夢の余地
※
目覚めるまで、どれくらいの時間が流れたのか。
仕切りの間から漏れ差す光で、外が昼間なのだとネロは気がついた。
寒気は相変わらずで背中が痛む。頭もあちこちコブになっている。
痛みがあるなら、天国ではないらしい。
けれども楽園には近いかもしれない。
柔らかな乳房にネロは顔を半ばまで埋めている。
薫りでわかる。これはメルロのものだ。
「よかった――メルロ。無事だったんだな」
湧き上がった想いに胸が痛くなり、ネロはメルロを抱きしめた。
助けに入ったつもりだった。姫君を救う騎士のように。
けれども、実際はぶざまに転げ落ちて、このざまだ。
それでもメルロがここに、こうしていてくれるというのなら、ネロの行動がなんらかの突破口を開き、メルロがあの月下騎士を退けてくれたのだ、とネロは考えたのだ。
劇場跡の階下に転げ落ちたあとのネロには、ほとんど記憶がない。
背中を強打し、反射的に《スピンドル》を起動させたことはかろうじて憶えている。
だが、そこまでだった。
ぽたぽたぽたっ、と額に涙がかかった。
「なんで、泣いてんだよ。オレなら、大丈夫。いっつ痛っ、いや、農夫の体ってのは頑丈さが取り柄みたいなもんだから」
「黙れ、バカめが」
優しい声で言われた。ぎゅう、とその細い腕に力がかかった。
「転げ落ちちゃったけど、ちょっとは役に立てたみたいだな」
「心臓が、止まるかと思ったぞ」
愛されている。その実感にネロは胸が熱くなった。
「二度とするな」
釘を刺された。
「いや、メルロが危なかったら……約束できない。メルロこそ、オレに内緒であんなバケモノのところへ行くな」
「なれば、安心じゃ。……もう、もう、二度と会うことはあるまいから」
「さすがだな、メルロ。倒しちまったのか」
「逆じゃ、バカ」
メルロの言葉の意味がしあわせに寝ぼけた頭に浸透するまで、きっかり十秒かかった。
「ちょ、それっ、どういう」
意味だよ。跳ね起きたネロは泣き腫した目のメルロの顔にひどいショックを受けた。
美しかった。
けれども、それは触れれば壊れてしまう氷で出来た細工物の美しさだった。
「わしは今夜、ガイゼルロンに帰る。もう、二度と会わん――おぬしとは」
会えない、ではなく会わない、とあえて言ったのは未練を自らの意志で断ち切ろうというメルロの決意の現われだったのだろう。
「なんで? なんだよ、それ、どういう……ことだよ」
バカみたいにネロは同じ質問をくり返した。心が現実を認められずに引きちぎられるように痛んだ。
「我らは、負けた、ということじゃ」
「負けた? じゃ、なんでオレが生きてんの?」
「おぬしの命と引き換えに、わしはガイゼルロンに帰る約束をした。おぬしが生きておるのは、その約束を取り付けたおかげで、すんでのところで加えられるはずだったトドメの一撃を、バルベラが止めたからじゃ」
「そんで、バルベラ――あの月下騎士は?」
「今夜――いや、正確には明け方か。また来る」
ネロにはメルロが泣く理由がわからなかった。
「夜魔ってのはさ、ちょっと頭のネジが緩いの? これじゃ再戦を許したようなもんじゃないか。ハハ」
ネロは笑った。
「どういう意味じゃ?」
「こんどは、最初からふたりがかりで行けばいいんじゃん、ってことさ」
「ダメじゃ!」
決然とメルロは言った。
「なんでだよ」
ネロが珍しく食ってかかったのは、これからメルロが語る現実を受け入れてはいけないと頭のどこかで理解していたからだろう。
冷静たれ、と自分に強いる調子でメルロは言った。
「アレは手加減しておった。最初はわしを説得する気でおった。剣戟を仕掛けたのはわしのほうからだったのに、アレはそれを受け切り、かつ、動きを止めることに終始した」
おぬしが五体満足なのも、そのおかげじゃ。
ぶるりっ、とメルロが肉体を震わせた。
「どういうことだよ」
「おぬしは夜魔の本当の闘争を知らん」
「本当の闘争?」
「ただの鋼でいくら切りつけようと瞬く間に再生する夜魔が、その切り札に聖別武器を使うようになったのは最近じゃ。せいぜいここ百五十年あまりの流行、と言ってよい。
では、それ以前はどうだったと思う? 何百回も相手の疲弊するまで切りつけ、突き込み、を繰り返していたと? そんな悠長なわけがあるまい。
