終わらぬ影のように
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夜魔の種族的特性は一般的には、その不死生と吸血の性に集約される。
長命な種族は他にもあるが、夜魔のその不死生はその他の種族と一線を画する。
もっとも重大な差異はその再生能力である。
切り落とされた腕を傷口にあてがうだけで、ほとんど数秒で癒着してみせる程度は下位の夜魔にも可能で、上位種となれば、それは再生というより復元能力と言ったほうがよいような、ほとんど言語道断な回復力を有している。
重要な臓器――心臓や脳といった部分を完膚無きまでに破砕されても、瞬く間に彼らは蘇生する。
だが、メルロに言わせれば、その能力もいくらでも、なんどでもとはいかないらしい――つまり、血液を通じて溜め込まれた“夢”の総量に比するのだというが――小指を切り落としても二度と再生などしはしない人類からすれば、それだけで充分、驚異ということになる。
そして、その再生力を支えるのが、吸血の性である。
いかに愛情のこもった食事や優れたワインなどからも、その命をつなぐ“夢”を摂取できるとはいえ、やはり、人類の肉体に蓄えられた命の根幹そのものである血液に比べれば、それはいささか変換効率の悪いものであることは否めないのだという。
一般的な夜魔の場合、人間成人男性ひとりの血液は一月分の食事に相当し、それがまた上等なものであれば――つまり彼らの言うところの“気高き血”であるなら、三ヶ月、いや半年、場合によっては数年を持たせることができるのだという。
もちろん、夜魔にとって血液は命の糧であると同時に嗜好品でもあるから、人類が命をつなぐのに酒や煙草を必要ともしないのに摂取するのと同様、彼らの食事のスパンが前述の通りとは限らない。
代用品としての“夢”はともかく、吸血の性については、夜魔に遭遇する機会などまずない都市生活者たちでさえ、幼少期のお伽噺に聞かされた有名すぎるほど有名な特性だった。
だが、実際、夜魔にはさらに興味深いふたつの特性があることは、一般にはほとんど知られていない。
完全記憶と血の共振、がそれである。
完全記憶とは文字通り、その記憶の完全性を示す言葉だ。
夜魔はひとたび目にした出来事、体験した事実を忘れるということがない。
ゆえに夜魔の社会は、完全な契約社会である。
契約書よりもさらに厳格な証明を個々人が持つからだ。
彼ら夜魔にとって約定を反古にすることは、最も恥ずべき行為であり、社会的地位の下落を余儀なくされる。約定を破った個体を身内が罰する、場合によっては死によってけじめをつけさせる法が存在するのはそのためだ。
彼らに嘘は通用しない。
ただし、その記憶の完全さは、同時に彼らがその不死生と相まって、永劫の時の囚人であることをも示唆している。
ゆえに、彼らはその事実からいっとき逃れるための手段としての“夢”――つまり血液を必要とする。
もっともその記憶の完全さもやはり血統の古さに準ずるもので、下位種になればなるほど、記憶は不完全となり約定へのこだわりは薄れ、逆に上位種であればあるほどその執着は強くなるのだという。
契約を軽んずる不埒、不敬の輩を認めない社会なのだ。
そして、また、夜魔たちは同族の存在を、その体内に流れる血の共振によって感じ取る能力をも有している。
これは互いの領土を広く持ち、その固有の伝統を重んじる夜魔の習性が成さしめた業だと思われる。すなわち、捕食対象である人類を巡って同族同士が争わずに済むように、というのだ。
複数の強力な個体――爵位を持つほどの夜魔が、狭い狩り場のなかで鉢合わせをせずに済むよう、彼らはその肉体で他の夜魔の接近を感じとることができる。
たとえ上位種であったとしても先住する夜魔のテリトリーに無断で踏み入ることは無礼の極みと見なされたし、また下位の夜魔は上位種と鉢合わせた場合、獲物を譲るのが慣例となっていた。
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メルロは、毛布にくるまり疲れ果てて眠るネロの横顔を見ている。
裏切りの罰として徹底的に愛され――その果てで、なんども誓わされ、また誓ってしまった。
だから、メルロの肉体も、心も、もうネロのものなのだ。
かあ、と紅潮がとまらない。動悸が収まらない。
たぶん、夜魔のしきたり、その種族的特徴をネロは詳しくは知らないはずだ。
人類が神前に――たとえば、聖イクスに結婚を誓うことと、夜魔がその愛を生涯を賭けて誓うことには、大きな違いがある。
人類は心変わりをする。
それはたとえば、生きるも死ぬもともにと誓い合った伴侶を、簡単に裏切って、他の男や女と通じたりする。
たとえそれが、自らの神に誓ったことだとしても、なお。
夜魔が人類を「下等で卑劣なケダモノ」と見なす根拠だ。
だが、それは悪いことばかりではない、とメルロは思う。
心変わりをすることで、過去の自分を乗り越えてもいける。記憶は思い出として美化され、忘却の図書館の底に封じられる。
それは「希望」という概念とともに「未来」を志向する人類の種族的特徴なのだろう、とメルロは思う。
夜魔は変われない。
過去の自分が常に、また同等に現在の、未来の自分を規定する。
だから、夜魔の婚姻では、花嫁は結婚の宣誓に、言葉を用いない。
