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フェル・アルム刻記  作者: 大気杜弥
第二部 “濁流”
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第八章 ティアー・ハーン (三)

三.


 黒い雲がまさに覆わんとしていた時には混乱の渦中にあったスティンの高原。災いが退いている今は、住民達も少し落ち着きを取り戻している。

 ここは今までの高原ではない。のどかな日常を過ごしていた羊飼い達は、住み慣れたこの地を離れようとしている。ほんの一日前まではとうてい考えも及ばなかったことだ。彼らの感情は、悲しみの一言で言い表しきれるものなのだろうか?

 だが、そんな人間の感情など些細なものとあざ笑うかのように、崩壊は着実に世界を侵しているのだ。


 ムニケスの山を下り、高原の村に戻ったルード達は、真っ先にルードの家であるナッシュ家の門を叩いた。

 予期せぬ天変地異に唖然となり、顔面蒼白となっていた叔母のニノだが、ルードの顔を見るなり彼女は破顔し、「よく帰ってきた」とルードの頭を抱えながらも涙を流した。

 従姉妹のミューティースも堪えきれずにルードをきつく抱きしめ嗚咽を繰り返した。緊張の解けたルードは感きわまり、二人の身体にうずくまるようにして大声をあげて泣いた。

 そして叔父のディドルはルードの肩を叩き、一言。

「よう帰ったな」

 はじめて聞く、アズニール語の叔父の声だ。だが、それは変わらず暖かみのある声だった。家族の愛。ルードはナッシュの人々の暖かい思いをひしひしと感じ、再び涙をこぼした。

「ただいま」

 ルードは泣きはらした顔を隠しもせず、家族に微笑んだ。


 皆の気持ちが収まり、一段落したところで、ルードはライカを迎え入れた。フェル・アルムの言葉を解さなかったライカは、はじめてアズニール語で名乗った。

 ルードの家族達には、ライカの髪の色は銀色に見えている。

 〈帳〉のかけていたまやかしの術は、すでに〈帳〉自身が解いていた。この期に及んで、もはや隠すことなど何もない。

「ねえ、ハーンとは会わなかったの?」

 ミューティースが訊いてきた。

(ハーン……)

 先ほど、ハーンの変容を目の当たりにしたルードは一瞬顔をこわばらせたが、首を横に振った。

「そう……。ハーンも君に会うのを楽しみにしてたみたいだったのよ?」

「うん……残念だな」

 ルードは言葉を繋げようとしたが思いとどまった。今さら嘘をついて何になると言うのか? ルードは言葉を正した。

「いや、違う。……そうじゃない。ほんとうは、ハーンには会ってきたんだ。ムニケスの山の中で、今さっき。俺達は、この場所でハーンに会えることを教えてもらっていたし、俺も会いたかった」

 ルードの口からは自然に言葉が流れた。

「だけど、ハーンは“混沌”を追い払うために自分をなげうって……いなくなっちまった」

「どういうこと?」

「ハーンは無事なのかい?」

 ミューティースとニノは、口々に訊いてきた。ルードは下唇をかみつつ、話すべき言葉を探したがついに出てこなかった。ルード自身ですら、未だに信じられない思いで一杯なのだから。

「……分からないよ。俺自身だって、ハーンのことで頭の中がぐちゃぐちゃになっちゃってるんだから。ねえ、ライカ?」

 ルードはどうすべきか、銀髪の彼女を見た。

「〈帳〉さんを呼んで、きちんと話したほうがいいと思うわ」

「そうしようか」ルードはうなずいた。「叔父さん」

「うん?」とディドル。

「……俺達は、家から出ていったあとに、いろんなことを知ったんだ。フェル・アルムのことを、それこそ色々とね。俺達は今まで、嘘で固められた世界で生きていたんだ。そして、そのつけが今になって現れてきてる。そうだな……」

 ルードは頭をぽりぽりとかきながら、言葉を続けた。

「……うまく言えないけど、俺とライカ、そしてハーンがお世話になった人を連れてきている。“遙けき野”に住んでる大賢人様なんだ。その人と一緒になって考えてほしいんだ。俺達が、スティンの人達がこれからどうするかをさ」

「……分かっとる。とんでもないことが始まろうとしてる、ってえのは俺にだって分かる。なあルード。俺とお前は今、こうやって何気なく話してるわけなんだが、こんな言葉、俺は今までしゃべったこともない。これだってとんでもないことだろう? それにな、クロンから逃げてきた連中や、ハーンも言ってた。『世界中がとんでもないことになってる』ってな。それと……そうだ、ハーンにはすまないことをしたって思ってる」

 ばつが悪そうにディドルは口を閉ざした。

「父さんは、ハーンが君を連れ去ったと思いこんでたからね。ハーンが昨日うちに来たんだけど、父さんたいそう怒ってね。ハーンの言うことを聞かないで、水をかけて追い返しちゃったんだから」

 やれやれといった口調でミューティースが言った。

「でもハーン……心配ね」

「大丈夫だと俺は思ってる。ハーンならきっと……」

 根拠など全くなかったが、ルードはそう思った。いや、そう思うほか無かった。

(ハーンとはまた会える。“混沌”の虜になるなんて考えたくもない! ハーンは無事に自分を取り戻すに決まってる!)

「〈じゃあ、帳〉さんを呼んでこよう」

 ルードはライカとともに、門の外で待たせている〈帳〉を呼びに行った。


「父さん?」ミューティースは不安げにディドルを見た。

「これから何が起こるっていうの? さっきだってあんなに怖い思いをしてたって言うのに」

「分からん」

 ディドルは娘の頭をぽんと撫でた。

「だが、あいつを信じるしかないだろうて。大丈夫だよ、ミュート。ルードは大きくなってここに帰ってきた。大丈夫だ」

「そうね。でもルードが無事でよかったよ……ほんとに」

 ニノの漏らした言葉に、三人はうなずいた。

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