいだろう、相手をしてやる。ただし、楽に死ねるとは思うな! 圧倒的絶望と苦痛のなかで後悔しながら死ぬがいい!」
メルロの悲鳴にも似た叫びは、無視された。
観客席の上端で、ずらり、とネロが片手半剣を抜いた。鞘は投げ捨てる。騎士の礼の構えを取る。ふらふらだ。
対してバルベラは無手だった。圧倒的実力差を思い知らせ、絶望を深めるために素手で仕留めるつもりなのか?
駆け出したのは果たしてどちらだったか。
ネロは駆け降り、バルベラは駆け上がる。
ふたりの距離が一気に詰まった。
突きのカタチにネロの切っ先が繰り出された。左手片手突き。きちんと鍛練していなくては剣の重さに振り回され体勢が崩れてしまう技だ。ネロのそれは酔ってはいても、しっかりと軌道を保っていた。
だが、遠い。
焦りがその剣にはあった。
突き技は、その剣の長さと腕のリーチ、そして高い貫通力を生み出すことのできる優れた攻撃方法だが、このように間合いを見誤ると、とたんに窮地に陥る。伸び切った身体は無防備だ。
軽い細剣やサーベルであってもそうなのだから、重い直剣でのそれは、特に引き戻す隙を狙われやすい。
「甘い!」
バルベラはそのミスを逃さなかった。
ぎりぎりまで切っ先を見切り、余裕を持ってトドメを刺す――そのつもりだった。
ビィン、とその剣が光を帯び、瞬間、間合いが伸びた。
それは《オーラ・バースト》と呼ばれる技である。昨日ネロが見せた基礎技:《オーラ・ブロウ》の発展系、上級技だった。実際にスパイラルベイン登録者でも使い手は皆無、聖騎士ならいざ知らず、騎士ですらなかったネロが扱えるような技ではなかったはずだ。
「ほう」とバルベラが感嘆の声をあげた。
まさか、これほど遣うとは。それは純粋な賛嘆だった。
「だが、工夫がない。いや、ないとは言わんが、素直すぎる。豚ではなくイノシシだな、貴様は」
そう評価を改める。畜生だが誇り高い——野禽、というわけだ。
「ふふ、その血、すこしは楽しめるか?」
迫る光刃に、しかし、すこしも慌てた様子ではなく、むしろ楽しげにそれを擦り抜けながらバルベラは笑った。
「まだだッ!」
だが、ネロは諦めなかった。
突撃技である《オーラ・バースト》の最中に、腰の予備武器:ショートソードを抜き放った。それすらも光を――帯びる。
「ばかな、同時に、ふたつの技を、だと! 《スピンドル》の同時励起!」
そんなことが、できるのは、聖騎士だ! 驚愕するバルベラの眼前で、しかし、ネロの突き込んだ切っ先は確かに《スピンドル》の輝きを帯びていた。
「喰らえッ! 《オーラ・ブロウ》!」
さすがに《オーラ・バースト》を同時に扱うことはできなかったのだろう。しかし、《スピンドル》エネルギーを帯びた切っ先ならば、夜魔に致命傷とはいかずとも充分な深手を負わせ得る。そこを畳みかければ、勝機はあるはずだった。
だが、バルベラとネロには圧倒的な経験値の差があった。
バルベラは、驚愕しながらも続く感情である恐怖を意志の力で押さえ込み、切っ先を冷静に躱して見せた。ネロの剣は、紙一重でバルベラの髪留めを弾いたに過ぎなかった。
ぞぶり、という鈍い音を、ネロはどこか遠くに聞いた。
熱い、と腹部に感じた。
ごぶ、ど生臭く塩辛い熱湯が口からしぶいた。
自分の血液だ、とネロがそれを認識するまで時間がかかった。
「貴様を侮ったことを詫びておこう。その剣技の冴え、聖騎士に匹敵する。ただ、惜しむらくはなぜに初見のときにそれを出せなんだか、ということか。およそ、覚悟が生んだ覚醒だったのだろうが、遅かったな。
そして、焦りすぎた。貴様お得意のワインを使う奇術も、こう決着を急いでは使いようもなかったな?」
ネロの腹部にバルベラの右腕が食い入っていた。