自分は「誓わなかった」というささやかな救済装置が、カビの生えたような古いしきたりのそこここに存在するのは、きっとあまりにその誓いの牢獄が堅牢すぎて、夜魔を壊してしまうからだろう。
それなのに――メルロは誓ってしまった。
もう、愛の要求、命令にまったく逆らえなくなってしまったのだと、そして、それが絶対なのだと――そう知ったら、ネロはどう思うだろうか。
ひとたび、ネロに命じられたなら、それが求愛に関するものでありさえするなら、どんな理不尽にも従ってしまう。
それどころか“うれしい”と感じてしまう。
どんなに苦しくて、ありえないほど苛烈な命令にでも、応えたいと思ってしまう。
あらゆるものを差し出してでも――そばにいたい。メルロは思う。
永劫に、永遠に。
だから、だからこそ、ひとりで行かなくてはならない。
そっと身を起し、メルロは衣類を身につけた。髪を結い直し、醸造蔵に下りた。
外は氷点下でも、醸造蔵の温度が十度を切ることはない。
それでも息は白い。
メルロはその一画、闇のわだかまるエリアで、その手を振った。
びゅう、と闇が裂けた。
まるでビロードの緞帳であったかのように。
そして、武具が現われた。
そこは、武器庫だった。刀剣はおろか、盾、槍、弓、そして甲冑にいたるまで、すべてが揃っていた。
夜魔特有の異能:《シャドウ・クローク》――次元と次元の狭間に、薄皮を剥ぐようにして別の小空間を捩じ込んでおく超常能力だった。夜魔たちはそれを自分専用の携帯型クローゼットとして利用する。
メルロの衣装はここから取り出されたものだった。
メルロはそのなかから、まず甲冑を選んだ。あきらかにサイズが合っていない。
だが、光を吸い込むような漆黒のそれにメルロの指先が触れれば、甲冑は質量を失い、まるで影が纏いつくようにメルロの肉体に絡みつき、ふたたび実体化した。
ぐい、と身体を束縛されるような感触がある。いかなる秘術か、甲冑はメルロの肉体に吸いつくよう、その装甲形状を変化させていた。
ああ、とメルロは小さく、甘くうめく。
ネロと交わした契りの残火が、まだ身体のそこここにある。
「愛しています」
メルロは記憶のなかのネロに震えながら、また誓う。
そして、余韻を立ち切るように、ヒーターシールドと手槍、護身の片手剣を選んだ。
ぞくり、と背筋を言い知れぬ感触が走った。
近い、とメルロは感じる。
同族だ、これは同族の、それもかなり強力な夜魔の気配だ。
ずいぶん前から、メルロはこの感触を遠くに感じてはいた。
そのたびに恐くなり、ネロの胸に潜り込んだのだ。
まさか、と疑い、もしや、と恐れた。
だが、夜魔は裏切り者を許しはしない。その断罪者である月下騎士はいかなる場所であろうと追いすがり、必ず罪の代償を払わせる。
それがたとえ、人類の叡知の砦、対夜魔に限るならば武装・能力において名実ともに最強の異能力者集団である聖騎士たちの本営、法都:エクストラムのただなかへ飛び込むことになっても、だ。
遅かれ早かれ、こうなることはわかっていたはずだ。
ただ、メルロは、らしくもなく夢を見てしまったのだ。
ネロとともにあれたこの数ヶ月が、あまりに楽しくて、うれしくて、長居してしまった。手に入れたぬくもりを手放せなくなった。
ヒトの子を、ほんとうに愛してしまった。
だからこそ、このことは自分ひとりで決着せねばならないとメルロは感じている。
相手がガイゼルロンの精鋭、月下騎士であるならば、その実力は掛け値なしに一騎当千。伯爵の娘であるとはいえ、勝てるかどうかわからない。たとえ、勝利を収めたとて、ひどい代償を払うことになるだろう、とメルロは覚悟する。
それでも、と思う。
それでも自分がネロとともに、あとすこしでもいられる可能性を勝ち取るには、月下騎士を下すほかない、と。
きり、と握りしめた槍の柄が音を立てた。
蔵を上がると、ネロはまだ深い眠りのなかにいた。
無理もない。
夜魔であるメルロ自身が壊れてしまうのではないかと危惧したくらい、昨夜のネロは必死だった。死に物狂い、と言ってもいいかもしれない。メルロの肉体に、心に深く刻み込むようにネロは振る舞った。
そのせいで、ひどく疲労しているのだろう。
子供のような顔で眠りこけている。いつまでもその寝顔を見ていたい。
「バカものめ」
そのあまりに無邪気な寝顔が、すこし元気をくれた。
いつものメルロに戻るきっかけをくれた。
と、ネロの毛布がもぞもぞ、とうごめいた。
「? ベルカかや? こやつ、いつの間に潜り込んだ?」
寝ぼけているのだろう。白銀のチビカミがよろめきながら現われた。
焦点の合わぬくりくりの瞳が、メルロを見ていた。
「おぬしら……ほんにお似合いかもな」
ふふ、とメルロは笑いベルカの頭をワシャワシャと撫でた。
ベルカはまた目をぐるぐるさせメルロを見上げた。
その口元がまるで微笑んだように緩んでいる。実際、楽しんでいるのかもしれなかった。
「行って参る。ネロを、頼むぞ」
言いながら立ち上がるメルロをベルカは行儀よく脚を揃えて座り、見送った。
ドア替わりの仕切りを何枚も潜り、メルロはしんしんと雪降り積もる夜明け前のフォロ・エクストラーノに出た。
暖をとるため入り口付近に作っておいた暖炉の火が消えかかっている。
夜魔の姫の甲冑は音も立てず、降り積もった雪に足跡さえ残すこともない。
その姿は払暁前の、もっとも暗い闇のなかに溶け消えて行った。