第九章 それぞれの思いと (三)
三.
つかの間、奇妙な浮遊感に全身を委ねていたサイファだが、気がつくと再びフェル・アルムの地面に足をつけていた。
辿り着いたのは小さな山麓の村。サイファ達の立っている場所がどうやら村の中心地らしいようで、織物の工房が軒を連ねている。何という名の村なのだろうか、そう思う間もなく、サイファは突進してくる人を避けきれず、どん、とぶつかり、勢いよく跳ね飛ばされた。
「あんた、こんなとこで何をぼさっとしてんだよ?! 死にてえのか!」
浴びせかけられたのは怒声。見ると向こうからは、人が波をつくるように後から後から押し寄せて来ているではないか。人々は、我先にと言わんばかりに急ぎ足で、ある者は周囲を蹴散らさんばかりに、必死の形相をして先を急いでいる。そのあまりの人の数に、もうもうと土煙が舞い、大地も揺れていた。
サイファは状況がつかめないまま、ジルの手を引き、人並みをかき分け横切っていった。疲労困憊となった身にはたいそう堪える。サイファは大きく息をつくと、周囲を見渡した。
必死の形相をした人々の波は、とぎれることなく続いている。普段は閑静であろう田舎のたたずまいは、怒声や悲鳴、子供達の泣き声で溢れているのだ。
サイファは、そんな人々がやって来ている方角を見た。
「なんだ?! あれは!」
“混沌”を象徴する忌まわしい黒い雲が、動的にうねりながらも徐々にこちらの方向へと向かってきている。灰色に覆われた曖昧な空と、黒い雲との境界を見たサイファは、人智を越えたこの世ならざるものをかいま見た気がして、本能的な恐怖を覚えたのだった。
「見ろ! 化けもんがでてくるぞ!」
人々のざわめきは突如、恐怖を表す悲鳴と化した。元々は木々が林立するはずの風景がいびつに歪曲したかと思うと、そこから異形の魔物が数体出現したのだ。辺り一面に臭気が立ちこめる。魔物達はためらうことなく、恐慌する人々目がけて、おのが持つおぞましい複数の口を開けて突進していく。
運悪く、この場所には戦士がいない。人々は迫り来る脅威を前にしてなすすべがないのだ。血で血を洗うような惨劇が始まるのか――サイファはそう絶望した。
が、その時。
「“混沌”の先兵か!」
言いつつジルは駆けだした。彼は空間を渡って魔物の前で姿を現した。異形のもの達を前にして臆することなく、ジルは両腕を大きく――円を描くようにして――振りかざす。
空に描かれた円は、すぐさま具象化した。薄ぼんやりと輝く円鏡のようなその円は、膜のように広がると、目の前の魔物達を包み込み、それらとともに忽然と消え失せた。
目の前の脅威が突然いなくなったことに呆然となっていたサイファだが、ようやく気を取り直した。
「これ……は、この化け物達は、一体?」
「“混沌”が押し寄せてきている。こいつらはその先兵どもさ。おいらにはやっつける力がないから、こいつらがもといた空間に押し戻してやったんだけどね」
ジルはことも無げに言った。
「おいらが南のほうでのうのうとしてる間に、この世界は凄いことになっちゃってたみたいだね! このままだとこの世界が、フェル・アルムが終わっちゃうよ!」
「世界が滅びる、というのか」
終末。それは常識ではとても考えられなかったことであり、一ヶ月前のサイファであったとしても、そんな概念など到底受け入れることは出来なかっただろう。
しかし今のサイファは、そんな信じがたい情景を身をもって体験しているのだ。蒼い色を失った空を見た時点で、サイファは世界の崩壊を予感していたのだが、それがにわかに現実味をおびてきた。二人の人間の死を悲しんでいるのもサイファ自身だが、多くの人々が憂えているのを見過ごせないのもサイファ自身である。
(私はサイファであり、それと同時に、やっぱりルイエでもあるのだな)
逃げ惑う人々を目の当たりにし、サイファは自分自身を再認識した。
「ジル、どうすればいい!?」
友を失った悲しみと、今直面している憂いを吹き消そうと思ったのか、その声は不自然に大きくなり、凛としてあたりに響いた。
「とりあえず、ディエル兄ちゃんを探そう! ここら辺にいると思うからね! 多分……こっちのほうかな?」