方法は簡単よ。噛み殺し、咀嚼し、飲み下すのよ。
ありていに言えば相手を喰うのじゃ。
その血肉を我がものにしてしまえば再生など出来ぬ、という理屈でな」
そして、殲滅を目的で暴れはじめた高位夜魔を相手に、ただの人間では――《フォーカス》で武装した聖騎士でもないかぎり――数合も持つまい。
「やってみなけりゃ……」
「月下騎士は例外なく《フォーカス》を持っておる。バルベラは、わしやおぬしにそれを使ったかや?」
冷徹な指摘にネロは言葉を失った。
「情けをかけられたのじゃ。口ではどのようなことを言っておっても、アレはアレで心優しい。発露の仕方がおかしいだけでな」
「だけど、メルロ!」
「それに、おまえさまは、わしを嘘つきにさせるつもりかえ? 妹と交わした約定じゃ。すくなくともバルベラはそれを守った。おぬしを見逃し、手当てを許し、一両日の時間を与えた。本来ならばありえぬ慈悲じゃ」
「そんな無理強いの約束に効力などない!」
ネロ、とメルロは穏やかに言った。
「戦場での約束に無理強いもへったくれもない。相手は刃の一振りですべてを決着できる立場だった。交渉の余地などないはずだった。それを曲げて頼んだのはこちらじゃ。理屈が逆転しておるぞ」
「そんな、そんな、さあ、だって」
「約束を履行することは、誇りを守ることと同じ」
目をつむり淡々と言うメルロに、ネロは駄々っ子のように喰ってかかった。
「誇り? そんな誇りなんて、捨てちまえッ! オレは嫌だ、認めない、メルロを月下騎士なんかに渡せるもんか! 戦うぞ。第一、オマエはオレのもんなんだからな!」
必死の形相で言うネロに、メルロは泣き笑いで答えるのだ。
「誇りのないわしを、おまえさまは好きになどならんじゃろ? 誇りとはその人間、存在を規定するルール、それも自らが自らに定めたものなのだから。
だから、それを自らが破ろうと、誰も罰するものはいない。
なぜなら、そのルールを裁定するのは自分自身じゃから、じゃ。
だがな、ネロ、もしこの世界がひとつのゲームだとして、自らに不利だからという理由で、そのルールの裁定を毎回ころころと変えるヤツを、おぬしどう思う?
相手と取り決めた約束は破ってもよく、しかし、自らと結ばれた約束は固くこれを守らせる。そんな理不尽を平然とやってのけ、おまけに悪びれることもない。そんな人間をおぬしはどう思う?
政治家ならそれもよかろう。ときには必要じゃろう。
だがヒトとヒト同士が交わし合った約束はどうじゃ? 破ってよいのかね?
わしなら、そんなネロを好きにはなれん。おぬしもそうじゃろ?
それなのに、その理不尽を繰り返してしまう輩のなんと多いことか。
そして、そやつらはある日、気がつくのだ。誇りを売り払った代償に。
鏡のなかにいる、孤独で醜い怪物が自分だと気づいてな」
――約束を守る。それはな、ネロ、我ら夜魔がかろうじて化物と成り果てぬための最後の砦なのじゃ、とメルロは言った。
「だから、夜魔の法において、約定の不履行に対しては、どんな処罰も許されておる」
「だけど、だけど、メルロはオレの」
「おぬし、負けたろ?」
優しく、優しくメルロが言うものだから、ネロは自分の目の前が涙で見えなくなってしまうのだ。
力づくなんておかしい、という弱者の言いわけが喉もとまで出かかって、ネロはそれを飲み込んだ。ここはそういう世界なのだ。だから剣があり、槍があり、騎士団があって、そして《スピンドル》能力者がいる。
弱いものは踏みにじられる。
貴いものを、愛するものを守りたいならば、強くなるしかない。
剣に、刃に一度でも訴えかけた人間の、それが逃れられぬ宿命なのだ。
剣を握る、武力で解決する、とはそういうことなのだ。
たぶん、聖騎士たちの視座と、そこに達することのできなかった自分をわけているものは、それなのだとネロは理解してしまった。
この言いわけ――踏みにじるときには意識されず、踏みにじられたときにだけ――都合のよいときだけ発生する、自分の権利に関してだけ発露する甘え切った視座のありようこそが、決定的な違いなのだと。
「ならば、戦うッ、取り戻すッ!」