その腕は変形している。まるで――オオカミの顎門のように。
「最大の敬意を表し、貴様を我が血肉とする名誉に浴してやろう。我が血に溶け、生きるがよい。これまでどれほど忠節を貫いた者でさえ、その血を捧げるのがせいぜいだったのだ。ふふ、この腕はな、その忠実なる下僕にして騎士、人狼のカダシュの力よ」
ネロは知らぬことだが、己の肉体を取り込んだ“夢”のままに変形させることは、夜魔の間では禁忌とされているものだ。
しかし、長い年月を生きる高位夜魔たちのなかには、その心の新鮮さを保つため、あえてその所業に身を染める者もいる。
長く生きた夜魔たちが陥る狂気、その一端であった。
「あがっ、ぐぎっ、げえ」
果たして己の腹を食い破る攻撃の正体を告げるバルベラの声が、ネロの耳には届いていただろうか。
生きながら臓腑を喰われる苦痛に、ネロは襲われていた。胃を、腸を、バルベラの腕に生えた牙が咀嚼している。
どこかでメルロが狂ったように泣いている。
ああ、泣くな、泣かないでくれ、とネロは思う。
「ん、これは、なんと甘美な。ああ、ネロよ、ヒトの騎士よ――すまぬ、わたしは貴様を過小評価しすぎていた。訂正する。これは、なんと素晴らしいのか。臓腑に溜められた……ワイン、だな? それが貴様の肉と溶け合い――美しい。美しいとしか言えぬ味だ」
つう、とバルベラが歓喜の涙を流した。
「甘く、長く続く歓喜に――そこに添えられた挫折と苦痛の苦味が、素晴らしい」
そうか、事前にワインで臓腑を満たせば、このような味わいを得ることが可能であるのか。新たな調理法を思いついたかのように、バルベラはご満悦だ。
ほとんど飛びかけた意識のなかで、ネロが確認できたのはバルベラが、それをしっかりと味わいながら飲み下すのことだけだった。
そして、次の瞬間、それが起った。
轟、と瞬間、バルベラはどこかで風の唸りを聞いた。
そして、胸を押さえてネロにすがりついた。力を失ったネロがもたれかかってくる。抱き合うようなカタチになり――その風の轟きが、どこで鳴っているのかを認識して驚愕した。
「これは――なんだ、なぜ、わたしの胸が、高鳴っている。この音は、わたしの内側で渦を巻いている」
なん、で、なんで、わたしは、泣いているんだ。
ぞぶ、と圧倒的な勝利を収めたはずのバルベラが震えながらネロの肉体から腕を引き抜いた。倒れ込むネロを抱擁し、その穴からこぼれ落ちる臓腑を慌てたように受け止める。
「なんだ、これは、なんだ、これは、貴様、なにを、なにをわたしに、した」
ネロは答えない。もはや答えられない。
だが、ふたりを見守るメルロにだけはすべてがわかった。
「《スピンドル》――ネロ、ネロのワインと《スピンドル》」
そう、ネロはその導体であるワインをバルベラに直接、飲ませるために、我が胃の腑に溜め込み、それを的にして戦いに挑んだのだ。
己の剣技になど、いささかも期待していなかった。まさしく捨て身の一撃。
それは文字通り、劇的な変化をバルベラに与えていた。
肉体にではなく、心に重大な影響を及ぼした。
バルベラのバラ色の唇が蒼白になっていた。わなわなと震え、あきらかに恐慌をきたしていた。
先ほどまで光刃が頭部を掠めても瞬きひとつしなかった月下騎士が、である。
まるで、己の行いを悔いようにネロを雪の劇場に横たえる。
「あぐっ、ぐううっ」
左手で口元を押さえ、怯え切った瞳でメルロを見た。
メルロは妹のその目に、はっきりと後悔と深い絶望を見てとった。それはまるで、いまメルロが浮かべているであろう表情の鏡映し、そのままだった。
そして、バルベラは逃走した。オオカミの唸り声のような嗚咽を残して。
夜魔の《影渡り》を使って。
それきり、戻らなかった。