サイファとジルは、人々の流れに逆らうように、忌まわしい黒い空のある方角へ、すなわち北へと足を進めた。生活の気配が途絶えた家々の路地をくぐり抜け、牧場を越えて小川を横切り、ひたすらに北を目指す。
南へ急ぐ人の多くは、奇異の目で彼女らを見つつも先を急ぐのだったが、中にはサイファ達に助言をする者もいた。北には滅びしかないと。サイファもそれが分かってはいるが、それでも進むしかなかった。今、自分を守ってくれているのはジルなのだから。ジルは、北の方角に自らの兄がいる、と言っているのだから、その言葉を頼りにするしか今のサイファにはあてがなかった。
北に見えている山々の裾野は緑に包まれていたが、見上げると、その山の頂を見ることが出来ない。スティンの山々はすでに黒い雲に覆われ、その姿は失われたのだ。
「あの山……あれはもう“混沌”の領域になっちゃってるな」
ジルの言うとおり、スティン山地から北方は、今や“混沌”の支配する領域と化していた。
サイファは足下の妙なぬかるみも気になった。今、サイファ達が立っている村の地盤が柔らかいわけでもない。また、朝方まで地面を叩いていた雨のせいだけでもない。“混沌”の力の影響で、土が腐ってきているのだ。この地域も遠からず“混沌”に飲み込まれてしまうというのか。
「ジル、君がさっきから言ってる“混沌”とはなんなんだ?」
「おいら自身がよく分かってないからうまく言えないけど……世界に最初からあった、ものすごーく大きな力だよ。『大きな力同士がまぜこぜになってるから世界っていうのは成り立ってるんだ』って、トゥファール様が言ってた。あとは……なんか言ってらしたけど覚えてないや。ともかくあの力、まともに食らったらただじゃあすまないのは確かだよ。もちろん、おいらひとりが頑張ったところで、どうこうなるってもんじゃあない。とても手には負えないよ」
サイファは禍々しくうごめく黒い雲を見つめた。
「でも、あれを取り除かないとフェル・アルムは滅びるのだろう? 一体、どうすれば?」
「おいらもディエル兄ちゃんに会わないと、どうしたらいいんだか、さっぱり……」
その時、二、三フィーレ先に三人の人物がいるのに気付いたジルは一目散に駆けだした。
「兄ちゃんだ! おーい!」
ジルは手を振りながら双子の兄を呼びかけた。が、当の兄は振り返ろうともせず、横にいる数名とともに構えていた。
「兄ちゃん?」
「ジル! 今までどこにいやがった! もうすぐ魔物どもを蹴散らせるんだけど……ちょっとそこで待ってな!」
ディエルは言いつつ、二歩三歩前に進んだ。
「出るぞ! 気を付けろ……今度のは大きい!」
白髪の若者が叫ぶやいなや空間が割れ、中から魔物が出現する。巨大な魔物はすぐさま翼を広げ、宙に舞い上がる。その口からは標的目がけて炎が放たれた。剣士と白髪の男はとっさに避けたので、炎はただ地面に叩き付けられるのみ。だが地面が焼けこげていることからも、威力の絶大さが分かる。
「あれは……まさか龍?!」
魔物の巨躯は、先だってアヴィザノを襲来した闇の龍に似ている。サイファは思わず二、三歩足を引いた。
「いいや、あれはゾアヴァンゲル(竜)っていうんだ。こないだのドゥール・サウベレーン(龍)と、かっこうだけは似てるけど、頭の出来は雲泥の差だよ」
ジルは冷静に言いつつも、ゾアヴァンゲル――竜と対峙している兄達の様子を窺っている。
「だいじょうぶ。兄ちゃん達の手にかかれば、やつは倒せるよ。すごい“力”持ってるもん。ディエル兄ちゃんも、それと“あの剣”もね」
“混沌”によっていびつにねじ曲げられた翼を持つ竜は、刃向かう者どもを嘲笑するように唸ると、体内に宿す熱い空気を再度吹き付けた。が、剣士達の目の前に出現した薄い色の膜によって炎が遮られる。膜を作りあげたのは、白髪の術師であった。
「ゾアヴァンゲルめ! ばかの一つ覚えみたいに火ぃばっか吐きやがる!」
悪態をつきながらもディエルは、かろうじて竜の足下に駆け寄って手刀を見舞った。竜の片足は大きく引き裂かれ、肉片が弾け飛ぶ。どろどろとした緑色の体液が止めどなく流れる。ディエルは竜に致命的な傷を負わせたのだ。バランスを崩した竜は唸り声を上げつつ、どうんと、地面に激突する。
「ルード! 頼む!」
「分かった!」