瞬間、ネロはメルロに押し倒された。背中が痛んだ。だが、それを気にすることなどできなかった。
メルロが泣きじゃくって訴えたからだ。
「おねがい、お願いします。やめて、戦っちゃダメ。おねがいです、なんでもします、どんなことでも、だから、ネロ、おねがい、戦わないで!」
死んでしまう、死んでしまう、死んでしまう。メルロは必死にネロに懇願した。
あの従順な口調で。外聞をかなぐり捨てた、むきだしの心をぶつけられた。
恐かった、と訴えられた。
あとちょっとでも遅れていたら槍がネロを貫いていたであろうあのとき、ネロが階下に落ちたとき、バルベラが飛びかかったとき、太矢が頭部を掠めたとき、心が壊れると思った。そう泣かれた。わたしが壊れてしまう、とわかった、と。
どこかで慢心していた、と告白された。
不死者である高位夜魔は生死に関する危機感が一般的に薄い。だから、どこか他種族の死に対しても諦観めいた楽観視がある。
それが、あの瞬間、そうではないのだと思い知らされたのだと。
ささいなことで、ヒトは死ぬのだと。
知識ではなく、体験で。
そうやって、死に別れたとき、メルロにとってガイゼルロンではなく、この世界全体があの牢獄になってしまうのだと気がついて。
「あなたが生きていてくださる、それだけで、それだけで、メルロは生きて行ける。どんなにつらくても、どんな孤独にでも耐えて行ける。あなたのくださった思い出を灯火に、支えにして」
だから、生きて、生きてください。
狂気さえ感じさせる虚ろな瞳で微笑み、ネロに訴えるメルロを、ネロは呆然と見ることしかできない。
だれか、この独白を聞くヒトよ。ネロのなかに息づく詩人の血が、どこかになにかを訴えかける。
あなたは己の愛するものから、そのすべてと引き換えに、生を望まれた経験があるだろうか? こんな土壇場の瀬戸際で。血を吐くような言葉で。
こんなことに憧れるのはかまわないが、体験することはお勧めしかねる。
あなたの心の平穏のために。
きっと、二度とまっすぐな道を歩けなくなるから。
どうすればいいのか、ほんとうにわからなくなって、ネロは虚ろに泣いた。
ああ、と二度目の理解をした。
これが、絶望なんだ、と。
忘れられないようにして欲しい、とメルロが言い出したのは、たぶんしばらくしてだ。
メルロの全部を使って欲しい、と懇願された。
だれかがメルロに触れたとき、もうどこにも初めての場所など残っていないとわかるように――。
こんなことを、愛する女から懇願してもらえる男が、世のなかにどれくらい居るというのだろう。
今日、このとき、という条件さえなければ、ありえないくらいの幸福だったはずだ。
まるで夢みたいに。
絶望に打ちひしがれたネロは、自分のそれは役に立つまいと思ったが、あきれ果てたことに、また恥知らずにも、泣き顔で懇願するメルロに反応してしまった。
そして、応じた。
ときにはひどく乱暴に、力ずくで。あるいは言葉で、命じて。
メルロは、しかし、そのすべてを悦んで受け入れた。
合間に、最中に、別なくワインを飲んだ。
口移しで、飲みかわした。
ひどいことに、素晴らしく旨かった。
絶対にメルロを忘れられない、とネロは思った。
いったい幾度目の挫折だろう。
醸造家にも、騎士にもなれず、好きな女ひとり守れない。
オレはゴミだ、とネロは思った。
その現実から逃れるように呑んだ。しこたまに。
気がつくとワインが無くなっていて、ネロはとっておきを探しに蔵に下りた。メルロもついてきた。片時も離れたくない、という意思表示なのだろう。裸身にシーツをまとい、肘に齧り吐くようにして。
蔵に寝かされた樽のうちのひとつに、ベルカが跨がり眠っているのを見つけた。
「おまえ、そうか、うえでオレたちが……あー、たしかに、ちょっと気が回らなかった」
「すまぬの、ベルカ。じゃが、今夜限りのことゆえ」
謝るふたりにベルカは応じようとしない。すやすやと気持ちよさそうに眠っている。
その口から、ちょっと舌がはみ出していて、その様子にふたりは笑ってしまった。
「完全に寝ておる」
「ワイン蔵の守神さまだな」
ゆすっても持ち上げてもベルカは堂々と寝ている。ふたりはまた笑った。泣き笑いだ。
だから、気づいていない。
ベルカの行動の意味を。