ディエルの声を聞いた剣士は、未だもがいている竜の首もとに近づき、剣を突き立てた。剣からは閃光とともに圧倒的な“光”の力が竜の体内を侵していく。“混沌”の魔物と化した竜は、純粋な“光”の力に耐えられず一声哭き、そして霧散した。
一瞬の静寂。
そして戦っていた者達は、まるで申し合わせたかのように、安堵の溜息をついた。
「兄ちゃん!」
ジルはディエルの元に一目散に駆け寄った。
「ジル……」ディエルは弟の眼前でわなわなと拳を震わせた。
「兄ちゃん? 痛っ!!」
鈍い音を立てて、ディエルの拳が容赦なくジルの頭に炸裂した。端から見ても、竜に与えた攻撃より威力が大きいとすら思える。しかしジルとてただの子供ではない。涙目を浮かべてうずくまっているのみである。
サイファはかがみ込んで、ジルの頭を撫でつつ、ディエルを睨んだ。
「ディエルと言ったね。何も殴ることはないのではないか?!」
「……元はといえば、そいつがいけないんだぜ」
さすがにばつが悪く感じるのか、ディエルはそっぽを向いて言い捨てた。
「オレを転移させる場所を間違えたんだから……まあ、でも」
ぽりぽりと頭をかくディエル。
「でもな……そのおかげでもある、かな。オレが今こうやって、ルード達と一緒に戦ってるってのは……おいジル!」
ディエルは、サイファと同様にしゃがみ、弟に声をかけた。
「なんだよぅ。まだ気がすまないの?」
ジルは憮然とした顔をディエルに向けた。
「……一発で我慢しといてやるよ。ほら、いつまでもその姉ちゃんに甘えてないで、立てっての!」
ディエルはぽんぽんとジルの頭を軽く叩く。ジルも渋々立ち上がった。兄弟の視線が交錯する。その時、お互い笑いあったかのように、サイファには思えた。表だって感情には示さないくせに、その実、兄弟同士がやっと出会えたことにお互い喜んでいるのだ。
「ディエル。そっちの人はどうしたんだ?」
剣士――ルードは汗を拭いながら、サイファ達に近づいてきた。ディエルが答える。
「こいつはオレの双子の弟でジル。オレと同じくトゥファール様に仕えてる。そして――」
ディエルの言葉を遮り、ジルは胸を張って紹介をはじめた。
「こちらの女性は、サイファ姉ちゃんさ! 話せば長くなるけどさ、姉ちゃんはこう見えても――」
「つもる話は後にしよう」
サイファが国王である、ということを話そうとしたのが分かったのか、とっさにサイファはジルの口を押さえた。
「ジル、そのことは追って私の口から話すよ。分かった?」
しばらくサイファの腕の中でもがいていたジルだが、彼女の言葉を聞いておとなしくうなずいた。
「急ごう。ここもじき、黒い雲にとらわれる」
白髪の若者――〈帳〉は静かにそう言い、サイファのほうをちらと見た。一瞬、眉を動かす。
(まさか、私の正体を見抜いたのか?)
サイファは内心焦ったものの、ここにいる者達には自分が国王であることをうち明けても問題ない、と直感的に感じ取っていた。
「その、……大丈夫なのか? あなたの服はずいぶんと汚れているのだけれども」
だが、サイファの懸案とは外れ、彼女の装束に〈帳〉は戸惑ったのだった。雨を浴びてずぶ濡れであり、しかも親友の血に濡れているのだ。
「あ。……そうだったな……私は……」
(私は、エヤードとルミを失ったのだったな……)
再びサイファの脳裏にルミエールの最後の微笑みが浮かぶ。今になって、彼女を失ったことがようやく実感となってサイファの胸中を支配した。
悲しみと同時に、極度の緊張のあまり、今まで忘れていた疲労が襲う。両足の力が一気に抜けて、どさりと、サイファは地面に倒れ伏した。
「姉ちゃん?!」
ジルが慌てふためくのを見て、〈帳〉は諭した。
「大丈夫だ。よっぽど疲れていたのだろうが、それを急に認識したのだろう。――彼女には、つらいことがあったのか?」
ジルは小さくうなずいた。
「とにかくここからはやく行かないと! この人を運ばなきゃならないでしょう?」
ルードが言った。
「いや。私がおぶっていこう」
言いつつも〈帳〉は、サイファを抱きかかえる。
「君がおぶうと言うのならば構わんが、ライカに何を言われるか分からんだろう?」
揶揄すかのように小さく笑みを浮かべ、〈帳〉はサイファを背負った。
「デルネア……」
サイファの口から漏れた言葉を〈帳〉は聞き逃さなかった。




